歌仙詠物語14
琴音(伯華の章)
「私がやるって言ってるでしょ! 引っ込んでて」
「これは俺の仕事! お前こそ、さっさと風呂沸かしてこい」
「何よ! あんたに指図される覚えはないわ」
「だいたい、穀潰しなんだから、黙って歌仙に帰れ」
「母上のお許しがないと戻れませーん」
「この、やんちゃ女が!」
「何よ、ひ弱男!」
東雨と玲凛の日常的やりとりは、晩夏の風に乗って、屋敷の外にまで聞こえて来ている。
邸宅の入り口で、犀星と玲陽は思わず立ち止まり、揃ってため息をついた。
「毎日毎日、飽きないな」
「こっちがもう、飽きてます」
「同じことの繰り返しを、よくも続けられるものだ」
言うが早いか、犀星が玲陽の手を引いて素早く塀の影に連れ込み、その首に腕を回して耳をそっとはむ。玲陽の背中の敏感な部分を指を立ててたどり、びくりと玲陽が反応するところで手を離した。
「今日は、俺の勝ち」
「もう!」
「俺たちも、毎日毎日、よく飽きないものだ」
「こればっかりは、一生続きますね」
「あの二人の喧嘩もか?」
「それは、そろそろどうにかしないと……」
次第と過激になっていく若者二人の口論の内容では、いつ、どちらかがどちらかを、殺すと言いかねない気迫がある。
どうも、この家は、親王やその専属の内務官である臣子よりも、その部下と妹が取り仕切っているらしい。
どこで気づいたのか、中庭の厨房の扉から、東雨が駆け出してくる。すでに、犀星と玲陽が何をしていようと、動揺する東雨ではない。この前などは、睦ごとの最中に翌日の朝食の好みを聞きにきたくらいだ。当然、声を殺すので精一杯の犀星が答えられるはずもなく、見かねた玲陽も、わざとやっているならやめてください、と嘆願した。当然、わざと、である。
「若様! 陽様! おかえりなさいませ!」
「何よ! 自分だけ先に!」
続けて、玲凛が追ってきた。
「お前たち、どうして表から入った俺たちに気がついた?」
純粋に不思議に思って、犀星が尋ねる。
「お二人の声を聞き逃すものですか!」
「嘘! 少しでも誰かの声がしたら、毎回飛び出していくくせに!」
「なんだよ、一番にお迎えするのが、俺の役目だ」
「その役目、いつでも代わってあげるわ」
「何だと!」
「何よ!」
「いい加減にしてくれないか」
犀星は、相手を怒鳴りつけるということはしないが、心底、困った顔を見せた。
「東雨、凛と張り合ってどうする? お前まで子供のようだぞ」
「凛どのもよくありません。私たちは、厄介になっている身なのです。それを忘れないように」
「はい……」
たしなめられて、二人は不満そうに返事をした。
「東雨、明日から、一緒に五亨庵へ来い」
犀星が提案する。
「四六時中顔を合わせているから、いさかいも起こる」
「俺だって行きたいですけど……」
やはりまだ、周囲と顔を合わせるのは気まずいらしい。あれだけのことがあったのだから、それも致し方ないことである。
「大丈夫です。私たちが守りますから」
「若様、陽様……」
「もう、兄様たちは、いつもそうやって東雨を甘やかすんだから!」
「凛どの、こちらへきてください」
珍しく、玲陽が強引に、凛の腕を掴んで屋敷の中に引っ張っていく。
「あーあ、やっぱりあいつがお転婆だから」
「東雨、お前も来い」
すっかり油断していた東雨もまた、犀星に首根っこを掴まれて、厨房の方から屋敷に連れ戻された。
実は五亨庵からの帰り道、犀星と玲陽は、若い二人の今後のことを色々と話し合っていた。
玲凛は、玲芳の頼みで預かることにはなったが、あくまでも秘密裏である。
また、東雨も帝の手前、派手な行動はさせられない。
とはいえ、どちらも犀星たちにとって、大切な存在であることに変わりはなく、できる限りその仲を穏便に過ごせるよう気を配るのが、自分達の役目である。
親王と臣子が自ら動くとは……どうも、この屋敷では身分だの官位だのより、気性が全てを決めているらしい。礼儀も序列も崩壊している。
玲陽は、玲凛を彼女の部屋に押し込むと、机を挟んで向き合って座った。
玲凛の私室は決して東雨を入れないため、彼女自らが手入れを行なっているが、そこはさすが玲陽の妹とあって、綺麗に整えられている。
が、しかし。
玲陽は、壁にかけられた長槍を見た。その下には、涼景が好みそうな大太刀が並んでいる。さらに、持ち主の身長を超える長弓と、美しい水鳥の羽で作られた矢を収めた筒、小太刀と匕首。
一見、装飾品に思えるような螺鈿の細工がされた美しい武具だが、それらは全て、玲凛の実用品である。
「あなたは、他にすることがなかったのですか?」
玲陽は、改めて妹の鍛錬好きに呆れた。
「だって、陽兄様も星兄様もいなくなって……母上も構ってくれないし、春ちゃんは病気がちでなかなか会えないし。相手をしてくれたのは、叔父上だけだったんですもの」
「確かに、叔父上が遊び相手では、こうなるかとは思いますが……」
「武術だけじゃありません。武器の作り方も、馬の扱いも、馬上での戦い方も、火薬の使い方も、教えていただきました」
「いや、そういう類のことではなく……」
「書物も!」
玲凛は思い出して嬉しそうに、
「野戦や、奇襲の戦法や、色々な状況での軍の動かし方、個人での戦い方、攻める時、引く時の見極め方、傷ついた時の応急処置や、食料が足りない時の調達、水の選別や狼煙の上げ方も……」
「凛どの」
玲陽は頭痛でもするのか、額を抑えた。
「叔父上は、あなたを軍人にするつもりだったのでしょうか」
「いいえ」
意外にも、凛はあっさり否定した。
「知っていて損はないから教えるけれど、こんな知識が無駄になる時代を作って欲しい、と」
「…………」
「矛盾しているけれど、そのために教える、と」
「やはり戦場に出す気だったのですね」
「そうでしょうか」
玲凛は首を傾げて、
「叔父上は、人を傷つけるのは、どのような理由があろうとも、許されることではない、と繰り返しておっしゃいました。あくまでも武術は、己と、大切な者を守るための、最後の手段であり、その前に尽くすべき手は全て尽くさねばならない、と」
玲陽は深くため息をついた。
玲凛は賢い。
自分同様、周囲の愛情には恵まれなかったが、止まらない好奇心と知識欲まで、自分にそっくりだ。
犀遠は、そんな玲凛に、犀星や自分に教えたかったことの全てを、教えたのだろう。いつか、玲凛の口から、自分達に伝えるために。彼女は、犀遠が残した、たった一人の口伝者だ。彼女の言葉は、そのまま犀遠の言葉なのだ。
とはいえ、それと、現在直面している問題とは、全く別のものである。
「凛どの。あなたが叔父上から学んだことを、私や兄上に話して下さい。私たちも、叔父上がどのように戦を捉えていたのか、詳しくは知らないのです。あの方は、戦場のことを、話そうとはしませんでしたから」
「わかりました。叔父上に言われたことがあるんです。いつか、陽兄様と星兄様に伝えて欲しい、そのために、私に全てを教える、と」
「…………どこまでも深い方ですね」
玲陽は壮絶な死を遂げた犀遠の想いを、改めて感謝を込めて受け取った。
「ですが、それはそれとして」
玲陽は、仕切り直した。
「東雨どのとのことです」
「……お小言ですか? 失礼な態度を取るな、と」
「別に、あなたが東雨どのに失礼を働いているとは思っていません」
「え?」
と、今度は玲凛が拍子抜けしたように目を丸くする。てっきり、叱られると思っていたのだろう。
「お互い様、です。星兄様と私も、よく張り合いました。どちらも負けず嫌いですから。あなたたちのように口争いではなく、どちらが高く木に登れるか、どちらが多く魚を取れるか、そんな競争でしたけれど」
「羨ましいな」
玲凛はふっと、息をついた。
「私にはそんな友達、いなかった」
「これから、友達になればいいのです」
「誰と?」
「東雨どの」
「ええっ!」
明らかに抗議の声を上げて、玲凛は首を横に振った。
「無理です! 今まで、散々喧嘩してきたんですよ」
「あんな言い争いは喧嘩のうちに入りません。お互いに対等に話しができる相手だからこそ、本音で言い合ってきたのでしょう? 本当の気持ちが言い合える、それは、友人になる絶好の相手です」
「でも……」
「東雨どのが本気で嫌いですか?」
「別に、好きでも嫌いでもないです。ですが、私が気にしていることや言われたくないことを、平気で口にするから、腹が立つのは本当です」
「それは向こうも同じだと思いますが」
「そ、そうかもしれないけれど……」
玲凛は、ようやく口をつぐんだ。
「そこで、一つ提案なのですが」
ここぞとばかりに、玲陽は話を持ちかけた。
「二人で琴の重奏を!」
こちらは、厨房で叫ぶ東雨である。
「どうだ? お前も凛も、幼い頃に心得があるだろう? それっきり、ほとんど手をつけていない、という状態も一緒だ」
「そんなことに、何の意味があるんです? くだらない」
相手が親王であることを、完全に忘れている口の利き方である。最も、犀星自身もどこまで自覚しているか怪しいものである。
「琴なんか合わせたって、何の役にも立ちません!」
「それが、立つんだ」
犀星は茶の準備をしながら、
「それぞれが、別のことをしようとするから、和が乱れる。重奏となれば、相手のことを考え、自分だけではなく、互いを思いやる気持ちがなければ美しい音色にはならない」
「それはわかっています。だから、無理だって言っているんです」
条件反射だろう。犀星が厨房に立つと、東雨はすぐにそれにとって変わり、主人に水仕事はさせない。
「若様のために琴を奏でろ、というのであれば、いくらでも練習しますし、お聞かせします。でも、どうして凛との重奏なのですか!」
「お前たちは、お互いの良さを知らないんだ」
「あいつに良さなんてありませんよ。せいぜい、負けん気が強くて諦めが悪くて、どこまでもしつこく食い下がってくる根性だけです」
「ほら、それがいいところ、ではないか」
「ええ?」
東雨は肩を落として首を振った。
「玲陽とも相談したんだ。お前たちは、お互いに自分の言いたいことを、遠慮なく言い合っている。だが、それができる相手、というのは貴重なんだ。俺や陽、涼景を見てきただろ? 何だって腹を割って話してきた。お前にも、そんな友人がいれば、と思ってな」
「作ろうと思って作れるものじゃないです」
「そうだな。もう、できている」
「若様?」
「ただ、やり方を少し変えてみればいい。きっと、相手の知らない部分に気づくはずだ」
「興味ありません」
「東雨」
説得から逃れるように、夕餉の準備まで始めた東雨を、犀星は肩を掴んで止めた。
「凛のことが、嫌いか?」
「別に、嫌いじゃないです。ただ、わがままで怖いもの知らずの礼儀知らず、俺より剣術の腕が立って、護衛として若様たちに頼られるし、玲家の後継のお嬢様出し、俺みたいなのとは……」
「なんだ、卑屈になるなんて、お前らしくない」
犀星はニヤリとした。
「要するに、嫌いではないが、気に入らない、ってことだろう」
「…………知りません!」
「とにかく、これは俺と陽で決めたことだ。従ってもらう」
「そんなぁ!」
「俺が望めば、琴を聞かせてくれると言っただろう? 俺だけじゃない。陽もお前たちの演奏を聴きたがっている。
「うー……」
「一週間後、二人の重奏を楽しみにしているぞ」
「え? た、たった一週間で!」
「忙しくて口論をする暇もないだろう。まずは、曲を選ぶところから、二人で相談するんだ」
「そ、相談!」
玲凛と何かを一緒に行うなど、今までにないことだ。
東雨は途方にくれた。
顔を合わせたくないのか、普段は四人で卓を囲むのだが、今日は犀星と玲陽だけだった。
「久しぶりに二人だな」
なぜか嬉しそうに犀星が玲陽の顔を頬杖をついて見ている。先ほどから、箸は一向に進まない。
「せっかくのお料理が冷めてしまいますよ」
「お前の顔を見ていられたら、満腹だ」
「兄様……」
「でも、よかった。こうして、お前が俺と同じものを食えるようになった。涼景には感謝しても仕切れない。そうだ、重奏の時には、あいつも招いてみようか」
「お忙しいのでは?」
「無理にとは言わないさ」
犀星は目を細めた。
「あの……」
玲陽が困ったように、
「そんなに見つめられていては、落ち着いて食べられません……」
「ふふ……悪かった」
ようやく、犀星も気持ちが満足したのか、料理に箸をつける。
「あの二人、大丈夫でしょうか?」
「まぁ、琴音の美しさに期待はしていない。ただ、きっと、成長する糧となる」
「琴の競い合い……同じことを、私たちも昔、しましたね」
玲陽が懐かしそうに、
「どちらが上手いかって……結局優しい母上と叔父上は、同着だとおっしゃった」
「納得できなくて、もう一度勝負しようってことになって」
「はい。必死に稽古しました。兄様に負けたくないから……」
「あの時、お前は犀家に泊まり込んでいただろう?」
「ええ。実際、玲家には居場所はありませんでしたから」
「実はな、琴の稽古、俺はさぼっていたんだ」
「え?」
「お前が夜遅くまで琴を弾くのを聴きながら、眠るのが好きだった。勝ち負けより、心地よかった」
よに聞きし 琴の音誘う 眠りなば
いかに悪しきの ものをこと去れ
(伯華)
犀星は遠い日々の、玲陽の琴音を耳に思い出していた。
「確かに、特別うまくはなかったが、優しかった。穏やかで、丁寧で、一音一音を納得するまで繰り返し、かき鳴らしていたっけ…… まるで、この世界の醜いものを、一つ一つの音で、美しい花に変えているような……」
「そんなことまで、覚えているんですか!」
「お前のことなら、全部……知りたいし、これからも、知っていきたい。お前より、お前を知りたい」
そのつもりはないのだろうが、犀星の物言いには時々、玲陽の愛情を掻き立てる響きがある。
冷静にならねば、と、玲陽は背筋を伸ばした。
「とにかく、彼らに頼む用事は最低限にして、できる限り、稽古ができるよう、見守っていきましょう」
「ああ」
ゆるゆると夜は更け、屋敷の最も離れた端と端の部屋から、それぞれ、辿々しい琴の音が聞こえてくる。
どうやら、ここまでは、二人の思惑通りである。
曲の相談はできていないようだが、ひとまず、基本だけでも思い出そうとしているのだろう。
犀星たちは並んで書物を楽しんでいたが、その音に、嬉しそうに顔を見合わせた。
『ヤメロ!』
瞬時に、犀星の耳に叫びが飛び込んできた。
顔を歪めた犀星を、玲陽が抱き寄せる。注意深く周囲を見回すと、浅葱の絹の薄い装束を纏った、細身の女が、犀星の数歩後ろに立っていた。
『琴音ハ 呪イ』
犀星は玲陽の視線を追った。彼に姿は見えないが、言葉を交わすことはできる。
「琴を弾く者は数多くいる。お前はその全てを呪い殺すというのか」
『ユルサナイ!』
玲陽には、女の片目がボロりと頬に垂れ下がり、もう片方の目から血の涙を流しながら、こちらに近づいてくる姿が見える。
「兄様!」
すぐに犀星を背後に庇うと、傀儡と距離を取る。その間に、犀星は面纱を身につけ、防呪の呪文を唱えていく。
傀儡喰らいは、傀儡が一度、人間に取り憑かなければ行うことはできない。
女は左足がうまく動かないのか、不自然に甲で立っている。明らかに、普通の死に方はしていない。
「お前の名は何という?」
犀星が玲陽の後ろから問う。
「……荻野中将ノ娘」
「ご存知ですか?」
「ああ。荻野中将は宮中でも権力者だ。だが、娘が死んだなど、聞いていない」
「醜聞は藪に隠し、衆目を欺くが道理」
玲陽は霊力を集中させて、それ以上、傀儡が接近することができないよう、結界を張る。
「もしもの時は、俺が宿代(取り憑かれる人間)になる。お前は食らってくれ」
「無茶です。兄様の霊力も一緒に喰らったら、私の体が持ちません!」
「では、どうしろと!」
その時、びん! と鈍い音が聞こえた。それは微かな音ではあったが、目の前の傀儡にとっては、大きな意味があったらしい。
玲陽にしか見えていないが、女が天を仰いで絶叫するように腕を振り上げた。同時に、犀星は頭に直接響いた悲鳴と恨み言のために、その場に座り込む。玲陽の視界から、傀儡の姿が薄れ、消えていく。その気配が失せるのと対称的に、身軽な足音が廊下をこちらへ駆けてくる。
「若様?」
唐突に、東雨が扉を開けた。
「あ! 大丈夫ですか? もしかして、傀儡?」
「ああ」
犀星は反響する、からみつくような音を振り払おうと頭を振った。
「もう、平気だ……消えたからな」
と、東雨が抱えていたものに目が止まる。
「お前、それ……」
「すみません、弦を切ってしまいまして……代わりの弦をお借りしたくて……」
「そういうこと、ですか。東雨どの、その弦の切れた琴、私に貸してくださいませんか? 代わりに、私の琴を使ってください」
「ええ! いいんですか! あれ、名器ですよね!」
「琴は琴です。奏でる人次第で、その音は美しくも、味気なくもなります」
玲陽は、切れた弦を見つめ、それから、犀星に視線を送った。犀星は頷いた。
「どうやら、こいつに救われたらしいな」
「先ほどの女性の件、調べみましょう」
「ああ」
琴を弾くなと訴える傀儡。
その裏にはまた、悲劇が隠されているに違いなかった。