外伝
敵か或いは
桜が綻び始めた朱雀園の中を、帝との初対面を終えた犀陽は、ゆっくりと木々を眺めながら歩いていた。
数日前に十五歳を迎えたばかりの、辺境育ちの若き親王は、行き交う華やかな装束の男女や、立ち並ぶ庭園の装飾、その奥に見える数々の煌びやかな建物には、一切の興味を示していないようであった。
ただ、懐かしそうに、膨らんだ桜の蕾を目で追っている。
「山桜だな」
独り言のように、彼はつぶやくと、そっと一本の木に歩み寄り、その木肌に頬を押し当てた。まるで、大切な人を抱くように、優しく、優雅な振る舞いを見せる。胸の中には、決して消えることのない、ただ一人の面影。瞼に焼き付いたのは、その人の、笑顔と、自分を拒絶した瞳。
わずか、十五年の記憶の全ては、その人と共にあり、そして、その人と共に、故郷へ残してきた。裂かれた心の傷に、宮中の華やかな景色は塩を塗り込むように思われる。
犀星の一歩後ろを荷物を抱えてついてきていた少年が、不思議そうに足を止めた。
「伯華様?」
少年は、今日から自分が仕える主人が何を思っているのか、さっぱりわからなかった。
つい先ほど、お前が世話をするように、と紹介されたばかりで、会話らしい会話もしていない。それどころか、一言も話しかけてもらえていない。
目を閉じて、じっと木肌の音を聞くように、犀星は無表情のまま、動く素振りがない。その顔から感情を読み取ることは、何者にも不可能に思われた。
通り過ぎていく宮廷人は、見慣れない少年二人を横目に、コソコソと噂をしながら、しかし、その正体に気づく者はいない。
犀星が都に呼ばれたのは、極秘裏のことであった。来月の親王の戴冠式までは、その素性を明かさぬように、帝から厳しく言われている。
しっかりとしたお墨付きのないうちに正体を知られれば、それを悪用しようとする者が現れるのが、宮中の習いである。犀星には、宮中にほど近いところに、帝から質素な仮住まいが与えられ、供も、この齢五つの少年一人である。
「あの、伯華様?」
少年、東雨(とうう)は声を潜めて呼びかけた。
「そう、呼ぶな」
最初の一言がこれか、という思いで、東雨はがっくりと肩を落とした。が、次の言葉に、逆に飛び上がるほど驚かされる。
「星、でいい」
「と、とんでもございません!」
幼いとはいえ、皇族の世話を任されるべく育てられた東雨である。一通りの礼儀は心得ていた。
「いいんだ。その方が慣れている」
「お心遣いには感謝申し上げますが、稚児の身で、ご主人様を名で呼ぶなど……」
「俺がいいと言っている」
「しかし……」
「言うことが聞けないのか?」
言葉自体はきつかったが、犀星は怒ってはいない。むしろ、感情がない。
思わず、東雨はひるんだ。
彼が知る宮廷人は皆が横暴で、好き勝手をしていた。
礼儀、と言う大義名分のもと、どれだけ、自分のような孤児が乱暴に扱われてきたことか。
だと言うのに、この年若い親王は、自分を一人前の人間のように接している。
「そ、それでは……」
東雨は必死に考えた。
素性を隠している以上、親王、と呼ぶことはできない。かと言って、犀星が言うように名を呼ぶなどもってのほかだ。
「で、では……」
東雨があれこれと考えている間、犀星はじっと、桜の幹の中を流れる水音を聴いているようだった。
「わ、若君様、というのは?」
「長いな」
「え?」
せっかくの東雨の発案も、あっさり断られる。
「それなら……若様、ではいかがでしょう」
「……いいだろう」
言って、犀星はようやく木から離れた。
この人は、一体何を考えているのだ?
東雨には全く想像もつかない。
着物が汚れることも気にせず、桜の木にしがみつくような奇人が主人とは。
「山桜は、好きだ」
まるで、東雨の心を読んだかのように、犀星は答えた。
「わ、若様がお育ちになったあたりには、山桜が多いのですか?」
少しでも、会話を広げよう、と東雨も必死だ。自分の主人が何を考えているかわからないようでは、これから先が思いやられる。
犀星は、今まで身を寄せていた桜の木に、今度はその背を預けて、空を仰いだ。
彼は、姓を犀、名を星、字を伯華。南陵郡歌仙の人である。
先代の帝のご落胤であり、生まれてすぐに母を亡くし、母の故郷へと都落ちしてそこで育てられた。
現在の皇帝、宝順とは、腹違いの兄弟となる第四親王である。
しかし、どうやら母親似らしく、先帝や兄の面影は感じられなかった。
じっと雲が流れるのを見ている主人を、途方に暮れて東雨は見つめた。
不思議な容姿をしている、と聞かされていたが、犀星のそれは、確かに人目を引くものだった。
本来であれば黒い髪が、深い蒼色をしている。遠目には分かりにくいが、近づくと、その美しい色と光沢に惹きつけられた。また、その瞳も、同じ蒼露のようであった。黒い瞳を囲む、碧玉のような虹彩には、他の者とは明らかに違う色合いが混じり、光の加減で玉虫色に輝くようであった。
彼の母親も、もちろん先帝も、そのような容貌は持ち合わせてはいなかった。
先ほど対面を果たした義兄の宝順さえ、初めてその姿を見たとき、何度も触れて確かめたほどだ。
綺麗だ、と、幼い東雨は素直に思った。
髪や瞳ばかりではない。整った顔立ちと、よく鍛えられた細身の身体が、絹の着物によく映えている。
このように見目麗しい者は、宮中でも珍しい。
多くの女性は分厚い化粧で素顔を隠し、美しさを装っていたが、犀星の姿は、まさに自然そのままのものである。
そんな犀星の稚児として仕えることができることを、東雨は楽しみにしていた。
しかし、外見はどうあれ、性格が変わり者であることは明らかだ。
「若様」
恐る恐る、東雨は声をかけた。
「そろそろ、お屋敷に戻りませんか? あまり人目につくのはよろしくないかと」
「そうだな……」
反論されなかった、と東雨がホッとしたのも束の間、
「そなた、名前は何という?」
「え?」
これまた、唐突な質問である。
先ほど、帝の前で顔を合わせたとき、確かに自分はしっかりと名乗ったはずだ。
この人、馬鹿?
思わず、泣きそうな顔になる東雨を見て、犀星はふっと優しい笑みを見せた。
その、花もほころぶような美しさに、東雨の表情が困惑に変わる。
「冗談だ。東雨、といったな。河北桂陽、智靖の生まれで、間も無く六歳。親を戦乱で亡くし、戦時孤児として宮中で育てられた。武芸も学問も優れていると。字はまだなかったな」
「は、はい……」
「俺を、物覚えの悪い奴だと思っただろう?」
「え?」
動揺した東雨の顔が、見事に肯定する。
「図星か」
「わ、私をからかっているのですか!」
思わず叫んでしまってから、東雨は慌てて口を抑えた。
「からかって悪いか?」
悪びれた様子もなく、犀星が言い放つ。
「冗談も言えないのでは、堅苦しくて窒息する」
「そいつは同感だな、歌仙親王」
声と同時、さっと身を翻した犀星の喉元紙一枚のところに、刀の切っ先が振りかざされた。
「さすが、犀侶香(さい りょこう)様のご子息、見事な勘と身のこなしだ」
突然、親王に襲いかかった男は、素直に刀を収めると、今度はその場に膝をついた。
「ご無礼をお許し下さい。燕涼景と申します。お待ちしておりました、歌仙親王」
「そなたは確か、帝のそばにいた近衛だな?」
「ご記憶いただけて、光栄です」
「他の者より、ずば抜けて隙がなかった。だから覚えている」
「燕将軍閣下です」
東雨も、地に伏して、そう知らせた。
「燕将軍……そうか、そなたが、燕家の……それで義父を知っていたのか」
「ああ」
顔を上げ、真っ直ぐに犀星を見ると、燕涼景はさっさと立ち上がり、服の埃をほろう。まるで、形だけ挨拶はしたのだから、もう、いいだろう、という無人ぶりである。だが、犀星は全く気にした様子もない。東雨だけが、焦りに焦っている。親王が突然怒り出したら、どうしたらいいのだ?
だが、それは完全に杞憂だったらしい。
「燕広播(こうはん)が嫡男、燕仙水だ。涼景と呼んでくれて構わない。お前の方が、位は上だ」
位が上、と言いつつ、お前呼ばわりとは……
東雨は、ひやひやしながら、額を地面に擦り付ける勢いで、ひれ伏している。
「そうか、暁(あかつき)将軍といわれた天才とは、そなたか」
「歌仙の辺境の出だから、歌仙親王、とは、随分馬鹿にされたものじゃないか。文句の一つも言わないとは」
「そなたは、歌仙が嫌いか?」
犀星は、涼景のどのような態度にも落ち着きを払っている。どうやら、怒りっぽいたちではないようだ。
東雨は恐々と二人を見上げてみた。記憶によれば、涼景もまた、南陵郡歌仙の出である。偶然にも、同郷の、しかも国の中枢に位置する二人が、顔を合わせたわけである。
「俺は五歳の頃に、宮中へ入った。故郷の記憶はほとんどない」
ぶっきらぼうに、涼景は答えた。
「そうか。私より、三つ年上だったな。俺は故郷を気に入っている。だから、この号にも、不満はない」
「そうか」
「それより、そなた……」
と、言いかけた犀星を、涼景が手で制した。
「その、仰々しい呼び方、やめてくれないか?」
「だが、宮中ではそう呼ぶのだろう?」
「普通はな。だが、お前と俺の仲だ」
今、出会ったばかりで、どういう仲だろう? と、思わず東雨は当然の疑問を浮かべた。
「星」
いきなり、名を呼ばれて、思わず犀星が瞬きする。
都に上がって以来、腫物に触るように接せられてきて、名を呼ばれたことなど一度もなかった。どこか懐かしく、涼景との距離が近く感じられる。
「俺たちは同胞だ。いずれわかるだろう。遠慮はいらん」
涼景は、ついてこい、というように、首を振ると、先んじて歩き始める。
まだ身分を明かされていない犀星と違って、涼景の知名度は高い。
行き過ぎる者たちも、見とれたように歩調を緩め、優雅な紅の衣を纏った美青年を鑑賞しては、ため息をついている。
涼景の右頬には、戦のためについたのか、十文字の傷跡が残されていたが、それを差し引いてもなお、精悍な顔立ちは群を抜いていた。
犀星が中性的な美しさを持つのに対し、涼景には成熟した男性の逞しさが溢れている。
暁将軍・燕涼景。字を仙水という。五年前の歌仙事変の際に大きな功績を上げ、わずか一五歳で将軍の座についた、異例の経歴の持ち主だ。その裏には、噂好きな愚民を楽しませる猥談も潜んでいるようだが、今の当人を見る限り、そのような雰囲気を感じさせるものはない。
逞しく鍛えられた体躯は、若さゆえの未熟さはあっても、今後の成長を確約するものである。
視線を集めることに慣れているのか、涼景は微笑を浮かべて、堂々とした態度で宮中を出ると、都の大通りを脇に避けた。
「どこへ行く?」
犀星が並んで歩きながら問いかける。
「お前の屋敷を用意した」
「それならば、帝がご用意下さっているが……」
涼景はすぐには答えず、少し路地を進んでから、
「死にたいのか?」
「え?」
「まぁ、仕方がない。俺もそうだった」
「どういう意味だ?」
まるで、長年の旧友のように、犀星は涼景の横顔を見上げた。
「都で人は信じるな。特に、宮中の人間は、全員が敵だと思え」
「お前もその一人だろ」
「ふ……その調子だ」
何が嬉しいのか、涼景はニヤリと犀星を見た。
「そうだ。俺も敵かもしれない。ただ、今すぐ、お前を殺せとは言われていないだけだ」
東雨は二人の後ろをついていきながら、不安そうにその背中を見比べていた。
同郷のよしみで、仲良くするつもりがあるのかと思えば、そうでもないらしい。
「暁将軍といえば、皇帝直属の臣下だったな」
犀星は、都口調を改めて、友と話すように気軽な調子になっている。涼景も、そうすることを望んでいたようで、不思議と初対面のようには思われない。
「そうだ。だが、目に見えるものが全て真実ではない。また、偽りだとも言い切れない。それが宮中だ」
「お前の言葉も、半分に聞いておこう」
「賢いな」
涼景はどこか満足そうだ。
路地をいくつも曲がって、涼景はついに、一軒の大きな石造りの屋敷へ、二人を案内した。
「ここは、俺の隠れ家だ」
「こんな都の裏路地に?」
きょろきょろとあたりを見回して、東雨は困った顔をする。
「道に迷って、宮中に戻れません……」
「案ずるな」
涼景は、注意深そうに後ろを振り向いていた犀星を見ながら、東雨に声をかけた。
「お前の主人は、道を覚えた」
「え!」
呆然とする東雨を安心させるように、犀星は頷いた。
「後で、地図を書いてやる」
「わ、若様、今、初めて通ったのに……」
「こういうのは得意なんだ」
「は、はぁ」
楽しげな涼景の笑い声が響く。
「じゃあな、星。安心して安め」
「涼景」
立ち去ろうとした暁将軍を、犀星が呼び止める。
「お前、面白いやつだな」
「お互い様だ」
数秒、二人はじっと真顔で相手を見つめた。
東雨は、なぜかその視線の交わりが、彼の知る何よりも強く、確かな絆を結んだように思われてならなかった。
やがて、涼景の姿が見えなくなると、犀星は東雨に問いかけた。
「あいつは、どんな男だ?」
「燕将軍ですか? とにかく、すごく強い人です」
「それはわかる。性格の話だ」
「性格……宮中では、出世が早くて妬まれているようですが、本人は、全く気にしていないようです。いつもは、あんな非礼な方ではありません。礼儀正しく、格式を重んじて軽率なことはなさいません。ですから、俺も驚いていて……若様には親しみを感じられたのかもしれません」
「戦場で、鎧甲冑をつけない、と聞いたことがある」
「ああ、それは本当です。いつも、鮮やかな紅色の装束を着て、大太刀一振りを手に、大軍の先頭を走る。都で知らない者はない、武勇伝です」
「武勇伝? ただの命知らずだろ」
「でも、それで指揮が高まるのは確かですし……」
「お前は、あいつが実際に戦う所を見たことがあるのか?」
「……い、いえ、実際にはありません。人づてに聞いただけです」
「東雨。俺のそばにいるつもりなら、自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分が感じたことだけを信じろ。いいな」
今日一番に、厳しく、そして重たいその言葉を、東雨はしっかりと胸に刻み、頷いた。
もしかしたら、と東雨は心秘かに思った。
この人は、本当は素晴らしい方なのではないだろうか。この都を、国を、変えてしまうほどに。
彼のこの時の予感は、十数年後、現実のものとなる。