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歌仙詠物語6
桃源郷

 明るい時間は刀に槍、弓に馬術に体術の鍛錬、日が落ちれば月明かりで書を読むが、内容は布陣や計略、哲学や歴史、論述の類。

 着物や装飾品に興味を示すこともなく、菓子より肉や薬草を好み、口を開けば美男子の噂より軍略や政治の問答。

 これが、もうすぐ十六になろうとする娘の暮らしぶりとは思われないが、事実、玲凛の日常だった。

 兄である玲陽でさえ、その成長した姿に、ため息を漏らす。

 ましてや、玲凛の美しい容姿に惹かれて屋敷を覗き見る、都の年頃の男たちからすれば、あまりに口惜しく歯痒い想いであろう。

 声をかけようにも隙がない。

 ならば、と武術の稽古を理由に試合を挑めば、たちどころに叩きのめされる。

 そんな玲凛に、浮いた話が出ないのには、もう一つ、理由があった。

 玲陽という、厳しい小舅の存在である。

 犀星を独り歩きさせるわけにはいかないため、買い物はたいてい、玲陽と玲凛の兄妹の時間である。

 都の地理に明るくない玲凛を一人で行かせることもできず、だからといって、犬猿の仲である東雨を同行させることもできない。

 いつしか、都への買い出しは、玲陽と玲凛か、犀星と東雨、という組み合わせに収まっている。

「兄様、もう、道は覚えましたから、私一人で十分です」

 玲凛が都へ来て一ヶ月、彼女の言葉に嘘はない。飲み込みの速さ、記憶力の良さは周囲が舌を巻く。

 だが、玲陽はこれだけは譲らなかった。

「凛どの」

 寂しそうな目元で妹を見て、

「私はあなたともっと、一緒にいたいのです。歌仙では、こちらの事情で、それも叶いませんでした。せめて、あなたが伴侶を迎えるまでは、兄として、共に過ごす時間をください」

「そんなの、口実じゃありませんか」

 玲陽の純情を、玲凛はバッサリと切り捨てた。

「私が喧嘩っ早くて、揉め事を起こすとでも、思っているんでしょ? 信用してないってことですよね?」

 玲陽は、やれやれ、と首を振った。確かに、それも理由のうちに入ってはいたが、ごく些細な割合である。少なくとも、玲陽にとっては。

​ 玲陽の本心を、玲凛は知らない。もっとも、玲陽自身、それに気づいたのはごく最近のことだったが。

 先日、玲凛が庭で弓の手入れをしていたとき、裏口からこっそりとそれを覗く青年を、玲陽は廊下の曲がり角で見つけてしまった。

 勘のいい玲凛が、すぐに追い出したが、玲陽はその時の青年の眼差しに覚えがあった。

 好意を寄せる瞳。

 玲凛にその気はないが、彼女を狙っている青年は幾人もいる。

 正式に都人になった訳ではない玲凛が、いつ故郷に帰っても問題ないのだが、それより先に名のある者に求婚でもされれば、色々と厄介である。

 複雑な家系であり、玲凛は玲家本家の血筋、同時に親王である犀星の従兄弟だ。

 そんな玲凛の素性も知らず、ただ、容貌を頼りに近づいてくる男たちに、自分が不安にも似た、焦燥感にも似た、それでいてやはり、面白くない感情を抱いていることを、玲陽は最近、観念した。あまり負の感情を持たない玲陽だが、こればかりは認めざるをえなかった。

「凛どのは、私の大切な妹です」

 彼には珍しく、少々ぶっきらぼうに、玲陽は言った。

「一人にして、もし、何か良くない者でも近づいてきたら……」

…………兄様?」

 ああ、バレた。

 玲陽は覚悟する。自分が子供っぽく、玲凛に絡む男達に嫉妬していることに気づかれた。

 毅然と振る舞ってきたつもりだったが、結局のところ、玲凛が可愛くてたまらないのだ。この世で、たった二人の兄妹だと思っている。犀星や東雨に対する思いとは別に、玲凛は特別だ。兄として、と言う口実をどれだけ使っても、そばにいたい。許されるうちは……

「そ、その、凛どの……」

「あれ、何でしょうか?」

 言い訳をしようと口を開いた玲陽を、玲凛は遮って、行手を指差した。

 どうやら、玲凛は玲陽の気持ちに気づくより、見たことのない出店看板に気を取られていたようだ。

「あ……」

 ホッとしたような、ドッと疲れたような気持ちで、玲陽は改めて看板を見た。

「あれは、有名な物語の題名ですね。陶淵明という作家が書いた『桃花源記』という作品です」

「本を売っているんですか? それにしては、随分な人だかりですね」

「芝居小屋……でもないようですし……」

 玲凛が、男勝りなこと以外に興味を持つのを新鮮に思い、玲陽はそっと手を繋いだ。

「兄様?」

「行ってみましょうか? 人が多いですから、はぐれないように、手を離さないでください」

……はい」

 珍しく、照れたような玲凛に、玲陽は、先ほどまでの嫉妬心すら忘れてしまう。

 可愛い妹は、やはり、彼の可愛い妹なのだ。

 絶対に、ロクでもない男になど、触らせてなるものか。

 仙如のごとき俗世離れした玲陽にも、人間の情が残っていたらしい。

 玲陽は周囲に警戒しながら、ぐっと玲凛の手を強く握った。

 嫌がるか、と思ったが、逆に指を絡めるように握り直してくる玲凛に、玲陽の方が驚かされる。

 この子はやはり、私の気持ちを全て見透かしているのではないだろうか。

 そう考えると、玲陽は頬が、紅潮してくる気がした。

 店先の人だかりを覗き込むと、看板の裏に卓を置き、何やら粉薬を売っている男が目に入った。

「お薬? 兄様の傷痕に効くといいのですが……」

 玲陽の痛々しい体を気遣って、玲凛はじっと店主の話に耳を傾けている。

 始めは同様に聞き入っていた玲陽だったが、その薬の正体に気づいた瞬間、血の気が引いた。

 媚薬だ。

 つまりは、この薬を使えば、性感が高まり、理性も薄れ、桃源郷にいるかのごとき快楽悦楽に溺れてゆく、しかも、男女問わずに効果があり、まぐわえば三日は夢心地……

 下賎な言葉を選んでの口上だったため、玲凛は理解していないらしい。

「兄様、桃源郷へ行けるお薬、って……あ!」

 玲陽は真っ赤になった顔を伏せたまま、玲凛を人だかりから引っ張り出すと、足早に屋敷への帰り道を急ぐ。

「ちょ、ちょっと、買い物、まだですよ!」

「食事は残り物で済ませます!」

「え? どうしたんです、兄様?」

 顔を上げることも、振り返ることもなく、黙って玲陽に引きずられながら、玲凛は混乱していた。

「あ、危ない!」

 玲凛の声と、玲陽が前からきた人物にぶつかるのは同時だった。

「あ! す、すみません」

 玲陽はようやく立ち止まって顔を上げた

 そして、激しく後悔した。

 自分を見下ろしていたのは、よりによって蓮章である。

 知り合いに、赤らめた顔を見られるのは、何より嫌だった。

「どうした? 色々珍しいな」

 蓮章はいつもの調子で軽く、

「いい年した兄妹が手を繋いで急ぎ足、兄の方は顔を赤らめて気まずそうだし、人目を避けてこのまま連れ込み宿にでも行くつもりか……!」

 パン! と乾いた音がして、玲陽は空いていた手で蓮章の頬を引っ叩いた。

 叩かれた蓮章も、目撃した玲凛も驚いたが、玲陽本人が誰よりもうろたえ、どうしたら良いかと声も出ない。

「全く……」

 蓮章は困惑に泣きそうな玲陽を見て、逆に声を上げて笑った。

「どれだけ初心なんだ、お前は」

「そ、そんな……あの………も、申し訳ありません!」

 玲陽は耳まで赤くして、どこを見て良いかもわからず、仕方なく、下を向いた。

「引っ叩かれるのは慣れてるが、まさか、お前にまでされるとはな。光栄だ」

 蓮章は下を向いたままの玲陽の顎をつまんで上向かせると、ためらいなく唇の横に、際どく口付けた。

「ちょっと!」

 黙って成り行きを見守っていた玲凛が、二人の間に強引に割って入る。

「兄様になんてことするのよ!」

「……いや、なんてこと、って……むしろ、殴られたのは俺なんだが……」

「あんたが失礼なこと、言うからでしょ! 謝りなさいよ!」

「り……凛どの……」

 目を釣り上げて本気で怒る玲凛を、蓮章は呆けたように見つめ返した。

「兄様はね! 私の大事な大事な兄様なの! それに、星兄様の大切な人なの! あんたなんかが触っていい相手じゃないのよ!」

「わ、わかってるって……」

「だったら、謝れ! 土下座しろ! 今、ここで!」

 玲凛の剣幕に驚いたのは、蓮章よりも、むしろ玲陽の方である。往来の者たちも、彼らのやりとりを面白がって足を止め始めている。

「凛どの……こんな道の真ん中で、これ以上、蓮章さまに恥をかかせてはいけ……

「兄様は黙っていて下さい!」

「で、ですが……」

「いや、全く、凛の言う通りだな」

 怒るか、と思った蓮章が、困ったように頭をかいた。

「悪かった。今夜、詫びを持って改めて訪ねるから、土下座は勘弁してくれ」

「星兄様にも、東雨にも、全部話しますからね! 遺書を書いておく事です!」

「え……そんな……」

 俺、そこまで悪いことしたのか? と助けを求めるような蓮章の目に、玲陽の方も困惑しきり、である。

「さぁ、行きますよ、兄様! やっぱり、兄様を一人で都に行かせるのは駄目です。悪い虫がつきます!」

 それは、こちらの思惑だったのだけれど……

​ 玲陽は情けなさそうに見送る蓮章を何度も振り返りながら、今度は玲凛に引っ張られて屋敷へと戻った。

 

 結局、備蓄していた食材でありあわせの夕餉の支度をし、玲陽は庭に面した部屋の椅子から晩春の景色を眺めながら、頬杖をついて夕刻を過ごしていた。

 犀星と東雨が五亨庵から戻るのも、間も無くだろう。

「あの……」

 と、気配がして、先ほど、蓮章を怒鳴りつけた勢いはどこへやら、玲凛がうつむき加減にこちらを見ていた

 手招きして、隣に座らせると、玲陽はまた、庭の草花に目を転じた。

「怒っています……よね?」

「何がです?」

 玲陽の声色からは、感情が読み取れない。こういう時の玲陽は、本当に何を考えているかわからず、ふとした拍子に逆鱗に触れる恐れがある

「その……蓮章様に失礼なことを言いました」

 玲陽はぴくりとも動かない。

「私、本当に頭にきちゃって…… いつも、喧嘩っ早いから気をつけなさい、って言われているのに……よりによって、宮廷の近衛の方に恥をかかせるようなことを……」

「彼を殴ったのは私ですよ

 そう言った玲陽の声はまだ、感情を欠いている。

「それはそうですけど……私が出る幕ではなかったと……いうか……言いすぎた……というか……」

 玲凛も、自分の言動が良くなかったことはわかっているのだが、腑に落ちないらしい。

 玲陽は長く息を吐き出した。

「凛どの」

「はい!」

「あなたは言ってくれましたね。私のことを……大切な兄だと。星の大切な人だと。……触れるな、と」

「…………はい」

「私はね」

「…………」

「同じ気持ちだったんですよ」

「……え?」

「あなたを、誰の目にも触れさせたくなかった。あなたにつく『悪い虫』から守りたかった」

「陽兄様?」

 玲陽は、すぐ隣に腰掛けている玲凛の耳元に口を寄せた。

「私はどうやら、厄介で面倒で、物分かりの悪い兄のようです」

「え?」

「あなたが輿入れするのは、難儀ですよ」

 玲凛は、きょとん、とした丸い目で玲陽の顔を間近に見つめた。そして、唇を緩めた。

「私もそう思います」

 決して、玲陽を拒んでいる訳ではない

「兄様のような素敵な殿方を知っていますから、それ以上の人を探すのは、至難の業です」

 玲凛は、そっと視線を庭に移した

「子供の頃、春ちゃんとよく、話をしたんです」

「春どのと?」

「はい。大人になったら、春ちゃんは涼景様、私は陽兄様のお嫁さんになるんだ、って」

「そんなことを……」

「でも、本当は、春ちゃんに話を合わせていただけだったんです」

「なぜ?」

「だって、わかっていましたから。兄様が、星兄様を好きだってこと」

「!」

「星兄様も、知ってたと思います。だって、陽兄様は、恋心を隠すのが下手ですから」

 急に頬が熱くなるのを感じて、玲陽は手で顔を覆った。それを見て、玲凛が笑う。

「ほら、すぐに顔に出る」

 恨めしげに、玲凛を見た玲陽は、観念して首を振った。

胸の内

秘めたる想い

あきざまに

君が心に

我は住みけり

(光理)

 

​「でも……」

 玲凛は、不意に憂鬱そうな表情を浮かべた。

「春ちゃん……本気なんです……だから……なんだか、怖い」

「凛どの」

「私は……兄妹の間に生まれました。でも、父上はああいう人だから、母上をただの女性としか見ていなかった。そこに、感情の葛藤なんてなかった。だけど、春ちゃんと、涼景様は違う。罪悪感や背徳感……二人が苦しむのは、いやです……」

 玲陽はそっと、玲凛の肩を抱き寄せた。

 女としての自分を否定するように生きている彼女の胸中には、禁忌への恐怖があるのかもしれない。

「何があろうと、あなたは私の大切な妹です。私は兄として、あなたを守ります」

​ 優しく肩を撫でながら、玲陽はそっと目を閉じた。

 確かに、兄と妹は微妙な感情を持つことがある。特に、孤立して育てば尚更だ。

 玲陽は玲凛を愛し、玲凛もまた、玲陽を愛している。

 だが、それは男女の情愛ではない。

 その分別だけは、玲陽にも、玲凛にもわかっている。それを悲しいとは思わない。

 いつか、玲凛が幸せに生きる道を見つけ、笑顔で手を振って、自分も見送ることができたなら、何も思い残すことはない。

 玲陽の玲凛への思いは、熱く、深く、甘い。

 自分は犀星と共にいられることで、最上の喜びを手に入れた。

 玲凛にも、同じ輝きを見せてやりたい。

​ 夕闇の濃くなる中、二人は身を寄せてひととき、静かな時間を過ごしていた。

​ その光景こそがまるで、桃源郷の絵図であるかのようだった。

「大体の経緯はわかったが……」

 犀星は、玲陽の手料理を幸せそうに、一口一口、運びながら、

「その流れでいくと、この後、蓮章が訪ねてくる、ということか?」

「遺書を持って」

 玲凛は、さらりと言って退けた。

 玲陽が苦笑いをし、東雨は大袈裟にため息をつく。

 この家では、基本的に全員が揃って食事をする。

 本来なら、家長である犀星が済ませたあと、他の三人の番となる上、東雨の立場ならば厨房脇の小部屋で一人で済ませるのが普通だ。

 だが、犀星と東雨がここで暮らし始めた当初から、なし崩し的に、全員で卓を囲むようになっていた。

 準列も儀礼もあったものではない。

「それで、いつ、いらっしゃるんだ?」

 当然のことを、東雨が訪ねた。その口調から、玲凛に向けた言葉であることは明らかだった。

「そんなの、知らない」

 玲凛も、そっけなく答える。

「兄様のお顔を立てて、あの場は収めたけど、私、怒ってるんだから」

「うーん……」

 東雨がどうにも、腑に落ちないという顔で、

「確かに蓮章様はああいう軽い性格だから、陽様をからかったのかもしれないけれど、陽様が誰かを殴るなんて、やっぱり想像つかないなぁ」

「だって、失礼なこと、言ったんだから!」

「あ、そ、そこは伏せて……くださいっ……!」

 玲陽が飲み込みかけた粥に咳き込んで、玲凛を止めた。

「大体、どうしてそんなに急いで戻ろうとしたんですか?」

 今度は、直接、玲陽に向かって東雨は尋ねた。

 玲陽が言葉に詰まる。玲凛も首を傾げた。

「確かに、随分、慌ててましたよね? 買い物もやめて帰る、って……」

「り、凛どのは知らなくていいことです!」

 思わず声を高めた玲陽の顔は、すでに赤らんでいる。

 まさか、媚薬売りだ、などと、妹に言えるほどの神経を、玲陽は持ち合わせていない。第一、玲凛が媚薬を知らなかったとしたら、何と説明すれば良いのだろう。

「凛」

 犀星が、玲陽の慌てぶりから察して、声をかけた。

「陽は、お前が良くない世界に引き込まれないよう、守ったんだ。都には、派手に着飾ったり、耳障りの良い言葉で客を騙す連中がいくらでもいる。お前は、大切にされている、ということだ」

「……星兄様が、そうおっしゃるなら」

 と、玲凛は頷いた。

「私はまだ、世間知らずってことですよね。もっともっと、都のこと、勉強しなくちゃ!」

「いや、だから……」

 犀星、玲陽、東雨の声が、期せずして重なった。

 勉強されたら困るんだ……

 男三人、それ以上、何も言えずにうつむいてしまう。

 悪い連中に騙されないよう、いずれはちゃんと説明しなければならないだろうが、揃いも揃って、女性の扱いには慣れていない面子である。その上、玲凛は床入り前の生娘である。枕絵一枚、見たことのない、箱入り娘…… 玲陽があの砦で何をされていたかは知っているはずであるから、知識が皆無ということはないだろうが、それを本人に尋ねる勇気はない。こういう時、女性の知り合いがいれば、間に入って説明してもらえるのだが……

 と、三人が肩を落とした途端、玲凛が溌剌とした声で、

「騙されて、媚薬でも買わされた日には、たまったもんじゃないわ!」

「!」

 さっさと自分の空いた食器を片付け、厨房に去っていく彼女の後ろ姿を、彼らは揃って呆気に取られた顔で見送った。

「……なぁ、陽。媚薬売りでもいたのか?」

「……ええ」

「凛のやつ、気づいてたのかな?」

「いえ、多分、たとえ話だと思いますけど……」

「これだから、アイツは面倒なんだ……」

 東雨が頭を抱えた。

 最初は、同年代の、それも、玲陽の妹で美しい娘、という話に一瞬浮かれた東雨だったが、実際に蓋を開けてみれば、どう扱ってよいのかわからないじゃじゃ馬である。本当はまだ、あまり宮中には足が向かないのだが、一緒にいるよりははるかによい、と、犀星について五亨庵で過ごしている。

 その時、玄関先で蓮章の声が聞こえ、東雨が急いで部屋を出て行った。

「陽」

「はい」

 食事を中断すると、頷き合った二人は、それぞれ、別れて部屋を出る。

 犀星は蓮章を守りに、玲陽は蓮章の来訪を玲凛に悟られることを防ぐために。

 とにかく、今、二人を会わせるわけにはいかない。

 玲凛の性格は、犀星も玲陽もよく理解している。少なくとも、これ以上、揉め事を大きくしたくない。第一、当の玲陽と蓮章との間には、すでにわだかまりなどないというのに、玲凛一人が腹を立てているのである。蓮章が不憫に思えるほどだ。

「蓮章」

 姿を見つけると、小声で犀星は呼びかけ、当然のように蓮章に抱きしめられていた東雨を取り戻した。

「何だ、せっかく可愛い東雨に久々に会えたのに……」

「俺で我慢しろ」

「お、いいのか? 個人的にはお子様より、親王を味わってみたいんだが」

「蓮章様!」

 思わず大声を出しそうになる東雨の口元を、犀星が後ろから手で押さえた。

「静かにしろ。凛に気づかれたら厄介だ」

「何だ、あの令嬢はまだ、怒っているのか?」

 何でもない、というように、蓮章はつまらなそうな顔をした。

「せっかく、話でもしようと思ったのに……」

「殺されますよ」

 東雨が冗談とも思えない調子で言った。

「凛は、俺たちでも手を焼くくらい、過激なんですから」

「へぇ。面白い」

 ペロリ、と唇を舐めて、蓮章がほくそ笑む。

「妙齢の気の強い美女……そそるね」

「おい、蓮章。それ、陽に言ったら、八つ裂きにされるからな」

 犀星が東雨同様、真面目に忠告する。

「陽のやつ、あれで相当な妹煩悩だから。近づく男は命懸けだ」

「本人も兄貴もそれじゃ、嫁入りには苦労しそうだなぁ」

「何を呑気な……」

 犀星は、厨房の気配を気にしながら、

「とにかく、今回のことは、陽をからかったお前が悪い。だが、殴った陽も反省している。今日のところはすまないが、ここで帰ってくれ」

「わかってる。俺もこの後、約束があるんでね」

「……女性ですか?」

 東雨が辟易して言う。

「ま、逢瀬には違いない」

 蓮章は手にしていた小さな風呂敷包みに、手紙を載せて、東雨に差し出した。

「今日の詫びに、ジャスミンの特選茶葉を手に入れてきた。陽が好きだっただろ? 寝る前に飲ませてやれ。それから、この手紙は俺の遺書だ。凛に渡してくれ」

「本当に書いたのか?」

「まぁ、中身は恋文だがな」

「はぁ?」

 東雨がまた、声を上げそうになる。

「蓮章様、悪戯も大概にしないと、本当に命を縮めますよ」

「先に、必ず、陽に読んでもらってくれ。凛に見せて、俺の命に響く問題があれば焼き捨てて構わん」

「……わかった」

 犀星は包みと手紙を目で追うと、蓮章を促して門まで送った。

「悪かったな」

 見送りがてら、犀星が心苦しそうに、

「お前にはとんだ災難だっただろ」

「別に。色々あった方が、人生は面白いんでね」

「救われる」

 穏やかな犀星の表情に、ふっと蓮章が真面目になる。

「なぁ、星」

「うん?」

「もし、本当に桃源郷のような世界があるとしたら、お前なら、誰を連れていく?」

「俺は行かない」

「どうして?」

「そんな世界より、きっと、この世界の方が美しいから」

「こんな、欲望と猜疑心、悲劇しか産まない世界が?」

「確かに、そうかもしれない。だからこそ、その荒れた世界で咲く花は、美しいんだ。そして強い。きっと、桃源郷の花々よりも、ずっと……」

荒野とて

荒波砕けし

岩礁に

花一輪の

君が如くに

(​伯華

 

……お熱いねぇ」

 参りました、というように、蓮章は首を振った。

「それ、陽のことだろ? あんだけずたぼろにされても、心は……そう、凛として折れない」

「蓮章……」

「わかるさ。あんたがそんな風に笑うのは、あいつのことを考えている時だけだ」

 自分は無意識に笑っていた?

 意図して、犀星は表情を固めた。

「そういうお前こそ、涼景に会いに行くんだろ」

 どこか、拗ねたように犀星は呟いた。

「愛が溢れて、隠しきれなかったか」

 完全にちゃらけて笑う蓮章には、一瞬見せた真面目な雰囲気などすでにない。

「蓮章……お前こそ、あいつのこと、どう思っているんだ?」

「何? どっちに嫉妬してくれてんの?」

「誰がするか!」

 犀星は思わず叫んで、屋敷を振り返った。幸い、気づかれた様子はない。

 決まり悪そうに俯いた犀星を、舐めるような蓮章の視線が辿る。

「あいつは、そんなんじゃねぇよ」

 蓮章は、ふい、と目をそらした。

「あんたたちみたいに、真っ直ぐに求めあえるなら、どんなにいいか……」

「え?」

「俺たちはただ……」

「蓮章……お前、涼景のこと……」

「おっと! 約束に遅れちまう。待たせるわけにはいかないからな」

 軽やかに馬の鞍に上がると、いつもの不敵な笑みを残して、蓮章は宮中の方へと駆けていった。

 相変わらず、せわしない奴……

 犀星はしばらく、その後ろ姿を見つめてから、空を見上げた。夕焼けの鮮やかな色と、東の空の一番星。

「桃源郷、か……」

 ふと、蓮章に言われたことを思い出す。

「連れて行けるものなら、俺はあいつと二人きりがいい……」

 蓮章には強がったものの、そして、それは決して嘘ではなかったものの、犀星はふっと息を吐く。

 あいつなら、なんと答えるだろう。

 俺を、選んでくれるだろうか……

 それとも、優しいあいつのことだ。この世の全員を連れていくと言うだろうか。

 犀星はそんなどこか切ない思いに駆られて、屋敷へと戻った。

 夜半。

 どうしても眠りが浅く、玲陽は寝返りを繰り返した。

 広く幅をとってあつらえている寝台とはいえ、隣で何度も動かれては、犀星も目が覚める。

「陽? どうした?」

 目を閉じたまま、完全に隙だらけで、犀星は囁いた。

「すみません……起こしてしまいましたか?」

 玲陽が上ずった声で答える。いつもとは違う響きに、犀星は目を開くと、黙って枕元の灯籠に火を入れた。

 ぼんやりと寝台の周りが明るくなる。

「傷が痛むのか? 今日は色々あったから、気持ちも疲れただろう?」

 こちらに背を向けたまま、玲陽は体を縮めて全身で呼吸しているように見える。

「おい、大丈夫か?」

 そっと肩に手をかけて、体を仰向ける。

 一瞬、潤んだような玲陽の目が見えたが、すぐに顔を背けられてしまった。

「何でも、ありません……」

「何でもないわけ、ないだろ?」

「兄様……」

「言ってくれ」

 玲陽の表情から、痛みや苦しみではないことを察して、犀星は少し、落ち着きを取り戻した。ただ、何かを深く考え込んでいるようだ。

「お前が一人で抱えて、悩むことなんて何もない。俺に全て打ち明けろ。遠慮されると悲しくなる」

「にい……星」

 呼ぶと同時に、玲陽は早い呼吸のままに、犀星に覆いかぶさるように身体をずらし、胸に顔を擦り寄せて甘えてくる。

「ふふ……どうした? 何か寂しいことでも考えていたのか?」

 子供をあやすように、犀星は玲陽を抱き返し、ゆっくりと背中を叩いてやる。

「あの……手紙……」

「手紙? ああ、『遺書』か。結局、凛には渡さなかったんだろ?」

「渡せません。あんなの……」

「俺にも見せずに焼いたくらいだからなぁ」

「星……」

 なおも強く犀星を抱きしめながら、玲陽は肩を震わせている。

「あれ、確かに遺書だと思います」

「え?」

「蓮章様の、涼景様に宛てた……本心を綴った遺書……」

「……内容は想像がつく」

「私は、あんな風になりたくない……」

「大丈夫だ。俺はちゃんとそばにいる。生きる時も、死ぬ時も、お前と一緒にいる。約束だ」

 こくり、と玲陽は顔を埋めたまま、頷いた

「なぁ、陽」

「はい」

「蓮章に訊かれた。もし、桃源郷に連れて行けるとしたら、誰を伴うか、と」

……兄様は、何と答えたんですか?」

「当ててみろ」

「私、ではないでしょう?」

「なぜ、そう思う?」

 犀星はこの世で最も尊い宝ででもあるかのように、丁寧に玲陽を抱きしめ直した。

「兄様は、昔から、本心を簡単には言わないから……蓮章様には強がって、行かない、とでも答えたんじゃないですか?」

「……お見通しだな」

 犀星はどこか嬉しそうに、幸せそうに微笑み、玲陽の額や髪を、ついばむ。その甘い感触に、玲陽の体から、少しずつ緊張が抜けていく。

「陽、お前なら、何と答える?」

「当ててみてください」

「そうくると思った」

 犀星は、夕刻からずっと考えていたことを口にした。

「お前なら優しいから、この世の全ての人を、と、言うかな」

「当たりです」

 玲陽はクスリと笑った。

「そして、あなたと私だけが、この世界に残るんです」

「え? 一緒に行かないのか?」

「それじゃ、二人きりになれないじゃないですか」

「…………」

「桃源郷なんて、どんな世界かわからない。そんな不確かなところにあなたを連れて行くことなんてできません」

「陽……でも、お前、他の者たちはみんなそこにやる、と言ったじゃないか」

「厄介払いですよ」

 玲陽は犀星の胸に顔を押し付けたまま、わずかに仰向いて目だけで犀星を見上げた。

「私は、優しさで皆を送るんじゃない。邪魔だから、消えてもらうんです」

 一瞬、玲陽の中に、自分を鎖で繋ぎ止め、自由を奪うほどの独占欲が蠢くのを、犀星は感じ取った。

 それは決して逃れることの出来ない、囚人をつなぐ足枷のような重さと絶対感を持っていたが、犀星には逆に安心を与えてくれる。倒錯する想い。愛する人に、支配されることへの渇望。

 ぞくり、と犀星の全身が総毛立つ。

 玲陽はそれを察して、悪戯っぽく笑った。

 笑みと共に、落ち込んでいた玲陽の心が、浮かび上がってくるのを感じる。

 蓮章……やはり、俺は、ここにいる。桃源郷なんか、俺にはいらない。この人さえいてくれたら、それだけで……

 静かに犀星の呼吸に合わせて、玲陽も身体を静めていく。

 暖かく、こんなにも安心できる場所。

​ 自分達はこれほど、底知れぬ幸せに包まれている。

​ これ以上、幸福に満ちた場所など、あるはずがない。

 二人の思いは、一つだった。

 贔屓にしている北の屋敷のくつろげる自室の小上がりで、涼景は文机の前に脚を崩して座り、小筆を手に、真っ白い紙をぼんやりと見つめていた。

 広げた紙の隣には、すでに手紙を包むための封が用意してあり、宛名だけは、伸び伸びとした右上がりの字体で書かれている。

​『燕花景 様』

 だが、中に収めるべき手紙本文は、白紙のままだ。

 涼景の妹、燕春・字を花景。文字通り、涼景の名から一字をとった字(あざな)は、彼女の兄に対する想いを、あかざまに語っている。

 彼女に最後に会ったのは、玲陽を迎えに歌仙に戻った時だった。

 燕家の屋敷には、最初の一晩しか滞在していない。

 玲陽の治療に追われたことも要因だが、涼景自身が意図的に避けていた、と言う理由の方が真実に近い。

 涼景は何度も、あの時の僅かなやり取りを思い出していた。

 自分に飛びついてきた妹の香り。初めて見た、紅を引いた化粧顔。そして、自分へ向けられた笑みと、声。

『逃げられはしない』

 燕春が放った言葉に、涼景は身体が震えたのだ。

 妹に女を見てから、涼景は実家に帰ることが恐ろしくなった。

 これが、妹の一方的な想いであるならば、家長として堂々と正し、説教でもするところであるが、悲しいかな、自分もまた、燕春と同じように、男女の愛情を捨て去ることができずにいる。

 そんな不安定な状態で燕春に会えば、何が起きるかわからない。

 暁将軍として、隣国にもその名と共に脅威と認識される涼景が、十五に満たない実の妹を恐れているなど、誰に言えるだろう。

 そんな涼景の葛藤を知っているのは、犀星と、蓮章だけである。

 犀星には、玲陽の様子を見てきて欲しい、と頼まれ、何度も歌仙を訪ねているうちに、自然と愚痴のように明かしてしまった。涼景が歌仙に戻りたがらないこと、何やら嫌がっている気配を感じた犀星が、自分が無理を言ったせいだ、と責任を感じたことが発端だった。犀星に非はないこと、を伝える弾みで、思わず、本音が転がり出た。幸い、犀星は人の秘密を漏らす性格ではない。その話題も、忘れたのではないか、と思うほど、犀星の方から蒸し返すことはなかった。

 蓮章はもっと簡単だ。

 幼馴染の蓮章には、妹を意識し始めた頃から、すでに見抜かれていた。

​『お前、最近、女にでも惚れたんじゃないか?』

 そう、蓮章に問われた時には、涼景は思わず本心を口走ってしまった。それっぽい嘘でごまかしてもよかったのでは、と後悔したが、たとえその場は乗り切っても、蓮章を長く騙し続けることは無理な話だった。彼は、涼景のこととなるとやたらと神経質であったし、何より、蓮章の後ろには、蛾連衆がいる。その気になれば、涼景の秘密を暴くくらい、訳ないだろう。

 手紙に集中できていなかった涼景は、入り口の方から聞こえてきた足音に、耳をそばだてた。

「蓮?」

「待たせたな」

 蓮章が訪ねてくることは、家人にも知らせてあったため、自分の許可は求めずに屋敷にあげたらしい。最も、突然来たところで、蓮章が涼景の家の者に追い返されることはない。あっさりと居室まで通される。夜中であれば、寝室まで平気でやってくる。ここまで寛容だと、涼景自身、自分の家人は蓮章にならば、自分が殺されても良いと思っているのではないか、と苦笑してしまう。

「どうしたよ、人の顔をじっと見て……」

 蓮章は、にやりとして、涼景の横に膝をつくと、息がかかるほどに顔を近づけた。

「そんなに俺が恋しかったか?」

「いや、俺はいつか、お前に寝首をかかれるか、毒を盛られるかするんだろうな、と」

「なんだよ、それ?」

 蓮章は鼻で笑った。

「夜這いをかけられる、くらい、色気のあることが言えないのか?」

「お前に色気は求めていない」

「悪かったな…… 俺に、相談があったんだろ?」

「ああ」

 涼景は、文机の上の白紙に向き直った。蓮章もつられてそちらを見る。

「なんだ? その紙」

「手紙だ。春へ……」

「一文字も書けていないじゃないか?」

「昨日から書いている」

「宛名だけな」

「本文が思いつかなくてな」

 蓮章は、情けない涼景の呟きに、目元を引き攣らせた。

「まさか、お前、相談ってのは……」

「ああ。何を書いたらいいか、と……」

「帰る」

「おい!」

 涼景が、逃すものか、と蓮章の着物の裾を捕まえた。

「一人にしないでくれ」

「はぁ?」

「本当に困っているんだよ!」

「知るか」

「頼む!」

「勝手に書けばいいだろ」

「書けないから、お前を呼んだんだろうが」

「お断りだ」

「蓮!」

「なんで俺が、恋敵への手紙を手伝わなきゃなんないんだよ」

「お前のそういう、軽い性格が頼りなんだ」

「軽いって……」

 蓮章はため息をついた。

「涼、お前、いい加減にしろよ」

 蓮章に睨まれて、涼景は手を離した。

「いいか?」

 蓮章はその場に足を組んで座ると、涼景を真っ直ぐに見た。

「手紙ってのは、もともと、伝えたいことがあって、書くものだろ?」

「それは、そうだが」

 涼景は、蓮章が逃げない、とわかって、少し安心した様子で声を落ち着けた。

「だったら、伝えたいことがなければ、書かなきゃいいだけだ」

「そうなんだが……」

 涼景の返答は、どうにも、歯切れが悪い。

 蓮章は、今までに何度も同じ理由で呼びつけられたことがある。

 何事も一人で背負い込んで、誰よりも勢いよく先へ進む涼景だったが、その彼の唯一苦手とするものが、燕春への手紙なのだ。

 これは、涼景の克服できない弱点とも言えた。

「せめて、月に一度くらいは書いてやらないと、寂しがるから……」

「はっきり言うがな、涼」

 蓮章は涼景の困り果てた顔を、まじまじと見ながら、

「もし、俺だったら、お前がそんな気持ちで、無理やり書いた手紙なんか受け取っても、嬉しくないぞ」

「…………」

 蓮章の言いたいことは、涼景にもわかっている。だからこそ、罪悪感を感じ続けてもいる。

「そろそろ、やめていいんじゃないか?」

 まるで、恨み言のように、蓮章は小声で言った。

「別に、嫉妬してる訳じゃ……いや、否定はしない。ただ、お前がそんな風に狼狽えているのを見るのは、辛い」

「蓮……」

「涼、どうするかはお前が決めることだ。だが、俺は…… もう、楽になっていいと思う」

 涼景は、じっと紙を見つめて、長く沈黙した。

 その横顔が、薄暗い灯籠の灯で照らされるのを、蓮章は上目遣いに見つめていた。

 涼景には、燕春に伝えたいことが、山のようにあるのだ。

 犀星が、玲陽に向けて毎日手紙を書き続けていたように。

 だが、犀星と自分の決定的な違いは、その想いを打ち明けられないことだ。

 燕春は、涼景を一人の男として愛している。

 彼女はそれを、一度として隠したことはない。

 始めは、兄を慕う妹としての言葉だった。涼景も重く受け止めておらず、幼い少女らしい夢だと、簡単に考えていた。

 しかし、月日が過ぎても、燕春の態度は変わらず、逆にその想いは強くなり、気づいた時には引き返せない所まできていた。それは、涼景も同じだった。

『お前、最近、女にでも惚れたんじゃないか?』

 蓮章の言葉が、涼景にそのことを気づかせた。

 どうやら、蓮章に対して妹の話ばかりする涼景を、不審に思ったらしい。

 いくらたった一人の身内であり、身体が弱く、自分を頼りにしている妹とはいえ、涼景の肩入れの仕方は限度を超えていた。蓮章は、幼い頃から涼景をよく知っている。だからこそ、本人さえ意識していなかった危うい感情に、いち早く気づくことができた。

 何かの間違いであって欲しい。

 蓮章も、涼景も、そう願ったが、現実は明白であり、残酷だった……

 涼景にできた、たった一つのことは、自分の気持ちを決して妹には明かさないこと。

 黙り込んでいた涼景が、辛そうに目を閉じた。

 この顔に、蓮章は弱い。

「わかったよ!」

 蓮章は観念した。

 結局、いつも自分は涼景を甘やかしてしまう。それが良くない、とは思いながらも、蓮章の気質は変わらなかった。

「蓮……」

 済まなそうに、涼景が振り返る。

「ああ! わかったから、そんな顔するんじゃねぇ!」

 蓮章はごろり、とその場に寝転んで、頭の後ろで手を組んだ。

「話題、出してやるから、それについて書け」

「助かる……」

 涼景は、ほっとしたように息を吐いた。

「(全く、呆れるお人好しだ、俺も……)」

 蓮章は複雑な胸の内を隠して、想いを巡らせた。

「今日、ちょっとした災難があってなぁ」

 蓮章は、昼間の出来事を思い返した。

「まぁ、美味しい想いもしたが……」

 どさくさに紛れて玲陽に口付けたことを思い出すと、自然と表情が緩む。

「涼、お前、桃源郷って知っているだろ?」

「桃源郷? あの、物語の話か?」

「ああ。お前、行きたいか?」

「そうだな…… 話に出てくるような、いい場所ならな」

「ふーん」

「でも……」

 と、涼景は一拍置いて、

「誰かが用意した世界など、つまらない」

「うん?」

「どうせなら、自分で作ってみたいものだな、そんな夢のような世界を。その方が、面白い」

「ふーん」

 実に、お前らしい答えだよ。

 蓮章は、口元に笑みをたたえて、

「それ、書けよ」

「え?」

「お前は、この世界を変えるんだ。自分の理想を書けばいい。どんな世界を作りたいのか、できるだけ詳しく、だ。そうすれば、手紙一通分くらいにはなるだろう?」

「……そうだな」

 涼景は少し考えてから、大きく頷いた。

「そうする。ありがとうな、蓮」

 涼景は、あてができたのか、迷わず筆を走らせた。

 その後ろ姿を、蓮章はどこか寂しげに眺めた。

夢現

夢ならばあれ

我が眼

​しかと開きて

この地なすなり

(仙水)

 

 結局、お前には、俺は映らないんだよな。

 蓮章は、横向きに体勢を変えると、目を閉じた。

 涼景には、燕春や、この世界の未来は見えても、隣りにいる自分は見えていない。

 ここにいることが当たり前すぎて、意識すらされない。

 それは、並んで歩くと決めた時から、蓮章も覚悟していたことのはずだった。

 それでも、やはり、辛い。

 この想いは、永遠に叶わない。

『桃源郷があったなら、行きたいか』

 蓮章は、自分自身に、その問を投げかけてみた。

 そして、一蹴した。

「(そんな世界、どこにもねぇよ)」

 夢幻。

 まるで、自分の恋心のように、想うだけ虚しい、幻にすぎない。

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