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外伝
つばくらめ
の夢

 犀星と涼景は、毎日のように顔を合わせる仲になった。

 それは、特に何か用事があるから、というよりは、慣例のようなものだった。

 犀星の戴冠式の後、二人の距離は急速に縮まり、すでに、腹を割って話すまでに深まっていた。

 これは、人見知りをする犀星にとっても、宮中で他者を信用しない涼景にとっても、驚くべき関係の変化である。

 変化、というよりは、本来からそうであったかのように、突然、そこに現れた奇妙な関係と言えるかもしれない。ただ一つだけ問題があるとすれば、それは、毎夜のように訪れる暁将軍のために、東雨が料理や酒の支度に奔走しなければならなくなったことだ。

 しかし、それを差し引いても、東雨にとって、涼景の存在はありがたかった。宮中で孤立する犀星が涼景と懇意であれば、他の宮廷人から無駄な嫌がらせを受けずに済む。

 もっとも、『歌仙親王は暁将軍のお手つき』という、ありきたりな噂が飛び交った時期もあったが、それは、両者の人柄が民衆に理解されるに従って、自然と消えていった。二人の毅然とした佇まいと、優秀な働きぶり、そして、民に対する心遣いある政策は、確実に都に浸透している。

 同郷とはいえ、毎夜の二人の話題に、歌仙のことは、まず出なかった。

 また、互いの家族の話も、どちらともなく、避けていた。

 彼らのもっぱらの話題は、兵法であったり、君主論であったり、農地の開拓計画から水害対策、税の配分や徴収方法、飢饉に備えた備蓄、あらゆる武術、時には医学などだ。遊びに来ているのか、政治目的での会談なのか、わからない。

 二人の世話をしながら、東雨は退屈極まりなかった。

 興味がない訳ではないのだが、自分が理解できない、難しい言葉が飛び交う。

 東雨も、犀星に仕えるために色々と学んできているが、二人の博学ぶりには、到底、及ぶところではない。

 二人とも、一度熱く語り始めると、冗談を言うこともなく、どこまでが本気とも知れないほど、際どい会話を避けなかった。

「宝順では駄目だ」

 と、涼景が酒を飲み干して言い放った時には、東雨は思わず、誰かに聞かれたのではないか、と飛び上がって驚いたほどだ。

「俺もそう思う」

 恐ろしいことに、彼の主人も、同意してしまう。

 酒が強くない犀星は、涼景より少量を嗜む程度で、幾分冷静であるようだが、軽率なことを言う男ではなかった。

 犀星は、東雨を振り返った。

「お前は、どう思う?」

「え? ど、どうって、何がですか?」

「宝順が、帝の器かどうか」

「そ、そんな恐れ多いこと、俺は何も言えません!」

 逃げるようにして、部屋を飛び出していく東雨を、犀星は呼び止めることなく、見送る。

「お前も、わかってきたようだな」

 涼景は手酌しながら、

「東雨を疑っているのか?」

「あいつには悪いが、信用はしていない」

「何か、根拠が……まぁ、いい。お前は、理由もなく疑うほど無駄なことはしない」

「なぁ、涼景」

 東雨がいなくなったためか、犀星は僅かに緩んだ声で呼んだ。犀星にとって、涼景は良き友であり、仔細は知らぬこととはいえ、敵ではないと考えている。何がそうさせるのか、涼景には犀星の警戒心を溶かしてしまう魅力があった。

「どうして、そこまで思いを巡らすお前が、兄上の近衛などをしている?」

「うん?」

「お前は、民衆にも、直接の臣下にも人気がある。その人望と地位があれば、できることがあるはずだ」

「……そうだな」

 涼景は更に杯を重ねた。

「考えたことが、ない訳ではない。だが、俺の首には鎖がかけられている。決して断つことのできない鎖が」

「その端を、宝順に握られている、ということか」

「まぁ、よくある話だ」

「自分のことならばともかく、他者の命を質に取られては、お前が動けるはずもないか…」

 犀星は、涼景の性根の優しさを十分に理解していた。よく、今までこの宮中で生きてこれたものだ、と思うほど、彼の心は暖かかった。いや、だからこそ、それに気づいた者たちが、彼を助けてくれたのかも知れない。

「星」

 不意に、涼景は立ち上がると、酔ったそぶりもなく、椅子に座る犀星の足元に恭しくひざまづいた。軍刀を抜き、犀星の足元に置く。最敬礼である。

「な、なんだ、突然。やめろ」

 驚いて犀星は涼景に手を伸ばし、立たせようとする。だが、涼景はじっと犀星を見つめ、動かなかった。

「歌仙親王。お前が立つと言うなら、俺はついていくぞ」

「涼景?」

「今、宝順を消して、後に何が残る? 空いた皇座につく者がいなければ、全てが無駄な戦いだ」

「……本気で言っているのか?」

 涼景の正義感溢れる薄い茶色の瞳は、しっかりと犀星の顔を写していた。

 長い沈黙の間に、幾千幾万の想いが互いの間を交錯する。

「……冗談だ」

 言って、涼景は大きく伸びをした。

「酔った。寝る」

 犀星の寝台に無遠慮に倒れ込む涼景を、犀星は何も言わずに見守る。こちらに背中を向けている暁将軍は、無防備そのものだ。自分の足元には、涼景が手放した太刀が残されている。今なら、自分でも容易く命を取れるだろう。謀反を企てる将軍を切るか、それとも、彼を縛る鎖を切るか。その選択を、涼景は自分に託した。

 それが、お前の本心か。

 犀星の心に、都で得た唯一の理解者であり、親友の想いが痛いほど伝わってくる。

 そこまで、この俺を信じるのか。賭けてくれるというのか。

 涼景の静かな寝息を聞きながら、犀星は自分に向けられた想いの大きさに、体が震えるのを禁じ得なかった。

 *

 

 燕涼景、字(あざな)を仙水は、河南省歌仙の出身である。

 燕家は元々賢者を排出し、文官という立場で朝廷に仕える者が多かった。

 しかし、時代は国境沿いでの争いが絶えず、内政よりも軍事が重んじられる時期を迎える。

 三代前の燕高尚の代で、官職を退くと、あとは与えられた歌仙の領地を静かに収める、没落貴族となった。

 そんな中、当時、一帯を騒がせていた流行病の影響もあり、多くの縁者が命を落とした。

 涼景の祖父であり、軍師にまで上り詰めた高尚も、発病して数日で命を落とした。

 残された父、燕冬雁(とうがん)は、息子、涼景を、幼いうちから領民を思いやる良君とするべく、厳しく教育した。そして、わずか六歳のとき、都の知り合いを頼って、涼景を宮中に上がらせた。

 元々文官としての素質が高い家柄であったが、涼景にはそれに加えて武術の腕前も備わっていた。

 幼児でありながらも、恐るることを知らず、真剣を用いて訓練に明け暮れた。

 それでいて、詩歌を好み、花を愛で、景色のうつろいを敏感に感じ取る、繊細な一面も持ち合わせていた。

 宮中の親衛部隊の試験に合格したのが、九歳のとき、そしてそこから、彼は誰もたどったことのない道を歩むこととなる。

 わずか十一歳で、近隣の民衆の反乱を鎮圧するため、一個小隊を預けられた。だが、全ては涼景を目障りに思う者たちの策略であった。どんなに優秀とはいえ、子供を将軍にするなど、そのような馬鹿げた人事があるものか。

 部下の兵士としては、子供に従うなど、冗談ではない。案の定、涼景は部下に裏切られ、見捨てられて、たった一人、村に取り残された。

 だが、涼景はそこまで計算のうちに入れていた。

 すぐに村の代表と会うと、一部始終を話した。

 自分の身の上も、帝の命令も、そして、このままでは、村を焼き討ちにする、という、極秘事項まで、全て話してしまったのだ。

 この村では高価な作物が栽培されており、一部は都へ献上されていたが、闇で村人たちが懐を潤しているという噂があった。そのため、帝の不満を買ったのだ。

 子供の言うこと、これも自分達を騙すための作戦なのではないか、と疑った村民も多かったが、村長は涼景の真摯な目と、堂々とした態度に、完全に策略と決めつけることはできなかった。

 幼くして、人々を惹きつけ、魅了する何かを、涼景は備えていた。自覚も自信​もあったわけではないが、それでも、彼の揺るぎないまっすぐな態度は、次第と人々の考えを動かしていった。

 涼景はただ、己の正義感に従っただけだった。

 父から教えられた、民のことを第一に大切にせよ、一人たりとも見捨ててはならぬ、という教えが、彼の生きる指針であった。

 それに従えば、焼き討ちにあうと知っていて、黙っていることなど、涼景にできるはずがない。

 村人たちは、猜疑心を捨てきれないまま、仕方なく、涼景を捉えて蔵に閉じ込めた。

 帝の怒りの原因となった作物は、ちょうど今が収穫時期である。その畑に火をかけるなど、あり得るはずがない、という意見が大半だった。

 だが、彼らは宝順の恐ろしさを甘く見ていた。

 宝順が怒ったのは、自分以外のものが金銭を儲ける、などという些細なことではない。自分への虚偽の報告、裏切り行為そのものに対してだ。その年、希少作物が壊滅することなど、宝順には、どうでもいいことだ。

 結局、半数の村人は、攻撃を恐れて村を離れ、山中へと隠れた。

 そして、村に残った者たちは、涼景の言葉通り、大火に巻かれて命を落とした。

 火がおさまり、村の中が静かになると、涼景は蔵を抜け出し、真っ先に、副将軍の元へ向かった。

 土蔵の中で、煙と炎の熱に痛めつけられ、身体中ススだらけで汚れ切った少年が目の前に現れたとき、副将軍は鬼を見るかのように恐れ慄いたという。涼景は作戦の中で、一人道に迷い、火事から逃げ遅れた、という彼の帝への報告は、必要なくなった。そして、同時に、立場上、決して許されない反逆の罪を背負うことも明白だった。

 しかし、副将軍以下、兵の前に進み出た涼景は、叱るどころか、笑って見せた。

 そして、他の兵士がいる前で、副将軍の勲功を褒め称えた。

 てっきり、涼景が泣き喚くか、怒りに任せて怒鳴り散らすか、と思っていた兵士たちは、その意外な対応に、完全に敵意を削がれてしまった。

 涼景は、火事で死んだ者たちを弔うよう命じ、隠れていた村人たちには、帝との間を取りなす約束を取り付けた。

 こうして、わずか十一歳の少年将軍は、一夜にして、兵からも民衆からも、羨望を浴びることとなったのである。

 だが、これは、決して、涼景にとって、良いことばかりではなかった。

 当然、帝の耳にも、すぐに涼景の評判が届く。

 それまでは、没落貴族の燕家の嫡男が、どうにか食い下がろうとしている見苦しい姿、としか思っていなかった宝順も、この働きに興味を持った。

 それ以来、宝順はことあるごとに涼景を呼び出すようになる。

 始めは、その剣術、知識を試すように、強敵をあてがい、難問をぶつけた。

 涼景はどんな相手にも冷静に対応し、帝がのぞむ答えに辿り着いた。時には、宝順の想像を超えていることさえあった。

 こうなると、独占欲の強い宝順のことである。決して、自分以外の者に、涼景を預けることは許さなくなる。

 近衛兵として、自分の側を守らせるようになったのは、涼景が十三歳になった頃だった。

 この年齢の男児は、性の対象として周囲から声がかかることが多い。声をかけられた方も、相手をすれば金品が与えられるため、金のために体を売った。

 しかし、涼景は違っていた。

 貴族たちは、日増しに精悍に、美しく育っていく燕将軍を欲してはいたが、その後ろには、帝がいる。

 手出しをしようものなら、自分の命がない。

 唯一の機会は、涼景が戦のために遠征する時であったが、そういう場合は、涼景直属の臣下が、彼の側を固めていた。この者たちがまた曲者で、涼景を下賤な目で見ることをしない、言うなれば真の忠臣であった。

 文字通り、誰も、涼景の肌に触れることはできなかった。

 そして、自分を取り巻くすべての状況を、涼景はよく理解していた。

 自分は、帝がいればこそ、人として無事でいられるのだ、と。

 周囲には信じ難いことではあったが、宝順は一度も涼景の身体を求めたことはなかった。一方的に自らに奉仕させることもしなかった。涼景にとって、それはありがたいことであると同時に、どこか、不気味ですらあった。

 かといって、肉体的に触れずとも、宝順の涼景に対する性的な責め苦がなかったわけではない。

 毎夜のように、宝順は男も女も関係なく、伽の相手をさせた。

 涼景はその時、帯刀したまま、それを見守らねばならなかった。

 近衛である以上、当然の任務ではあったが、宝順のそれは、まさに涼景に見せつけるためのものであった。帝はよく、情事の最中に、涼景に話しかけた。それは、兵士の訓練のことであったり、遠方の地域の情勢であったり、と、色ごととは全く関係のない話だ。

 涼景は静かに、その問いかけに答えた。

 そうやって、否が応にも、生理的に沸き起こる涼景の欲望を、ねじ伏せるのが、宝順のやり方だった。

 年齢を重ねるにつれ、涼景も大人になる。

 目の前で起きていることに、体の反応を抑えられなくなってゆく。

 まさに、宝順はそうやって、じっと堪える涼景の顔を眺め、いたぶることを楽しんだのである。賢く、腕も立ち、人望もある若い涼景への嫉妬だったのかもしれない。その王者にも近い風格が肉欲に屈していく姿を、宝順はじっと見守った。

 宝順帝とは、そのような人物であった。

 表向きは、温厚な物分かりの良い帝を演じてはいるが、こと、色欲に関しては明らかに何かが狂っている。それは、経験のない涼景にさえ、異常であると感じられたほどだ。

 だが、現実に、帝に逆らう者はなく、伽の相手もそれなりの報酬を得て満足しているのだから、責める理由にはならない。逆らう者があれば切り捨てるのが自分の役割だと知りつつも、万が一、そのような状況が訪れたとき、自分は本当に相手を斬れるだろうか。涼景は何度も自分に問いかけ続けた。その時、必ず脳裏をよぎるのは、歌仙に残してきた家族のことだ。自分に領主の何たるかを教えてくれた、尊敬する父と、身体が弱いながらも、大切に慈しんで育ててくれた母の温もりは、都に来てからも忘れたことはない。年に一度、帰省するたびに、両親に会える喜びが、涼景を支えていた。

 自分が、帝の近衛になったことを、両親は喜んでくれた。彼らを悲しませることだけは、絶対にしたくはない。そばにいて、息子として孝行できない自分には、せめて、心配をかけないことだけが…

 そんな想いの中で数年が経ち、涼景は身体を犯されることもなく、十六歳を迎えた。すでに、剣術の腕も周囲に敵う者なく、学問にも芸術にも秀でた才子であり、帝の寵愛も厚く、そこに生まれ持った容貌の端麗さが加われば、密かに涼景を利用しようとする者が現れてもおかしくはなかった。

 特に、涼景を幼い頃から世話してきた遠縁にあたる緑翔(りょく しょう)は、あわよくば涼景を宰相にまで押上げ、自らもその後見として権力を握ろうと企てた。

 後に、緑翔の変と言われるこの企みは、涼景本人の知らないところで密かに進められ、宮中には不穏な動きが見え始めていた。まず、涼景と並ぶ可能性のある者、出自の高い者、現在の宰相の縁者たちの不祥事が、次々と捏造されては、処分の対象となった。緑翔に協力し、自分もその一派に加わろうとした者たちは、裏工作に明け暮れた。

 何も知らない涼景は、ただ、最近頻発する帝への不義に閉口し、宮中で何かが起きている気配を悟りながら、まさか、その黒幕が自分の育ての親とは、露とも思ってはいなかった。

 そんな彼に、ある夜、突然の悲劇が訪れることになる。

 いつもと同様、帝の寝室に向かうと、普段より、警備の目が多いことに気づく。

 今日の伽の相手が特別なのか、それとも、帝を脅かす情報でもあるのか。考えを巡らせながら、寝室へと入った涼景は、一瞬、時刻を間違えたか、と疑った。

 伽の間に、いつも通り、宝順は酒を手に座っている。だが、夜伽相手がいるはずの席が、空席のままだ。

 そういうことか!

 時が来たことを、涼景は悟った。

 いつもより警備が厚かったのは、相手が、自分だからだ。

 重い扉の音に、本能的に涼景は振り返り、閉まりゆく扉を拳で叩いた。

 ここを開けて! 嫌だ、俺は……

 声は出なかった。

 いつかは、こうなるとわかっていたはずだ。

 だが、どうして、今夜、突然に……

「仙水様……」

 すすり泣く声が聞こえて、涼景は顔を上げ、愕然とする。

 そこには、自分を今まで守ってくれていた、大切な部下たちが集められ、縛り上げられていた。

「陛下!」

 急に我に返り、涼景は帝に迫った。

「この者たちが、何をしたというのです! 縄をお解き下さい!」

「そう、大声を出さずとも良い」

 宝順はいつものゆっくりとした口調で、涼景をちらりと見た。

「その者たちは、何もしてはおらぬ。罪人ではないゆえ、すぐに自由にしてやる」

「一体、どういうことです?」

​ 思わず興奮しかけた自分を抑えて、涼景は冷静になろうと努めた。ここで自分が騒いだところで、状況は改善されまい。

「その様子では、本当にお前は何も知らぬようだな」

 宝順が手を上げて合図すると、部屋の屏風の奥から、何かをぶら下げた兵士が一人、姿を見せた。涼景の部下ではない。その兵士が手にしていたのは、紛れもない、恐怖に身開かれた目をした、緑翔の首だった。

 兵士はそれを無造作に、涼景の前に置いた。

「将軍、刀をお預かり致します」

 兵士は、呆然と立ち尽くす涼景の腰から、刀を鞘ごと取り去ると、部屋の奥へ下がる。

「お前の後見人に、間違いないな」

 宝順は、なんでもない、というように言った。

「はい……たし……かに……」

 十年間、世話になった男の首を前に、涼景は悪夢の中を彷徨っていた。逃げ場はどこにもない。

「そいつが、お前を担ぎ上げて、私腹を肥やそうとしていた」

「そんな……」

「そのために、朕が目をかけていた者たちが迷惑をしてな。責任をとって、こうして首だけになってもらったというわけだ」

「どうして……」

 膝をついて嘆く涼景を、じっと観察していた宝順は、涼景が本当に何も知らなかったことを確信したらしい。

「お前に罪はない」

 声色を和らげて、宝順が言う。

「むしろ、お前を利用しようとしたその男に、お前が罰を与えるべきところだ」

「……陛下のご意志に背いたこと、嘆かわしく存じます。しかし、恩を受けたこともまた事実でございます。わたくしめに何をせよと?」

「その首の口を使え」

 瞬間、その場にいた全員が息を飲んだ。

「な、なんと……おっしゃられたのか……」

 涼景が声を絞り出す。宝順は無表情のまま

「その首の口を使って、朕に自慰を見せろ」

「!」

「そうすれば、そいつの家族は助けてやろう」

「な……」

「できぬというか、涼景」

 名を呼ばれて、涼景の身体が硬直する。宝順は本気だ。冗談や脅しで言っているわけではない。

「お前も男だろう? それとも、朕が知らぬうちに宦官になったか?」

「…………」

 これほど、哀れに震える涼景を、部下たちは初めて見た。

 戦の場で、どのような戦況でも勇猛果敢に戦う彼が、敵を恐れたことなど一度もない。部下たちにとって、年下ではあっても、涼景は命を預けられる信頼に足る人物だった。

 だからこそ、彼がよからぬことに巻き込まれることが無いよう、心からの敬意を持って仕えてきたのだ

 自分達が守り、自分達を守ってくれた涼景への、あまりに非道な仕打ちに、部下の何人かは堪えきれず、泣きながら頭を垂れた。

 涼景自身、生まれて初めて、どうして良いかわからない状況に立たされ、困惑したまま、見開かれた緑翔の首を見つめた。

 緑翔の罪が真実なら、宝順が打首にしたことも納得ができる。だが、それ以上の仕打ちは、必要ないはずだ。

 ……いや、違う。

 涼景はわずかに残された冷静な思考を必死に巡らせた。

 これは、俺を縛り付ける鎖だ。

​ 帝をないがしろにするとどういうことになるか、将来、自分が自分の意思で、緑翔と同じことをせぬよう、自分自身に思い知らせるための……

 覚悟するしかなかった。

 涼景は震えながら、帯を解いた。

 指が思うように動かず、何度も手間取りながら、羽織を緩めると、襦袢の紐を解き、合わせの中に手を差し入れる。自分のものに触れたが、とても、帝が望むようなことができる状態ではない。むしろ、全身が萎縮してしまっている時に、恩人の生首で自慰行為に及ぶなど、正気の沙汰でできることではない。

 どうしたらいい?

 許しを乞うか?

 いや、そんなことで、宝順帝が緑翔の家族を放免することはない。それは、ずっと近くで見てきた自分が、一番よく知っているではないか。この帝は、人命に関しては恐ろしく冷徹であり、言ったことは決して曲げはしない。

「どうした?」

 表情一つ変えずに、机に頬杖をつきながら、宝順は涼景を見つめている。

 できない……

 それが、涼景の答えだった。

 羞恥心のためではない。緑翔への恩義のためでもない。

 もっと単純に、人として、してはならない!

「手伝ってやれ」

 完全に動けなくなってしまった涼景を前に、宝順は涼景の部下の一人の縄を解くよう、命じた。

 今まで、生死を共にしてきた涼景に対し、彼らに何ができようか。

「橋(きょう)」

 よろめきながら、自分の前にひざまづいた部下を、震える声で涼景は呼んだ。

「お前には、妻子がいたな」

 涼景は、李橋(り きょう)の身の上を思い出した。

「すまないが、手を貸してくれ」

「仙水様!」

 たまらず、李橋が叫ぶ。

 涼景はゆっくりと首を横に振った。

「いいんだ。今、生きることだけを考えろ」

 ここで帝に逆らえば、李橋本人も、彼の家族も無事ではすまない。

「お許しを……」

 李橋は、緑翔の首を手に取ると、硬直していた口を無理やりに開かせた。

 涼景は自分のものに手を添えて、むせぶような声を堪えながら、首だけとなった恩人の口中へと差し入れた。

 血を抜かれ、青黒く変色し、冷え切ったその首は、涼景のものを収めるには不十分だった。頭蓋骨の付け根から切り落とされているため、口腔の空洞を貫き、涼景の先端が喉の切り口から突き出る

 思わず、李橋が目を逸らす。その様子を、宝順だけは平然と眺めている。

「仙水様……」

「橋、許してくれ…… お前に、こんな真似をさせるなど……」

「私のことなど、どうでも良いのです。おいたわしい……」

「涼景」

 宝順が、二人のやり取りを遮った。

「人の首が重たいのは知っているだろう。可愛い部下にいつまで持たせている気だ。お前が精を放てば、それだけ早く楽にさせてやれるぞ」

 自分で自分を慰めることなど、したこともない。

 涼景が、そういう男だと、宝順は知っている。だからこそ、すぐ近くに置き、常に人目が届くよう、見張らせてきた。そして、自分自身の性行為を見せつけ、罪悪感を植え付けてきた。

「優秀なお前が、やり方を知らないわけは無かろう」

 さらに煽る宝順に、涼景は観念するしかなかった。

 恐る恐る、腰を動かし、自身を擦り付けていく。李橋の手が震え、欠けた緑翔の歯が、涼景に触れてくる。

 高まりなどない。狂いそうな自責の念と、痛み、そして、屈辱の味だけが、どんなに必死に動いても、募るばかりである。

 宝順は満足そうに、苦悶に歪む涼景の顔を眺めていた。

「死んだ恩人の口内は、どんな具合だ?」

「…………」

「答えよ」

「…………つ、冷とうございます」

 それだけ言うのが精一杯で、涼景はその場に泣き崩れた。

 ごろり、と、緑翔の首が転がる。

 橋は思わずそのそばに平伏した。宝順は足早に近づいてくると、主人を抱き起こそうとしていた李橋を蹴り飛ばした。

「橋! その者はお許しを!」

「なんだ、ちゃんと声が出るではないか」

 宝順の態度が、先ほどまでと一変していることに、涼景は死を覚悟した。狂気の目だ。こうなった宝順は、もう、何を言っても無駄だ。気が済むように、全てを差し出すしかない。

 宝順の手には、いつしか匕首が握られている。

「忘れるな」

 まるで、料理人が肉を捌くように、なんのためらいもなく、宝順は匕首の切っ先を涼景の右頬に深々と突き刺した。突然の激痛と恐怖が、涼景から意識も抵抗する力も奪っていく。近くで見ていた李橋が、悲鳴を上げた。その声を気にすることもなく、宝順は刃を引き、頬から口元まで、切り裂いていく。

「お前は、朕のものだ」

 吹き出した返り血を顔面に浴びながら、宝順は今の傷に重ねるように、さらに十字に傷を開けた。

 頬の肉そのものを貫通する傷口が開くと、周囲が驚愕する中、自らの夜着をたくしあげ、その傷口から、自分の陰茎を涼景の口中に押し込む。

 十文字に切り開かれた傷が、宝順のものが動くたびに、さらに裂けていく。そのたびに血飛沫が辺りに飛び散った。

 涼景の部下たちの幾人かが、耐えきれずに気を失い、また、幾人かは狂ったように泣き叫んだ。

 もっとも近くでそれを見せつけられていた李橋が、たまらず、自らの舌を噛み切る。宝順の荒々しい息遣いがそれに混じり、室内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。

 ただ一人、涼景だけが、魂が抜けたように声も上げず、されるがままに任せていた。半分閉じた目から、涙がとめどなく流れ、頬の傷に滲みていく。

 涼景の口と、頬と、陰部を交互に犯しながら、宝順が果てるたびに、一人ずつ、涼景の部下の縄が解かれた。

 最後の一人が自由になったとき、既に日は高くのぼり、室内の空気は濁って息をすることも辛かったという。

  

「あれ、寝ちゃったんですか?」

 東雨が、新しく酒を持ってきた時、既に涼景は主人の寝台で悠々と夢の中だ。

「らしいな」

 そう、つぶやいた犀星も、眠たげである。

「連日ですからね」

「東雨、お前は元気だな」

「まぁ、体力には自信がありますけど……それに、俺は、飲んでいませんから」

 いつものこと、と、東雨は涼景に掛布をかけてやる。その時、不意に涼景が寝返りを打って、こちらに顔を向けた。

「そういえば…

 東雨は机上の食器を片付けながら、

「なんか悪い気がして、本人には聞けないんですけど……」

「なんだ?」

「仙水様の頬の傷、どうしたんでしょうか?」

「傷? あの十時傷か?」

「ええ。どうやってついたのかな、って」

「刀傷じゃないのか?」

「うーん、それが、ちょっと不自然なんですよ。俺も、よく真剣を使って、怪我するんですけど……」

 着物の袖をめくって、東雨は腕を見せた。

「ほら、傷口の端の方が浅くて、真ん中が一番深くて、反対の端も浅くなる」

「必ずではないが、多くの場合はそうなるな」

「でも、仙水様の傷って、最初から深い……なんか、わざと突き刺して切ったみたいで……しかも、端の方は無理やり引き裂かれているみたいな痕なんです。刀で切られた後、引っ張られたような……」

「お前、よく見てるな」

「若様の怪我の手当てしているうちに、何となくわかるようになったんです」

「俺も、生傷が絶えないからなぁ」

「剣術の稽古に、真剣を使うからです! しかも、仙水様相手になんて、無謀すぎます!」

「わかった、わかった。涼景より強くなればいいだけのことだろう?」

「そういう問題じゃありません! ……あ、そうじゃなくて……」

 東雨はもう一度、涼景を振り返った。

「若様なら御存知かと思いまして。仙水様、どこであんな怪我をされたのか……」

「話は聞いていない。本人が言わないなら、こちらが聞くことではない」

 眠気を堪えきれず、犀星は立ち上がった。

「東雨、涼景が嫌うものは何か、知っているか?」

「え? 何でもよく召し上がりますけど」

「食い物じゃない」

 涼景の横に、寝転んで、犀星は親友に顔を近づけた。

「鏡」

「あ、そういえば……」

​ 東雨は思い出したように、鏡台を見た。犀星は、使う時以外はいつも鏡に布をかけていた。埃を嫌ってのことなのかと思っていたが、涼景がいつ訪ねてきてもいいように、との配慮だったのだ。

「おそらく、思い出したくないんだろう。だから、傷のことは何も言うな」

「そうですね……って、若様! 客間の寝台を使ってください!」

「それは涼景に言え。ここは俺の部屋だぞ…」

 そのまま、あっさりと眠り込んでしまった主人に、東雨はもう、何も言えなかった。

 天下の暁将軍と、民衆の信頼を集める歌仙親王が、一つの寝台で酔い潰れて寝ている。

 人に話せば面白がるだろうが、これは、自分の胸にしまっておこう。

​ まるで、子供のように無防備な寝顔の二人をみて、東雨はどこか羨ましく思うのだった。

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