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歌仙詠物語10
琴音(光理​の章

 萩野中将は、異国からの来訪者だった。

 祖国での名前は、萩野家影(はぎのいえかげ)といい、貿易船で渡ってきた渡航者だ。

 元々、政治や商売とは無関係で、祖国での罪を問われ、流罪にされたおり、その船が沈没し、ちょうど通りかかった商船に助けられて、この国にたどり着いた。

 流刑の身とはいえ、彼は音楽に長けており、この国では珍しい楽器をいくつも作り、演奏するということで、宮廷の楽師の末席に加えられた。初めこそ、目立たない、ただ、物珍しさだけの存在であったが、やがて彼の異国情緒漂う楽の音は、貴人たちの間で評判となり、徐々にその暮らしぶりや扱いは丁重になっていった。

 流れ着いてから二十年がたち、今は齢四十を過ぎている。犀星も幾度か式典の際にその音色を耳にしたことがあったが、一度聞けば忘れることはない、独特の哀愁ある響きを持っていた。

 今は、宮中に小さな屋敷を与えられ、家族と共に暮らす傍ら、楽の師範をしている。

「萩野どの、ですか?」

 東雨は気乗りしない様子で、犀星の供をしながら、ため息をついた。

 宮中の奥にある萩野の屋敷まで、玲陽を連れて行くのは不用心であるため、玲陽は邸宅で留守番だ。

「俺は、あの人の楽器の音、あまり好きじゃないんですよね」

 東雨ははっきりと否定した。遠慮ない物言いに、犀星は清々しささえ覚える。

「確かに、独特だからな。好みは分かれるだろう」

「ですよねぇ」

 東雨は憂鬱そうに、

「嫌いってことじゃなくて、なんか、聞いていると不安になる、というか、気持ちが暗くなるというか」

「そういう文化の祖国だったのだろうな」

「あんな物悲しいものが好まれる国って、一体どんな国ですか? 俺は行きたくないです」

「そうだな」

 犀星は萩野の音色を思い出しながら、

「俺たちにはわからない美意識なんだろう。だが、琴に関してはそれほど違わないと思うぞ」

「それは確かに」

 東雨も、犀星と同席して聞いたことがある。どの楽器を使わせても一流ではあるが、特に弦楽器は卓越していた。

「今は、息子の萩南(しょうなん)が後目を継ぐって言われてますけど、娘がいると聞いた記憶はないですね」

「そのあたりのことは、慈圓に調べてもらっている」

「え? 仲草様も知らなかったんですか?」

「ああ」

「それなら、絶対、嘘ですよ。あの爺様が知らないことなんて、宮中にはないですから」

「だが、傀儡本人が言ったことだしな。お前も、琴を習えるんだからちょうどいいだろう。凛に馬鹿にされる前に腕を上げておけ」

「! え? お、俺、弟子になるんですか?」

「言ってなかったか? そういうことにすれば、近づきやすいから、と……」

「聞いてません!」

「ただの口実だ」

「もう…… あ! もしかして、陽様の思いつきですか?」

「ほう、よくわかったな」

「だって、若様なら、考えなしに直接乗り込んだでしょうから」

「そのつもりだった。だから、陽に嗜められた。どっちがマシだ?」

「……俺が一緒の方が警戒されずに済むと思います……」

「だったら、よろしく頼むぞ」

 東雨は複雑な表情だ。

 凛との琴の重奏を思えば、得な役回りではある。

 だが、その師範となる人の周囲に、傀儡が張り付いているとわかっていて、近づくのは望ましくない。

 あたりの風景が少しずつ静寂を帯びてくる。

 開けた華やかな花々の咲き乱れる区画を抜けると、緑一色に染められた竹林と笹が小道の両脇にさやさやとゆらめいて茂っていた。

 奥にある庵に、萩野とその妻、そして息子の萩南の三人が暮らしている。庵の隣には、楽の修練所があり、名家の子息や息女が、教養の一つとして通っている。

「誰にも会いませんね」

 周囲に人の気配がないことに、東雨は警戒心を強くした。

「楽器の音もしないし……何か、聞こえませんか?」

 東雨は犀星を見上げた。

 東雨の言葉は、傀儡に関する音が聞こえないか、という意味だ。

「いや、何も……」

 と、言いかけて、犀星は歩みを止めた。

「東雨、動くな」

「…………」

 黙って立ち止まると、犀星の邪魔にならぬよう、東雨は息を潜めた。彼には、風が笹を揺らす音しか聞こえない。だが、犀星は明らかに別の何かを探っているようだった。

「……琴音……東雨、聞こえるか?」

 東雨はさらに耳をそばだてた。

「いいえ」

「傀儡の音か……」

 東雨は唾を飲み込んだ。

「傀儡が、琴を弾いている、というんですか?」

「わからない。こんなのは初めてだ」

「あの……」

 戻りませんか? と言おうとした東雨を遮って、

「行くぞ」

 犀星は真逆の行動に出る。

「若様……本当に無茶です」

「今に始まったことではない」

「自分で言わないでください」

 犀星の頭の中には、たどたどしい琴の音が確かに響いていた。決して上手くはない。習いたての、子供が弾いているような音だ。曲というより、調弦をしているような、旋律にはならない音。距離も方向もわからないが、確かに聞こえている。

 行手に、萩野の庵が見えてきた。

「東雨、琴の音は聞こえるか?」

「いえ。静寂です」

「では、やはり何かあるのか」

 犀星は再び立ち止まると、周囲を見回した。

 三人しか暮らしていないとはいえ、人の気配が感じられないのは不可解だ。

 たとえ何らかの用件で主人である萩野が外出していたとしても、妻や息子は残っているはずである。

「家族全員、留守、でしょうか?」

 東雨は庵の扉を見つめた。

「そこで何をしている!」

 突然の声に振り返ると、案の定、気難しい顔をした涼景が立っている。犀星たちに気配を悟られずに近づける者など、彼を置いて他にはいない。

「涼景、なぜ、お前がここに?」

「それはこっちの台詞だろ。五亨庵より奥に来るなど……何があった?」

「萩野に会いにきた」

…………」

 涼景の顔が険しくなる。

「星、お前、あいつに何の用があって……」

 と、言いかけ、涼景は目を見開いた。

「出たのか、女の傀儡か?」

「なぜ、知っている?」

「昨夜、庵の床下から、死体が上がった」

「え?」

 東雨が顔をしかめる。

「正確には、腐乱死体が発見された、というべきか。それで、もう一度、ここを調べに来たんだ」

「涼景? 萩野には、娘がいたのか?」

「娘?」

「ああ。昨夜、俺たちの前に現れた傀儡が、萩野中将の娘、と名乗った」

「妙だな」

 涼景は口元に手を当てて思案した。

「確かに、死体は女のものだったが、娘はいない」

「間違いないのか?」

「いたところで、隠す必要はないだろう」

「それはそうだが」

「では、その死体……な、亡くなった方、というの誰なんですか?」

 東雨がたまらず、口を挟む。

 涼景は言いにくそうに、

「宝順帝の公主の一人だ。一月前から行方知れずになっていた」

「それが、どうして萩野と結びつく?」

「ここの修練所で琴を習っていたそうだ。失踪した日も、ここへ来たのを最後に目撃が途絶えている」

「萩野が殺した、とでもいうのか?」

「単純に考えればそうなるんだが」

 涼景はため息をついた。

「萩野には、動機がない。本人も妻子も否定している。とりあえず、家族三人、今は地下牢にいる。嫌疑が晴れるまでは、釈放はないだろう」

「嫌疑を晴らそうにも、確かめようにも、手段がないだろ?」

「問題はそこだ」

 涼景は疲れた様子で、

「正直、この件に関して帝は無関心だ。公主など、余るほどいるからな。だが、その母親は狂ったように萩野たちを責めている。このままでは、たとえ無関係であろうと、拷問の末に一家皆殺し……」

「あうっ!」

 涼景の声を遮って、犀星がうずくまった。

「星!」

 助け起こした東雨と涼景の手に、犀星の震えが伝わってくる。

「若様! 何が聞こえるんです?」

「こ……琴の……音……」

 無駄だと分かっていても、東雨は急いで庵の中を改め、修練所を覗き込んだ。当然、誰もいない。

「涼景?」

 探しに来たのか、竹林の入り口の方から、蓮章が走ってくる。

「東雨! とにかくここを離れて、五亨庵に向かうぞ! 蓮章、すぐに陽を五亨庵に連れて来い!」

「わかった」

 いつものように、涼景の命には理由も聞かずに従う蓮章が、すぐに竹林を引き返していく。

 二人がそんなやりとりをしている間に、犀星は悲鳴を上げて意識を失う。

「東雨! 何をしている? 早く来い!」

「先に行ってくれ! 何か、ある!」

「何だ?」

「わからない。でも、奥の笹藪に何かある…… すぐ追いかけるから、若様を!」

「わかった」

 涼景は急ぎ、犀星を抱き抱えると、竹林を抜けた。

 東雨はそれを見届けてから、修練所の裏手の藪の中に入っていく。足元を草に取られて、思うように進めないが、緑と黄色に覆われた下草の中に、確かに何かが打ち捨てられていた。

 近づいて、ぼろぼろに壊れたその正体に気づき、東雨は息を呑んだ。

 夕刻の、橙色の太陽光が差し込む部屋で、綿を織って作った敷物の上に座り、玲陽はそっと琴を前にしていた。

 昨夜、東雨が持ってきた、一本の弦が切れた琴。

 絹糸を取り替えることはせず、切れたままにしておくのには、玲陽なりの考えがあった。

 あの傀儡は、確かに弦が切れた音に怯えた。

 それは偶然ではあったが、彼女の心と密接に関わっている証拠を伝えている。

 玲陽は切れた弦の端を見つめた。それは摩耗や劣化によって切れたものではなく、明らかに刃物で切られたような痕跡である。だが、東雨がわざと弦を切る必要はなく、何者かの力が外部から働いたと考える方が納得がいく。

「陽兄様?」

 玲陽がしばらく部屋に篭りっきりなのを案じて、恐る恐る、玲凛が扉を細く開けて、中を覗いた。

 犀星と玲陽の部屋であるここを、玲凛は避けていた。

 無遠慮な……というより、わざと覗きにくる東雨に反して、玲凛はまだ、連れ合いの寝所に堂々と入ってくるようなことはしない。ましてや、それが、兄と慕う玲陽と犀星の部屋であれば尚更だ。生娘の玲凛にとって、玲陽たちが睦あう姿など見れば、卒倒しかねない。さすがに、そこはわきまえている。

「凛どの」

 玲陽は心配そうな玲凛を招き入れた。

「あ……」

 扉を閉め、部屋に二人きりになると、玲凛は不意に目を閉じた。

「いい香り……」

「香です」

 玲陽は、歳の離れた妹を優しく見つめた。

「茉莉花(まつりか・ジャスミン)です。私が好きだから、兄様が絶やさずに焚いてくださいます」

「……星兄様……本当にお優しいですね」

 どこか寂しそうに、玲凛は呟いた。

「どうか、なさいましたか?」

 些細な変化も、玲陽は見逃さない。玲凛が自分とは違った力を持っていることに、彼も本能的に気づいている。そして、それを隠していることにも。何も知らないふりをして、この少女が抱えている苦悩は計り知れない。

「兄様」

 琴を挟んで向き合って座ると、玲凛はじっと膝の上に目を落としたまま、

「琴、教えて下さい。忘れちゃいました」

「凛どの?」

 嘘だ。

 玲陽を騙すことなどできはしない。ただ、騙されたふりは、玲陽の得意とする所である。

「私も、上手くはないのですよ」

「いいんです。私より、ずっとお上手ですし、それに……」

「わかりました」

 そう、それに。

 今、一人で琴を鳴らすということは、あの傀儡を呼ぶ可能性があるということ。

 玲陽のそばにいた方が安全だ。

「すみません、凛どの」

 玲陽は琴柱を正しながら、

「私たちの思いつきが、とんでもない事態を招いてしまったようです。苦しいものを、目覚めさせてしまいました」

「いえ、それは、兄様方のせいではありません。私たちが、上手く関係を築けないから……」

「よくやっていますよ、凛どのは」

 玲陽は、決して上辺だけではない言葉で玲凛を励ました

「東雨どのは、今、あなたがそばにいてくれて、どれだけ救われているかわかりません。本人に自覚はないかもしれませんが、兄様も私も、そう、思っています」

「詳しいことは知らないですけれど……」

 玲凛はちらりと上目遣いに玲陽を見た。

「私が来る前に、大怪我をしたとか」

「ええ。彼の人生は大きく変わってしまった。もし、あなたがいなければ、そのことで思い悩み、苦しむ時間を過ごしていたかもしれません。けれど、今は、そんな暇もない。あなたと張り合うことで、余計なことを考えずに済みます」

「そう……ですか」

 玲凛は複雑そうに眉根を寄せた。

「東雨どのの琴糸が切れたのは、あなたの力ですか?」

「え?」

 弾かれたように、玲凛は顔を上げた。

「あのままでは、傀儡を払う手立てがなかった。あなたがしたことなのでは?」

「…………わかりません」

 玲凛は心底困惑したようだった

「ただ、私は兄様のそばにいるように、とだけ……」

 玲陽は珍しく影を帯びた玲凛の頬に手を伸ばした。

「すみません、おかしなことを言いました。私はただ、あなたが私たちの惨禍の中に巻き込まれることがないかと、案じています」

「凛は、強い子です」

 玲凛は大切そうに玲陽の手に自分の手を重ねた。

「兄様方が名付けてくれた、この名に恥じぬ、強い人になります。大丈夫です」

「凛どの……」

 玲陽の胸に、犀星へとは違う、暖かな安らぎが満ちていく。世界で二人だけ、置き去りにされたような兄妹。

 この人が生きていく世界を、時代を、守ることが、自分にできるただ一つの希望。

「琴……でしたね。練習しましょう」

 玲陽は、弦を欠いた琴に触れた。

「直さなくて良いのですか?」

「おそらく、弦を張り直せば、また、あの傀儡を呼ぶことになります。このままで……」

「けれど、それでは全ての音を奏でることはできません」

 玲陽は微笑んだ。

「自分の想いを伝えるのに、この世界にある、全ての言葉を必要とはしません。かつて、私の拙い音が、兄様に届いたように……」

 玲陽の白い指が、優しく弦を辿り、一つ、高い音を響かせる。

 その、たった一つの音が、長く部屋の中に余韻として残り、玲凛の頬に、涙が溢れた。

「なぜ……涙?」

「凛どの。楽も歌も、誰かに届けるものに、手管は必要ありません。人の心に届くのは、人の心だけです」

奏でしは

誰を想ひて

弾(はじ)くかと

人問いたもれ

我が胸のうち

(光理)

 

「真心……」

 玲凛は、一音、一音、丁寧に心を込める玲陽の音を聞いていた。

 大切なのは、奏でる技術ではなく、音に込める想い。

 今、この時でさえ、玲陽の音からは、犀星に向けられた深い愛情が伝わってくる。

『私に、こんな音が出せる日が来るのかしら』

 心秘かに、玲凛は安らいだ兄の顔を見守りながら、長い憧れのため息を漏らした。

 と、

「陽! 陽はいるか!」

 表扉を破るような勢いで、蓮章が飛び込んでくる。

 素早く立ち上がると、兄妹は玄関に出た。この瞬発力はさすがに鍛えられているだけのことはある。

「蓮章様、どうなさいました?」

「すぐにこい!」

「え!」

「兄様!」

「凛、お前は留守番だ! 絶対に宮中に来るな!」

「蓮章様、何があったんです? 星は無事なんですよね?」

「いいから、乗れ!」

「あ!」

 蓮章は軽々と玲陽を馬の鞍に上げると、抱きかかえて手綱をとる。

「凛どの、あの琴のそばにいて下さい!」

「は、はい!」

 疾風のごとく、蓮章は玲陽を連れて五亨庵まで駆け通した。

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