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歌仙詠物語14
西​の曲(伯華の章

 これは、本人も知らない、二つの恋の物語である。

 ちょうど犀星が二十歳を迎えた頃、五亨庵に出入りしている少女がいた。

 周囲には明(みん)と呼ばれていたが、本名かどうかはわからない。巷で飲食店を営んでいる庶民の娘で、宮中には饅頭や蒸餅、月餅などを売りに来ていた。

 大抵は野外で行商するのだが、雨風のある時は、決まって五亨庵に立ち寄った。

 その頃、五亨庵には、犀星のほか、身の回りの世話をする東雨と、仕事を教える緑権が主に詰めていたが、犀星の質素倹約の精神のため、余計な買い物はしないのが常であった。そのため、明が来ても、売上にはつながらない。それでも、彼女はよく、雨宿りを兼ねてここを訪れた。

 本当なら、もっと売れ行きのいい邸宅がいくらでもあっただろうが、そういう所は長居をさせてくれない。用が済めば、当然、追い出される訳で、雨宿りの意味がない。

 都の雨は一刻で上がる、と言われるほど、長時間降ることはなく、その一刻をしのげる場所として、五亨庵は最適だったのだ。

 というのも、商品は売れないながら、追い出される心配はなかったからだ。

 犀星は人付き合いを嫌って、黙々と仕事をしているだけだし、東雨もあれこれと物の整理に忙しく働いていて、自分に構っている余裕はない。

 緑権は自分も娘がいるせいか、明には親切で、休むくらい多めに見ていた。

 明も、商売どきには声を上げて積極的に笑顔で売るのだが、本来はそのような性分ではないらしく、大人しく椅子に座って商品を確認したり、売上を記録したり、と黙って過ごしていた。それでも時間が余ると、緑権が簡単な詩歌の書物を読ませてやることもあった。娘同様、手習いをすることもあった。

 五亨庵は宮中に入ってすぐの場所にあるため、位置的にも好都合で、一度売り物を補充しに、荷物は置いたまま、店に戻ることさえあった。

 当時、十四歳ほどであっただろうか。

 特に美しい訳ではないが、愛嬌のある、いかにも町娘の風態で、それが親王御殿にいる様は、少々不釣り合いにも思われた。そうやって時を過ごしながら、いくらかの余裕があるときは、無料でお礼がわりに、と、菓子を置いて行ったりする。明の行動は、その家族や近所の者たちも知っているらしく、時には犀星宛てに献上品と称して料理が届けられることもあった。犀星が、他の貴人たちとは違い、上等の布や宝飾品を受け取らないことを、彼らは知っていた。また、便宜を図ってほしい、などの裏の意味はなく、単純に都人が犀星の治世を評価し、感謝している証だった。決して高価でも珍しくもない、庶民の手作り料理なのだが、歌仙親王は感謝して受け取り、代わりに貴重品の紙や墨、自らが書き写した書物などを明に託した。

 東雨や緑権は、毒味もせず、警戒心を抱くこともなく、風呂敷包みの料理を口にする犀星に驚かされたが、今ではすっかり慣れてしまっている。歌仙親王を毒殺することは、何よりも容易に思われるが、幸い、五亨庵でのこの慣習は、あまりに庶民的すぎて、宮中では知られていなかった。

 そうこうしている頃、同時期に、足繁く五亨庵を訪ねる者がもう一人あった。

 こちらは明とは正反対で、左相である趙然(ちょうぜん)の娘、齢十六になる姫だった。

 その姓をとって、趙姫(ちょうき)と呼ばれる、衆目を集める美女である。

 趙姫の目的はただ一つ、犀星である。二十歳を迎えても、未だ女の噂のない美しい親王の妃の座を狙う者は多い。彼女もその一人だ。

 この話には、緑権も乗り気で、喜んで趙姫を迎え入れていた。

 ある日の夕刻、そんな五亨庵に例のごとく、趙姫が訪ねてきた。

「これは趙姫様、どうぞ中へ。お寒うございましたでしょう」

 ちらちらと雪の舞う都は、乾燥した空気と風のために、体感として肌が痛むほどに冷える。

「こちらは暖こうございますわね」

 育ちもよく、物事もわきまえている趙姫は、東雨にも歓迎される。

「すぐに温まるお茶をご用意いたします!」

 東雨が張りきって準備に動く、ちらり、と顔を上げた犀星が見たのは、こちらを伺う趙姫ではなく、頼んでいた墨を後回しにした東雨の背中だ。ここでうるさく言っても、面倒なだけ、と、犀星はそちらの仕事をよけて、先に別の仕事に取り掛かる。彼が自ら書き込みをしている、都の絵地図を広げ、別に書き付けておいた数字と見比べる。

 この冬は雪は少ないが、寒さが厳しい。

 昨年が豊作だったこともあり、都の民衆たちも例年ほど難儀はしていないものの、当然ながら、冬は毎年巡ってくる。今年のような穏やかな冬を過ごすために、どれほどの準備が必要か、そのために用意する物資と調達経路は確立されていない。宮中の者たちは、皆、自分たちの生活のことしか頭にない。金さえあれば、苦労はないと思っている。だが、いくら金が蔵一杯に積み上げられていても、それと交換する薪がなければ、何の役にも立たない。

 犀星がこの仕事に就く前、貴人たちは大金をちらつかせ、都の民から薪を買い取った。時には、木造の家を丸ごと買い占め、それを壊して薪にした、という話もよく聞いた。追い出された者たちがどうなったのか、そんなことは、彼らには関係のないことだ。

 犀星は何よりも先に、民衆を重んじることを、養父から叩き込まれて育っている。だからこそ、自分もまた、民と同じ目線に立ち、同時に、民にはできぬ、自分の持つ権力でしか成し得ないことを成す。それが犀星のやり方であり、信念だった。

 そのような政治を行う者は、宮中には少ない。

 犀星が人付き合いが悪く、周囲と交流しないこともあるだろうが、彼が知る限りでも、燕涼景、宝順帝の腹違いの弟で犀星の兄にあたる夕泉親王(ゆうぜいしんのう)だけである。病弱な夕泉は志はあるものの、それを実行に移すだけの気力がない。それでも、陰ながら犀星を支えてくれる存在である。

 自分が訪ねてきても、挨拶一つしない犀星に、趙姫は最初は立腹したが、今では諦めている。

 できるだけ煌びやかな衣装を身にまとい、犀星の気を引こうとするのだが、当の犀星は完全に無視を決め込んでいる。いくら宮廷の付き合いが嫌だとはいえ、彼がここまで趙姫を避けるのには、それなりの理由があった。

 それは、今から一月ほど前、冬の始まりに遡る。

 ちょうど、犀星の二十歳の誕生祭が行われ、祭儀嫌いの犀星が東雨と共に、形だけ参加した帰り道でのことだった

 会場から五亨庵に戻る途中、夕方の寒波も相まって、その日は特に寒さが厳しくなっていた。

 急ぎ足の犀星と東雨の後を、暖かな長衣に身を包んだ趙姫が追いかけてきた。

 その背後には、何人かの他の姫君の姿もある。誰もが、正装で式に臨んだ犀星に見惚れた女たちだ

 中でも趙姫は若く、活発だった。

 誰よりも先に、犀星に近づこうと、慣れない足取りで追うが、男二人に追いつけるはずもない。

 犀星はついてくる足音には気づいていたが、何か別の用事があって急いでいるのだろう、程度にしか思っていなかった。

「歌仙親王様!」

 行儀が悪いと知りつつも、趙姫は大声で呼び止めた。

 呼ばれて初めて、自分を追っていたのか、と気がつく鈍さである。

 東雨は最初から、犀星が女性に興味がないことを知っていたため、敢えて助言しなかっただけだ

 さすがに往来で名を呼ばれては、立ち止まらざるを得ない。

 犀星は渋々、振り返った。不機嫌な顔をしていたが、なぜか女性たちには受けが良かったのがさらに災いする。いつも笑みを浮かべて、腹の中で何を考えているかわからない官吏たちより、笑わない犀星の方が宮中の女性には人気が高い。

 東雨は、さて、偏屈な主人が姫をどうあしらうか、と見物に徹している。趙姫の美しさは群を抜いている上、父親は権力の頂点にいる左相だ。犀星との年齢を考えても、絶好の組み合わせである。

 しかし、犀星には、歌仙に残してきた想い人がいることを、東雨は盗み読んでいる手紙で知っていた。その相手とは、互いの手紙を見ることがないよう、自分がもみ消してはいるが、明らかに相思相愛の中である。犀星が都にきて五年になるが、その熱は冷める様子はない。勿論、東雨以外にそれを知るのは、宝順だけである。

「何かご用でしょうか?」

 犀星は白い息を吐いた。

 趙姫の方は、普段からゆったりと過ごしているため、すっかり息が上がっている。

 呼吸を整えてから、上目遣いに犀星を見上げた。

 自分の容姿に自信のある趙姫ですら、犀星の凛々しい立ち姿を前にして、心臓が縮むような緊張感を感じる

 一部の隙もない、それでいて他者を圧するような威力も発しない、そのあまりに美しい瞳に見つめられ、さしもの趙姫もすぐには声が出なかった。

 東雨は、そんな趙姫の戸惑いを間近で見て、顔には出さずにほくそ笑む。

 若様は、お前などが、近づいていいお方ではない。

 単純に、東雨は貴人たちが嫌いだ。

 立場上、従わなくてはならないが、その分、不満も溜まる。変わり者ではあるが、犀星は他の貴人に比べて、はるかにましだと思っている。少なくとも、自分に対して罰を与えたり、理不尽な理由で文句を言ったりはしないし、人として対等に扱ってくれる。

「左相、趙閣下の御息女、趙姫様にございます」

 人を覚えない犀星をおもんばかって、東雨が紹介した。

「お初にお目にかかります。先ほどの祭典に参列させていただきました。ぜひ、直接お祝いをと思いまして……
 趙姫はどこかぎこちなく、それでも精一杯勇気を出して拝礼した。

「親王様、生誕の儀、おめでとうございます」

「俺が生まれたのが、そんなにめでたいか?」

 うわ! と、東雨が思わず一歩引く。

 いくら犀星でも、初対面の、しかも祝いを言いにきた身分のある女性に、そのような物言いはしないだろうと思っていたのだが、やはり、彼の主人は例を見ない異端児だった。

「あ、あの……」

 可愛そうなのは、趙姫である。思いもよらない犀星の言葉に、なんと返してよいかわからない。だが、彼女の背後では、結果を見届けようと、他の女たちが聞き耳をたて、様子を伺っている。ここで無様なやりとりをするわけにはいかない。彼女たちも、犀星をめぐる敵なのだ。

「おめでたいことと存じ上げます」

 趙姫は、どうにか、笑顔を作って続けた。

「親王様のような素晴らしいお方が、この世にお生まれになられたお祝いですもの」

 と、どうにか取り繕う。大抵の男は、この笑顔に負けるのだが、犀星は別格だった。むしろ、更に機嫌を損ねたらしい。東雨は、犀星が喧嘩腰になるのを感じて、これは面白そうだ、と黙って見比べる。

「ほう。貴女は私のどこが素晴らしいと?」

「そ、それは……」

 これまた、意地の悪い質問である。恋にふらつき、蝶よ花よと育てられてきた趙姫に、犀星の行っている政治の中身や功績がわかるはずもない。結局のところ、彼女が誉めることができるのは、犀星の容姿だけだった。

「人間など、焼いてしまえば同じ骨だ」

 外見を口にした趙姫に対して、犀星は冷ややかだった。

「見かけになど、意味はない。貴女は私を呼び止めたが、特に用件はないようだ」

「親王様!」

 そこまで言わなくても、と、東雨さえ、趙姫に同情する。

 犀星は趙姫に形だけ礼を返すと、再び背をむけ、五亨庵へと歩き出す。が、数歩進んで、ふと、足を止める。

 両手いっぱいに大きな蒸籠を抱えた明が立っていた。

「どうした? こんな冷える日に」

 趙姫に対する反応とは正反対に、犀星は自分から明に声をかけた。

 明は犀星より、その向こうにいる美しい趙姫を見つめていた。

 ここは宮中だ。このような姫君にこそふさわしく、自分のような飯屋の行商には不釣り合いだ。だが、犀星はそうは思ってはいない。

「明、震えてるだろ。五亨庵で温まっていけ」

「え!」

 その言葉に驚いたのは、誰よりも趙姫だった。

 自分を邪険にしておきながら、垢抜けない行商娘を呼び込むとは。

 明は、黙って首を横に振った。

「あたい、これ、届けにきただけ」

 大切そうに抱えていた蒸籠を、犀星に差し出す。

「すっかり冷えてしまったから、東雨、これ、温め直して」

「わかった」

 東雨は犀星に代わって、蒸籠を受け取った。

「明、どうしてこれを俺に?」

「親王様、元気ないだろうな、と思って」

「明」

「今日、親王様のおっかさんの命日だったでしょう。花の饅頭、作ってきたから、備えてください。あたいらのために、毎日、一生懸命お仕事してくれる親王様に、都のみんな、感謝してます」

 ぺこり、と頭を下げて、明はそのまま走って行ってしまう。

「あいつ、若様のこと……

……優しい子だな。俺の心を察してくれた」

 ふっと、犀星が寂しげにかすかな笑みを浮かべた。

「どういうことですの?」

 趙姫が、納得がいかない、と言うように食い下がる。犀星は表情を厳しくし、振り返った。

「私を産んだことで、私の母は死にました。貴女は、私が生まれたことがめでたいとおっしゃったが、私には悲しみ以外の何ものでもない。私は、二十年前の今日、生まれることで母を殺した」

 趙姫だけではない。彼女の背後の女たちも、言葉もなく立ちすくんだ。

 彼女たちは知っていた。

 歌仙親王の母親が、産後の状況を悪化させて命を落としたことを。

 だが、それよりも何よりも、自分達は生誕祭という祝いを理由に犀星に近づこうとした。明だけが、犀星の心を案じていた。

「私は人とは話しをするが、人の心を持たないものと、縁を結ぶつもりはない」

 犀星の声は凛と響いて、初冬の寒さよりも、女たちを震え上がらせる。

 犀星はそれきり、二度と振り返らず、五亨庵ではなく、真っ直ぐ、都の邸宅へと戻った。

 その庭には、ささやかながら、母を思って立てた、小さな石碑がある。

 優しい娘と、自分のやってきたことを受け止めてくれる民のため、一刻も早く、手を合わせたかった。

 いつしか、空には重い雲が立ち込め、冷たい雨が降り始める。

 最後の曼珠沙華も花を落とすだろう。

 その夜、犀星は深く優しい夢を見た。

 雨は暖かく、赤や白の曼珠沙華の咲き乱れる先に、姿を知らぬ母が、手を広げて自分を待っていてくれる夢を。

 宮中には鬼しかいない。

 その中で、母はどんな思いで、自分を産んでくれたのだろう。

 決して会うことのできない、それでも、会いたくてたまらない母の面影は、夢の中で、優しく微笑んでいた。


風流る

雲追い雨の

誘い咲く
花も潤い

我が頬も濡
(​伯華)

 

​ あの日以来、諦めるかと思っていた趙姫は、その後も、何事もなかったかのように、五亨庵を訪ねてきては、自分を売り込むために、緑権と話したり、東雨に構ったりするようになっていた。

 ただ一人、意中の犀星だけは、無反応のままである。

 趙姫が来ると、正直、五亨庵の仕事は滞る。緑権や東雨がその相手をするため、どうにも回らないのだ。

 犀星と趙姫の間をとり持ちたい緑権は、犀星の美点について、趙姫に事細かく話して聞かせた。

 犀星の評判など、最初の頃は最悪で、田舎者の礼儀知らずの小汚い子供がくる、というものだった。

​ しかし、実際に身なりを整え、一応の礼儀作法を犀遠から教えられていた犀星は、決して、都育ちの貴人たちに劣るところはなかった。

 劣るどころか、一目見れば誰もがその美しさの虜となった。

 見慣れぬ紺碧の髪と、瑠璃のごとき瞳。少年らしい伸びやかな肢体と、母親譲りの端正な顔立ち。

 単に容姿が整った者ならば宮中にはあまたいるが、犀星はそれに加え、剣術にも学問にも、そして詩歌や琴、舞踊や刺繍など、あらゆる方面に優れていた。

 更に、彼が決して周囲になびかず、軽々しい態度を見せなかったことも、魅力の一つである。

 怯えることもなければ、遠慮することもない。かと言って、媚びることも愛想を振りまくこともなかった。

 澄んだ氷のように冴えた眼差しと、憂いを感じさせる表情とで、女を始め、男たちからの声かけも多かった。誰に言い寄られても、犀星が応じることは一切なく、その冷淡さが返って人々を夢中にさせた。

 誰が歌仙親王を堕とすか、という話題で、宮中は常に持ちきりだ。

 人々が集まると、決まって犀星の話題が出た。

 だが、誰一人として、犀星に触れられた者はいない。

 また、犀星自身が誰かを気に入ったという話も聞かない。

 孤独な麗人として、犀星の存在はいつしか語り継がれ、そばにいる東雨や親しい涼景にまで、探りが入ることも頻繁だった。東雨はその度に誇らしい気持ちになり、涼景は勘弁してくれ、と愚痴を言った。

 噂の本人は、そのような人々の騒ぎには無関心で、都に来てから五年、態度が変わることはなかった。

 始めは物静かな少年の雰囲気が強かった犀星だが、年を追うごとに更にその魅力に深みが増し、押しも押されもせぬ宮中一の才色兼備の逸材として、誰からも一目置かれる存在となっている。

 彼がただ、美しいだけのお飾り人形であったなら、ここまでの人気は出なかっただろう。

 だが、そこに実力が加わっていくと、色恋を抜きにして、賢人たちも犀星を評価しはじめた。

 そして此度、犀星が三年前から構想していた工事に、ようやく許可が降りた。

 今日は昼から現状視察に出かけるため、その準備に忙しくしていたところである。

 そこに、仕事を止める趙姫がやってきたものだから、犀星の機嫌はすこぶる悪い。

 東雨は緑権に趙姫の相手を任せて、犀星のそばを離れなかった。

 元々、東雨は貴人が大嫌いである。

 特に趙姫は、特別用事もないのに、無駄話をして長居をする。こちらとしては気を遣う上、有益な情報が得られるわけでもない。迷惑以外の何ものでもない、と東雨は思っている。

 趙姫は犀星と話したくてやってくるのだが、犀星が相手をしたことは一度もなかった。

 あの、生誕祭の帰り道、犀星はこの高飛車な姫君とは決して気が合わない、と確信してしまった。どんなに通いつめたところで、趙姫に望みはないのだ。

 だが、趙姫にも、彼女なりの事情がある。

 趙姫は、今を盛りの美貌の姫だ。しかも、父親は出世を極めた左相で、誰も彼女に逆らえる者はいなかった。

 彼女も自分の美しさは自覚しており、全てを思うがままにして育ってきた。

 どんな男も彼女の前に屈し、あらゆる手段で口説こうと躍起になった。

 そのために、私財を投げうって破産したり、すでに婚姻を結んでいた妻と離縁したり、恋に呆けて隙を作り官職を追われたり、と、人生が狂った者たちのいかに多いことか。

 学問にも芸事にも不器用な趙姫だったが、自分に求愛する男たちを手玉に取る天性の賢さだけは持ち合わせていて、今まで好き放題に振舞っていた。

 宝順の正室である宇城が、帝からよく思われておらず、表舞台に出てこないのを好機と見て、まるで自分が皇后のように派手に着飾った。周囲をたぶらかしては、必死になる男たちを面白がり、恋人を奪われて嫉妬する女たちをからかい、気持ちの赴くままに、奔放に生きてきた。

 そんな彼女であったから、宮中の誰もが憧れる犀星を自分に振り向かせることには自信があった。

​ だというのに、自分を目の前にして、犀星は関心を示してはくれない。

 出会ってすぐのうちは、照れているのだろう、と余裕を見せていた趙姫だが、半年も放っておかれれば、さすがに焦ってくる。

 自分の言動を見ている宮中の者たちに、趙姫が歌仙親王に負けた、などと思われてはならない。

 今まで見下してきた者に嘲笑われる、そのような屈辱に耐えられる趙姫ではない。

 どんな手を使ってでも、犀星を陥落させようと、その性格や趣向を探っていた。しかし、犀星とて、敵ばかりの宮中に召し上げられて以来、平穏無事に生きてきたわけではない。彼は、決して弱みを見せなかった。

「園、このあたりで募ろうと思うのだが……」

 犀星は視察先の地図を確認しながら、同行する慈圓に話しかけた。

「ようございますな……現場と近いですし、花街の情勢に詳しい者もおりましょう」

「花街!」

 東雨が思わず復唱した。

 趙姫が、ちらりとこちらを振り返った。

 東雨は慌てて声を低める。

「視察先って、花街なんですか?」

「ああ」

 犀星が顔色一つ変えずに頷いた。

「最も先に手をつけなければ……」

「そんなに、気になるんですか?」

「伯華様には、深いお考えがあってのことだ。そういうわけで、お前は留守番だ」

 慈圓が楽しそうに東雨をからかった。十一になったばかりの東雨を連れていくことはしない、と犀星が判断したのである。

「まぁ、そうでしょうねぇ」

 東雨は慈圓に負けずに、にんまりと笑って、

「色に枯れた仲草様なら、女郎たちにも警戒されないでしょう」

「一人前に女を抱いたこともない小童に言われるほど、衰えてはおらん」

「嘆かわしい。そんな小童と張り合ってどうするんです?」

「お前こそ、羨ましいと素直に言ったらどうだ? 顔に出ているぞ」

 慈圓と東雨は、お互いに嫌ってはいない。だからこそ、冗談を言って戯れることができる。

 犀星は、そんな二人の戯言には全く興味を示さず、淡々と地図と計画書を確認していた。

「園、一人あたりの金額はこの範囲だが、それは実際に交渉してみて考えたい。余地を残しておいていいな?」

「予算は無尽蔵では有りませんから、さすがに心得ていただきませんと、他の支払いが滞りますぞ」

「借金をする」

「え?」

 慈圓と東雨が驚いて、犀星をまじまじと見た。

「これは、杜撰なやり方で済ませられることではない。もし、必要とあれば、金を前借りしてでも……」

「借りるって、誰に借りるんです?」

 東雨が心配そうに首を傾げた。

「宮中の連中は、若様の計画を一蹴したんですよ。貸してくれるわけがないです」

「貴人はあてにしていない。現地の者たちに借りる」

「ええ!」

 再び、大声を上げてしまい、東雨は慌てたが、趙姫は先ほどからずっと、こちらを伺い続けている。

「あいつ、盗み聞きかよ……」

 憎々しげに、東雨は趙姫から見えない角度で顔を歪めた。

「若様、万が一ですね……」

「歌仙様」

 趙姫の澄んだ声が、犀星を呼んだ。

 聞こえないふりをしたい犀星だが、さすがに露骨に無視はできない。相手はよりによって、帝に次ぐ権力者、左相の娘なのだ。

「お金が必要でしたら、わたくし、用立てて差し上げますわよ」

「きた!」

 東雨が明らかに迷惑そうな顔をした。犀星が、自分の代わりに本音を吐き出してくれる東雨に、わずかな苦笑を返す。それは感情を見せない犀星の、精一杯の表情だった。

 犀星は一瞬だけ、趙姫を見て、すぐに手元に目を戻した。犀星としては、この一瞥で礼儀は尽くした、という心境である。

「必要ありません」

 きっぱりと犀星は断り、それ以上あれこれと言う趙姫の発言を聞き流した。

 ここで、左相などに借りを作ってたまるか、というのが正直な思いである。

 犀星がやろうとしているのは、大規模な治水工事だ。

 宮中の水路の整備であれば協力者もいようが、都の隅に位置する花街に手を入れようとしているのだから、誰もが良い顔をしない。できるだけ、関わりたくない場所である。

 なおもよくわからない理屈を並べ立てている趙姫をそのままに、予定よりかなり早く犀星は出かける支度を済ませ、慈圓と共に五亨庵を出ていこうとする。

「伯華様、昼餉は?」

 緑権が、趙姫の機嫌を伺いながら、呼び止めた。

「せっかくですから、趙姫様とご一緒されては……?」

 冗談ではない。犀星は振り返りもせずに、

「せっかくだから、明のところで何か食べていく。留守を頼む」

 逃げた、と東雨はにやりとした。

 趙姫は悔しそうにその後ろ姿を見送るしかなかった。

 普段は行商に来る明の店に立ち寄り、手頃な饅頭を道端で食べ、犀星は慈圓一人をともなって、花街へと徒歩で向かった。

「いやぁ、わくわくしますなぁ」

 慈圓は資料の包みを抱えて犀星に従いながら、十歳は若返ったように見える。

「立ち食いなど、何年ぶりになるか」

「何十年ぶり、だろう?」

 犀星はにこりともしないが、彼なりの軽口を叩いた。

「そうそう、伯華様がお生まれになる前かと!」

 慈圓は上機嫌だ。

 この老獪は、宮中で生まれ育った割に、その毒気に染まらない異端児だった。

 若い頃から周囲に好んで敵を作り、その者たちを言い負かしては出世していくような、文人でありながら武人の気質を備えたところがある。

 そうやって打ち負かされた者たちも、なぜかその後、慈圓を認めて味方についてくれるようになる、不思議な男だった。

 犀星は五亨庵が完成した折に、帝から好きな者を従者に選べ、と言われた。

 彼が真っ先に指名したのが、この慈圓である。

 当時十六になったばかりの犀星が、三十以上も年上の慈圓を選んだことは、周りを驚かせた。

 親王として権力を振りかざしたければ、それなりに選ぶ年齢も身分も絞られてくる。

 明らかに慈圓は犀星よりも影響力を持つ重鎮だ。

 自分の力を脅かすかもしれない慈圓を犀星が選んだのが、単なる世間知らずの愚策だったのか、それとも、深い考えがあったのか、それは犀星にしかわからないことだった。

 なぜ自分を選んだのか、と、当時、慈圓が犀星に直接聞いたことがある。その時の犀星の返答は、慈圓の想像を超えたものであった。

『尊敬する父上に似ていたから』

 まだ、あどけなさの残る親王は、そう言って、慈圓の度肝を抜いた。そして、もう一人の人選を、彼に任せた。慈圓は考え抜いた結果、当時、まだ才覚を表していなかった緑権を推挙した。理由も聞かず、犀星は慈圓の勧めに従って、緑権を所望した。

 緑権を選んだ理由を、慈圓はいつでも答えられるように、と用意していたが、犀星が自分からそれを尋ねることはなかった。逆に慈圓の方が辛抱できず、理由が気にならないのか、と尋ねると、犀星は首を横に振った。

『お前に任せたことだ。お前が決めたのだから、それでいいのだ』

 全幅の信頼。

 それがあるからこそ、配下は主人に忠誠を誓える。この人のためならば、と身命を投げ打って精進していくことができる。

 周囲を成長させられる人間こそ、真に人の上に立つ資格がある。

 慈圓は、犀星の懐の深さに感服し、ようやく得られた理想の主人に満足した。

 さすがは犀将軍が天塩にかけて育て上げただけのことはある。

 犀星の養父、犀遠を良く知る慈圓は、心底、この親子が共に政治と軍事の表舞台に立てないことを残念に思った。

「どうした?」

 何やら、薄ら笑いを浮かべている慈圓を不審に思って、犀星が声をかけた。

「気味が悪いな。お前がそういう顔をしている時は、大抵、ろくでもない策を練っている」

「確かに、天下を憂いて思うところがありますのでな」

「今は、花街の水事情を憂いてくれ」

 犀星がどこまで本気かは知れない調子で言った。

「お前が丁寧に調べてくれたおかげで、ここまで進めることができたんだ。楽しもうじゃないか」

 犀星もまた、口元に意味ありげな笑みを浮かべた。

「伯華様のそのお顔を見ると、ますます、胸が高鳴りますなぁ!」

 言って、慈圓は豪快に笑った。

「お前は本当に文官らしくないな」

「いえいえ、武術はからっきしで…… 何かありましたら、伯華様の陰に隠れさせていただきますゆえ」

「わかった。今日は俺がお前の護衛だ。この手のことは、俺よりお前の方が現場で役に立つ」

「光栄に存じます、殿下」

 言い合って、二人は不敵に笑った。

 年齢も、立場も、生きてきた環境もまるで違う。

 出会ってから四年。

 しかし、二人の間には絶大な信頼関係が築かれている。

 犀星は確かに、人との関わりを嫌い、社交的な性格ではない。しかし、一度信頼した相手には、その命をも預けるだけの親交を持つ。だからこそ、簡単に誰にでも心を開くことはない。

 この親王に、全てを賭けよう。

 慈圓は頼もしい思いで犀星を見た。

 その犀星の目には、花街へと続く、都との境の門が映っている。

 花街は都の北西に位置し、出入りできるのはこの門だけだ。

「このような都の辺境、宮中の連中には、触れたくない汚らわしい場所、ですな」

「彼らは、ここの実態を知らない。知ろうともしない」

「ですが、伯華様は、ここから始めようとなさっている」

 嬉しそうに、慈圓は言った。

「わしは、それが楽しくてたまらんですわい」

 犀星は門を行き来する人々を眺めた。


最果てと

よばれし土地に

命あり
まだ見ぬ夢を

想い漂う
(光理)

 

「俺の夢を始めるのに、この場所は最もふさわしい。ここには、命が溢れている。都のどこよりも」

 犀星の目は現実を見つめながら、同時にその向こう側に理想を描いている。

 これは、治世の上では小さな一歩かもしれない。だが、敵地に投げ込まれた犀星が、自分の人生を切り開くための欠かせない大切な一歩でもある。

 本当は、お前と共に、ここにいたかった。

 犀星の脳裏に、歌仙に残してきた、愛しい人の姿が蘇る。

 五年前で時が止まったままのあの人は、今、どうしているのだろう。

 俺は、お前の心と共に、この仕事を成し遂げてみせる。そしていつか、お前に見て欲しい。俺がやってきたことの全てを。

 覚悟を決めたように、犀星は目を開いた。

 慈圓は眩しそうに犀星を見つめた。

 若き親王の胸の内は、いかに慈圓とてはかりきれない。しかし、はからずとも良い。ただ、信じて支えれば良い。

 二人は呼吸を揃え、頷き合うと、門の中へと踏み行った。

 花街には人が溢れ、真昼だというのに、堂々と客引きが往来に声をかけている。

 歩いているのはほとんどが男で、たまに華やかな色彩の着物があるかと思えば、連れと共にいる女郎である。

 女郎だけではなく、男娼の姿もちらほらと見かけた。

 俗人との区別は一目瞭然だった。皆、思い思いの美しい着物を纏っているが、同様に露出が多く、中にはあからさまに情欲を誘おうと身体を晒している者もいる。だが、彼らはこの街の奴隷ではない。彼らこそが、主なのだ。

 彼らは我が物顔で、来訪する客たちを選定している。

 ここでは、客が花を選ぶことはできない。相手に気に入られなければ、それまでである。

「清々しいほどだな」

 犀星は、いつきても変わらぬこの街の空気が好きだった。

 ここには、陰険で複雑な駆け引きはなかった。

 好きか嫌いか、気にいるかどうか、それだけだ。

 相手の腹を探り合う必要もなく、気を揉む必要もない。

 慈圓は楽しそうな犀星の横顔を、笑顔で見守った。

 何度か共に下見に来ているが、犀星はここへ来ると、表情が豊かになる。

 宮中では感情を見せない冷血漢のように言われるが、実のところ、ちゃんと心は動いているのだと、慈圓は安心するのだ。

 彼が感情を表さないのは、人間関係の余計な摩擦を避けるためだ。

 同様の理由で愛想笑いを絶やさぬ者がいるように、犀星は逆に感情を見せないことで、敵味方を分け隔てることなく平等に付き合っているだけだ。

 本当は、誰よりも感情の激しい方なのだろうな、と、慈圓は思う。

 今でこそ、犀星を信頼している慈圓だが、当初はそう簡単ではなかった。

 自分の主人が何者なのか、どのようにして育ってきたのか、自分の人脈を使ってこっそりと調べ上げていた。

 その結果、どうやら、犀星には共に育った従兄弟があり、その者との別れが、心に影を落としていることを知った。

 ただの、傷ついた子供じゃないか。

 慈圓は、気丈に振る舞う犀星が愛しく思われてならなかった。

「園、気をつけろ」

 物思いに耽っていた慈圓は、犀星の警戒の声で現実に引き戻された。

 犀星が目配せした先には、数人の目つきの鋭い男たちが、こちらを見て小声で会話していた。

「この界隈のごろつきの一派ですな」

 慈圓が眉を顰めた。

 花街の秩序を破り、金や権力、暴力を持って女郎たちを手籠にしようとする客がいる。そんな客たちに制裁を加えるのが、自称自警団を名乗るいくつかの派閥である。

「なぁ、園」

 犀星は、表情を消して、

「俺たちは、ここの秩序を乱すことになるかな」

「さぁ、どうでしょう。彼らにとっては、そうかも知れませんな」

 話がまとまったのか、四人の男が、こちらに向かって歩いてきた。

「どうなさいます、伯華様?」

 犀星はそれには答えず、じっと男たちを見つめていた。

「避けては通れない」

 やがて、犀星は無表情のまま、こちらからも歩み寄っていく。

 慈圓は、やはりな、と腹を括った。

 一悶着あるのは、覚悟の内である。

 犀星が血気盛んな東雨を連れてこなかった本当の理由は、この事態を予測してのことだった。

 数歩空けて、両者は立ち止まった。

 相手の男の中の一人が、顎で脇道を示した。

 先に行け、という合図だ。

 犀星は黙って示された横道に入った。慈圓は警戒しながらついて行ったが、路地に入った途端、背後から男に突き飛ばされ、地面に座り込んだ。

「園!」

 振り返った犀星の顔を掴んで、別の男が壁に押し付けた。

「あんたら、この前からうろうろしているよな」

 犀星は、自分を抑えている男の後ろを見た。

 男たちの中でも、とりわけて体格の良い人物だ。袖を落とした着物から、自分の倍ほどもある太い腕が見える。

「どう見ても、ただの都人とは思えねぇ。貴族か?」

「さぁな」

 犀星は挑発するように男を見た。どうやら、彼が男たちの指示役らしい。

「答えろ!」

 犀星を掴んでいる男が、乱暴に顔を押し上げた。首が捻れて、酷く痛む。それでも、犀星は黙って様子を見ていた。

「こいつ……答えろって言ってんだよ!」

 犀星の美しい顔が、一瞬、苦痛に歪む。その様子に、その場の空気がフッと変わる。

「いいだろう」

 指示役の男が、口を斜めに歪めた。

「そんなに言いたくなきゃ、調べるまでだ。剥いてやんな」

 男の指示で、他の二人も犀星の手足を鷲掴んだ。最初の男が、着物に手をかけ、力任せに引き下ろす。

 犀星の白い肌が薄暗い路地の光の下で、艶かしく際立った。

「こりゃ、上玉だな。買うより売った方がいいんじゃないか?」

 最初の男の言葉に、他の二人が笑い声を上げた。

 犀星は大人しくされるに任せていたが、そこで、彼らと一緒になって、笑みを浮かべた。

「!」

 犀星のその目が、あまりに凄みを帯びていたため、思わず、三人は犀星から一歩離れた。

「何だ、お前……」

 最初の男が、豹変した犀星の雰囲気に気圧されて、怯えた声を出す。

「お前たちは、この辺りの派閥の者か?」

 姿勢を正し、流れるような動きで着物を直すと、犀星は指示役と思しき男に直接向いた。

​「話がある」

 犀星の気迫は、腕っぷしの強い、荒事を生業とする男たちさえ、息を呑むほどだった。

 明らかに自分より若く、線の細い犀星を相手に、男四人はひるんだ。

「話だと?」

 指示役の男が、精一杯に威厳を保とうと、先頭に出た。

「お高く止まった貴人になんか、話すことはないね」

 犀星は普段の、冴えた瞳で男を見据えた。どんな時、どんな相手でも、犀星が臆することはない。

 慈圓は腰をさすりながら、立ち上がった。

「伯華様!」

「園、心配ない」

「ですが……」

 慈圓は苦虫を噛み潰した顔で、男たちを見た。まともに話ができる相手だろうか。

「伯華?」

 指示役が、慈圓の呼んだ名を捉えて問い返す。

「どこかで……」

 言いながら、彼は犀星の髪と瞳をじっと見た。

「その稀有な色……まさか、あんた、歌仙か?」

 呼び捨てられても、犀星は顔色一つ変えない。

「こりゃ驚いたな。その容姿、間違いねぇ」

 男は面白そうに犀星に一歩近づいた。

「噂ってやつは、とかく誇張されがちだが、あんたの評判に嘘はないようだな」

「どんな噂かは知らないが、鵜呑みにするのは馬鹿だ」

 犀星は堂々と男を見返し、視線で射抜く。

「自分の目で見たことだけが真実だ」

「なるほど、それがあんたのやり方か」

「そうだ。だから、俺自身、ここに直接来ている」

「何をする気だ?」

 指示役は、いつしか犀星の調子に乗せられていることを薄々感じながら、それでも逃れきれなかった。

「ここには、世の中のクズしかいねぇ。人間の欲望を利用して生きる、汚ねぇ連中の吹き溜まりよ」

「汚い? 俺はそうは思わない」

 犀星は本心から、そう答えた。

「ここで生きる者が汚いと言うなら、それを金で買いにくる奴らは、もっと最低だな」

「ほう?」

 男は、犀星のおびえることを知らない態度に、いつしか興味をそそられたようだ。

「お前、名前は?」

「……洲(しゅう)」

「では、洲。尋ねるが、このあたりのことには詳しいのか?」

「詳しいのか、だと?」

 男、洲は口元を歪めて笑った。

「生意気なことを聞くじゃないか? この一帯は俺たちの縄張りだ」

「この一帯というのは……」

 犀星が慈圓を見る。慈圓は意図を察して、抱えていた風呂敷の包みから、一枚の地図を取り出し、犀星の方へ差し出した。それを受け取ると、犀星は広げて洲に見せた。

「具体的に、どのあたりだ?」

「はぁ?」

 明らかに面食らって、洲は声を上げた。

「おい、俺たちは……」

「いいから答えろ。それとも、顔をきかせているってのは、ハッタリか?」

「テメェ……」

 洲は地図を奪うと、おおよそのあたりをつけて折りたたんだ。

「この範囲だ」

 表になった地域を確認して、犀星は頷いた。

「いいだろう」

 地図を取り返すと、犀星はすたすたと表通りに戻っていく。

「おい! まだ見逃してなんかいねぇぞ!」

 犀星は背後から飛んでくる洲の怒声など気にも止めず、地図と実際の街並みとを見比べている。

 洲の部下たちは、あまりにも物怖じしない犀星の態度に、完全に牙を抜かれてしまった。

 慈圓が首を振って、

「おぬしたち、悪いことは言わん。伯華様の話を聞け。おぬしたちにも、得になることだ」

「なんだ、老いぼれが!」

 若い男が突っかかっていくのを、洲が制した。

「どういうことだ、ジジイ」

 慈圓はまだジジイ呼ばわりされる年ではない、と心の中で憤慨しつつも、無言で犀星の方を目で示した。

「このあたりは、花街でも一番北寄りだな」

 犀星は隣に近づいてきた洲をちらりと見た。

「ああ。それがどうした?」

「結論から言う。この街の治水工事を計画している」

「な、何だって?」

 訝しげに洲は眉を寄せた。

「治水工事?」

「そうだ」

 犀星は地図をたどりながら、

「この北の川から、直接、ここへ水を引きたい」

「…………」

「用水路を掘って、山からの一番水を引き入れる」

「あんた、本気か?」

「ああ」

 あっさりと、犀星は頷いた。

「お前もここで生きているなら知っているだろうが、花街の水は最悪だ。地下水脈が都を先に通ってくるから、井戸水もほとんど出ない。都から水を買ってどうにか凌いでいるだろう?」

「それは、そうだが……」

「おかげで、慢性的な水不足だ。しかも、衛生面でも酷い環境だ」

 犀星は地図を示して、

「この道に沿って、用水路を作る。水路の脇には柳を植えて地盤を固める」

「おい、街の中心に川を通すってのか?」

「そうだ。その方が、街中での水の管理もしやすいし、さらに水路を拡張するのにも便利だ。水路で区画を分ければ、火事の際の延焼防止にもなるし、水はそのまま消火に使える」

「…………」

「問題は、人手が必要だ、と言うことだ」

 犀星はようやく地図から目を上げて、洲を見た。

「頼めるか?」

「え?」

「工事に関わる人員は現地調達する、という条件で、この計画を通した。もちろん、雇い賃は出す。金額は交渉に応じる。問題は金ではなく、それだけの人数を確保できるか、ってことだ。お前、顔がきくんだろう? どうなんだ?」

 犀星の説明に圧倒されていた洲は、思わず、部下の男たちを振り返った。彼らも顔を見合わせて、突然の話に言葉もない。犀星はさらに続けた。

「これがうまくいけば、花街全体の利益になる。工事に関わる人間にも金が入るし、その結果作られる水路も、この街のものだ。その恩恵は街に暮らす全ての人々にもたらされる。もちろん、そのための税など取らない。初期投資は俺が出す。どうだ? お前たちにとって、損なことは何もないと思うが?」

「そ、それはそうだが……」

 洲は明らかに、困惑していた。

 何か気に入らないことをしていれば、どやしつけて追い返すつもりで、犀星たちを見張っていたというのに、このような展開になろうとは予想もしていないことであった。

「なぁ、歌仙さん、訊いてもいいか?」

「無論」

「どうして、こんなことをしようとする?」

 洲の問いかけに、犀星は静かに答えた。

「ここが、都にとって、大切な場所だからだ」

「は?」

 これまた、想像から外れた返答だった。

「あんた、何を言っているのかわかってんのか? ここは都の中でも掃き溜めだ。欲望を食い物にする街だ。真っ当に生きられない連中の巣窟だぞ。そんな所を整備しようなんざ、どうかしてるぜ?」

「お前、この街の人間なんだろう?」

 犀星は、逆に問い返した。

「それなのに、ここの価値が全くわかっていないな」

「価値だと?」

「そうだ。お前が言うように、ここは肉欲の街だろう。だが、それを恥じる必要はない。この街は人を癒やす。生まれも立場も関係なく、平等に、だ。人にとって、誰かを愛し、愛される喜びは、生きるために必要不可欠なもの、まさに、水と同じだ。たとえそれが一夜の夢だろうとな。ここは『水源』なんだ。だから、この街から、俺は始めたいんだ」

 犀星の思いの吐露に、真っ先に微笑したのは、他でもない、慈圓だ。

 現実的に考えて、花街は決して、犀星が言った通りの愛の溢れる桃源郷ではない。そこには毒もあれば悪もある。犀星とて、そのことは百も承知だ。だが、それは宮中であろうと都であろうと、似たり寄ったりである。

 そして、この地域は北の川に一番近く、最も治水工事に着手しやすい環境にある。

 さらに、宮中の息がかかっておらず、勝手をしても、官職にある者たちに睨まれることもない。都や宮中で事を起こすより、まずは花街を先に行うのは、順序というものだった。

 利点は他にもある。花街は多くの都の民も出入りする。そこが整備され、環境の良さが伝われば、自然と都の民も、自分達の住む地域に治水工事の手が入る事を望むようになる。都や宮中に犀星の事業を知らしめるための見本市でもあるのだ。

 あらゆる可能性から、犀星はこの場所を選んでいた。

 洲は、むぅ、と唸ったきり、腕を組んで地図を睨みつけていた。

「一つ、問題がある」

 今までになく落ち着いた声で、洲が言った。

「街の性質上、ここは女の割合が高い。しかも、ほとんどが遊女だ。男も男娼は使えない。力仕事ができる奴らは、大抵、どこかの遊郭の用心棒で、人手が余っている訳ではない。都の知り合いや近隣の農村に手を回せば、それなりの数は集められるだろうが、外部から人を受け入れることになる。工事の間、その労働者を住まわせる土地は、ここにはない」

「それは、問題ない」

 犀星は頷いた。

「ここは、何の街だ?」

「え?」

「宿泊できる店なら、いくらでもあるだろう?」

「だ、だが、それは貸宿で、商売をしている訳で……」

「宿は宿だ。寝泊まりはできる」

「しかし、無償で労働者を泊めさせる宿なんて……」

「誰が無償だと言った?」

「……まさか!」

「そうだ。宿ごと、借り受ける。金を払ってな。それなら、不満はないだろう? 住み込む労働者が、他の店の客にもなる。金はこの街に落ちる」

「あんた……」

「俺は、ここを変えたいだけだ。これで儲けるつもりはない」

 洲は呆然として犀星を見た。そこには、先ほど突っかかってきた荒くれ者の気配はなかった。

「どうだ、力を貸してもらえるか、洲」

 対等だ。

 洲にはわかっていた。

 犀星は決して、威圧的に進めるつもりはない。自分と対等に話をしているだけだ。

 治水工事の知識と技術、そして先行投資の金を犀星が出す。

 自分達は、その計画に乗り、人手を集めて束ねていく。

 悪い話ではない。むしろ、信じられないような好機である。だが、洲はまだ、一つ、解せなかった。

「歌仙さんよ。あんた、どうして、そこまでするんだ? あんたには、何の特にもならないだろう?」

「なる」

 犀星は隠すつもりもないらしく、正直に答えた。

「ここで結果を出せれば、これから先、都での工事もやりやすくなる。それに成功すれば、今度は周辺地域の農村にも手が出せる」

「農村、だと?」

「俺が最終的にやりたいのは、この一帯の農地改革だ」

 犀星は、にやりと笑って見せた。

「俺が育った歌仙は、そのほとんどが山林と農地だ。俺には、その血が流れているんだ」

「……面白い!」

 洲は、気に入った、と犀星の背中を叩いた。

「あんた、親王なんかやめちまえ」

「?」

「皇帝になりゃいい」

 洲の大きな笑い声が、晴れて澄んだ花街の空に響いた。

 

 犀星と慈圓が花街の門を出たのは、すっかり日が傾いた時分だった。

 心地よい疲労と達成感で、二人は穏やかな表情を浮かべたまま、黙って街を後にした。

 洲に案内され、花街の有力者の協力を取り付けることにも成功した彼らの今回の訪問は、首尾上々である。これからが正念場ではあるが、犀星にも慈圓にも、十分な手応えと勝算があった。

 早く五亨庵に戻って、留守を任せている緑権たちを安心させてやりたい。

 二人の足取りは軽かった。

 と、門を抜けた往来に、人だかりができている。二人は顔を見合わせた。

 高い女の怒鳴り声が、人山の中から聞こえてきた。

 何か揉め事ならば、その場を素通りできないのが犀星の気性である。

 慈圓は、事が大きくならないことを祈りながら、人だかりをかき分けていく犀星を追った。

「どうした?」

 人の輪の中心に、都の辺境には似つかわしくない、華やかな装束の女が立っている。その足元には、少女がきちんと足を揃えて座り、項垂れていた。

「歌仙様!」

 振り返った女は、趙姫である。

 犀星の顔から感情が消えた。

「この娘がわたくしの行列の道を横切りましたので、罰を与えているところですわ」

 犀星は、砂利の上に砂埃にまみれて座っている娘を見た。明である。

 すでに趙姫の供の者たちに蹴られるなりしていたらしく、明は髪や顔まで土で汚れ、額を擦りむいて赤く血が滲んでいた。

「仮にも公儀の末席に身を置く者が、民に狼藉を働くなど何事ですかな」

 慈圓が犀星の後ろからたしなめた。

 犀星自身が叱責するより、彼が口にした方が、親王の名を汚さずに済む。

「しかも、道は全ての民のもの。それを横切ったとて、その娘に咎はありませんぞ」

「邪魔をしただけではございませんわ」

 趙姫は気丈に慈圓を睨みつけた。

 慈圓が宮中の人脈に通じていること、父である左相の趙然と不仲であることは、趙姫も知っていた。

「おかげで、供が親王様への贈り物を取り落としてしまいました。これは、歌仙様への冒涜も同じことです」

「私への冒涜を働いているのは、あなたの方だ」

 犀星が、静かな、よく通る声で遮った。

 成り行きを見守っていた都の老若男女たちは、両者の会話から、犀星の正体を知って振り返った。

 明が、怯えた目で犀星を見る。泥で汚れたその顔に、幾筋も涙の跡があった。

 犀星は早足で明によると、そのそばに片膝をついた。周囲からどよめきが上がる。

​ 歌仙親王を見るのは初めて、という者たちばかりだが、親王自ら土に膝をつくなど、考えられないことであった。

 明の唇の端に滲んでいた血を、犀星はそっと手を添え、自らの着物の袖で拭う。

「親王様……あたし……」

「もう、大丈夫だ」

 犀星の囁きは明にしか聞こえなかった。彼女の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。

「まったく、とんだ災難ですわ」

 趙姫が頭痛でもするかのように、額に手を当てた。

「こんないかがわしい所まで来たというのに……」

「いかがわしい、だと?」

 犀星の眼差しに、ちらりと怒りが走った。そのまま、明を背に立ち上がると、趙姫を見据える。

 趙姫は美しい眉を歪めた。

「歌仙様が、なにゆえ、このような場所に執着なさるのか。殿下のような方がお運びになる場所ではございません」

「あなたは、この街の価値を知らぬのに、どうしてそう、言い切れるのです?」

「歌仙様」

 趙姫は口元を覆ったまま、

「花の街に、価値などございません」

 明が、そばに立つ犀星の殺気を感じて、身を震わせた。

 慈圓が素早く、犀星と趙姫の間に割って入る。

「貴姫様、ならば、なにゆえ、あなた様は価値なき場所にいらっしゃったのです?」

「無粋な……」

 趙姫は妖艶に目を細めた。

「歌仙様がお出かけとお聞きし、労いの品をお届けに参りましたのですわ」

「ほう」

 慈圓は、無言で犀星を押しとどめた。

「わしらの話を盗み聞きし、親王殿下の跡をつけた上、殿下が目をおかけになった街に価値が無いとまでおっしゃる。挙句に、殿下の贔屓の女性(にょしょう)に往来で恥をかかせるとは、どこが労いだとおっしゃられるのか、この老朴には、まこと、理解できぬことにござりまするな」

 趙姫が明らかに不愉快を滲ませた目で、慈圓を見る。だが、彼女もこれ以上、五亨庵を敵に回す事が、犀星を手に入れるために得策ではないことを承知している。

「わかりました。どうやら、わたくしには、やはり下賤な方角は凶であったようです」

 優雅に礼をすると、趙姫は踵を返して籠に戻る。

 そのそばに、従者が一人、箱を捧げて近づいた。

「姫様、歌仙親王殿下への贈り物はいかがなさいますか?」

 その一言が、趙姫の逆鱗に触れた。彼女は乱暴に箱を払い落とした。土の上に朱塗りの箱が叩きつけられ、蓋が飛んで、美しい花を象った砂糖菓子が散らばった。

「土に堕としたものを、歌仙様に献上できるわけがないでしょう! この恥知らず!」

 一喝された従者が、その場に平伏する。

 趙姫たちの行列が動き出すと、人々はざわめきながら道を開けた。

 犀星の後ろに座り込んでいた明が、よろめいて立ち上がる。そのおぼつかない足元を支えるように、犀星はそっと手を貸した。

「明、お前、こんなに遠くまで、行商に来ているのか?」

「……うん」

 明は俯いたまま、頷いた。

「花街はお得意さんなんです。みんな親切だし、金平糖を楽しみにしてるから」

「そうか」

 犀星は明の体の土をほろってやりながら、

「お前は、あの街が好きか?」

「はい!」

 パッと顔を上げて、明は思わず犀星に見とれた。

 いつも、五亨庵の奥で黙々と仕事をしている犀星を見慣れているが、こうして近くで見ると、その美しさに胸が高鳴る。

「き、綺麗……」

「うん?」

「……あ、あの……綺麗な、曲」

「曲?」

「はい……」

 明は誤魔化すように犀星から目をそらして、地面に撒かれた花の菓子を見た。

「お金、もらわない。その代わり、街の姐さんたちが、琴や琵琶を聞かせてくれるの。それが、とても綺麗」

「そうか」

 犀星は、素朴な少女の姿を、目を細めて見守った。


誰ぞ知る

はるかな国の

その歌を
君に聞かせん

息のある間に
(仙水)

「いつか、親王様も、頼んでみてください。とても、優しい音がするから」

​ 言いながら、明はこぼれた砂糖菓子を、丁寧に拾い集め、転がっていた箱に戻した。

「明?」

 慈圓がそれを手伝ってやりながら、首を傾げる。

「この菓子、どうする気だ?」

「明神様にお供えするよ。だって、可愛そうだもの。せっかく、誰かが大切に作ってくれたお花」

 犀星は、無意識に両手を握った。

 もし、自分が恋をするなら、明のような娘なのだろう。

 一瞬、彼の胸に吹き抜けた想いは甘く、そして、彼自身にも気付かぬ程に、儚かった。

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