top of page

歌仙詠物語4
春爛漫

 玲陽が都に来て、初めての春が巡ってきた。

 歌仙よりも北にある都の冬は厳しいが、その分、春の訪れを願い、楽しみに待つ人々の心の浮き立つことは、幾倍である。

 冬の間、冷菓子を口にし続け、寒さと傷と戦い続けていた玲陽も、最近では少しずつ、暖かな粥を食べられるようになってきた。

 最初は重湯から始め、少しずつ、犀星と同じものを食べられるようにと、ゆっくりと食事療法を続けている。早く美味いものを食わせてやりたい、と先走る犀星を、東雨がたしなめる毎日である。

 玲陽は東雨とのわだかまりを一切、記憶に留めていないようだった。雪解けと共に、二人の中も近づき、むしろ、東雨の方が玲陽に固執するほどである。

 帝との縁が切れた訳ではないため、さまざまに思うところはあるようだったが、それでも、今年の春は本当に穏やかに、東雨の心を満たしてくれた。このような季節を感じたことは、かつてなかっただろう。

「朱雀大路の東方の池が、素晴らしいんです! 霞池というんですが」

 東雨は犀星と玲陽と共に夕餉を食べながら、嬉しそうに話した。東雨は犀星が無理なものを玲陽に食べさせないように見張りながら、

「夏には大きくて美しい蓮華が咲くんです」

「今はまだ、時期じゃない」

 興味がなさそうに犀星が首を振る。

「それでも、水に映る新緑は綺麗ですし、何と言っても、池を巡るように植えられた枝垂れ桜は、本当に仙界にいるようで、風が吹くたびにくらくらするような美しさです」

「俺は好きじゃない」

 遠慮なく、犀星が否定する。

​「派手なだけで、命を感じられない。どこか、遠い世界の絵そらごとのようで……」

「若様はそう言って、まともに見に行ったことがないじゃないですか。いつも五亨庵に閉じこもって、みんなが飲んで食べて楽しんでいる宴には、顔も出さない。だから、歌仙親王は雅を理解しない、とか言われるんです」

「あんな馬鹿騒ぎが雅だと言うのか? 冗談だろ」

 犀星が無表情で箸を口に運びながら、

「東雨の目当ては、桜の盛りの頃に、宮中で商売をしている屋台だ」

「屋台、ですか?」

 玲陽が粥を味わいながら、顔を上げた。

「団子や砂糖菓子に、桜の酒、珍しい魚の乾物なども出ている」

「随分、にぎやかそうですね」

 玲陽は大切に、一口、一口、粥を運びながら、

「私は当分、砂糖菓子は、ごめんです。この半年、毎日毎食、あの甘さで誤魔化していましたから」

「そりゃ、嫌にもなるだろうな」

 犀星がふっと笑う。

「それなら、団子はどうです? 米粉を使っていて、味噌で焼いたものもあるんです!」

「おい、東雨。陽はまだ……」

「あ……すみません……」

 しまった、と東雨が照れる。玲陽はにっこりして、

「東雨どのは、お団子がお好きですか?」

「はい! 若様が、新年の餅も嫌うから、俺まで食べられなくて……」

「私たちが育ったところでは、米よりも、粟で作ることが多かったんです。ですから、偏食家の兄様も、頑固に拒んでいるんでしょうね」

「都に毒されていくようで、嫌なんだ」

 子供じみた言い訳を、犀星はつぶやいた。

「何でもかんでも、都の流儀を押し付けられて……俺は、歌仙が好きだ。質素で穏やかで、勿論、都のように多くの選択肢がある訳じゃないが、それでも、一つ一つを大切にしていた。ここの連中は、自分達がなんでも一番だと思っているようだが、そんなのはただの驕りだ」

 東雨が呆れた顔で、

「はぁ。十年以上ここにいて、一向に都に染まらないなんて……若様も相当ですよ」

「兄様らしいです」

 玲陽はあっさりと認めた。

「こう、と決めたら、絶対に譲らない頑固なところは、子供の頃からですから」

「陽様、よく、こんな若様と一緒にいて、疲れませんね」

 思わず、犀星が咳き込む。

「東雨、お前、そんなこと思ってたのか」

「だって、最初の頃は何を考えているかさっぱりわからなかったし、その後はやたらと無茶ばかりするし」

…………」

「勿論、理に合わないことをする方ではない、と知っていますから、そこは我慢してますけど」

「が、我慢、って……」

「ふふふ。兄様、そろそろ、東雨どののご苦労に応えてあげなくては」

「別に、好きにさせてるつもりだ」

 犀星が、これ以上どうしろというんだ、と困り顔を見せる。

「若様には、他の従者に比べたら、自由にやらせてもらってますけど、その分、仕事となると手荒いんだから」

「それだけ、東雨どのを、信じているということですよ」

 玲陽が優しくまとめる。

「そうだ、東雨どの、粟餅を食べたことはありますか?」

「いえ…… 都では見たこともありません」

「では、試しに食べてみませんか?」

「え?」

「兄様が、米の餅より好きだ、というものがどんな味か、興味はありませんか?」

「確かに……気になります」

 こういう駆け引きは、犀星にはできないものだ。

「兄様も、久しぶりに召し上がりたいでしょう?」

「……ああ」

 これまた、素直に犀星も玲陽に乗せられる。

 玲陽には悪意も他意も、ましてや、二人を操ろうとする気持ちもないのだが、自然と彼の意見が通ってしまう。しかも、玲陽自身がこうしたい、というのではない。周りを見て、彼らが望む共通のものを探しているのである。

 これもまた、玲陽の悲しい習性ではあるが、今は優しい性格の源となって、彼の美点である。玲陽自身、自分が何かを押し通すことより、近しい人々の笑顔が何よりも嬉しい、という心根である。誰もが、彼に惹かれるのは、止むを得ないことであった。

 翌日、犀星が五亨庵で執務に当たっている時間に、玲陽と東雨は近隣の村まで、粟を買いに出かけた。

 あたりには、雪解けのぬかるみがまだ残っていたが、その水を含んだ土からは、明らかに春の匂いがした。

 ふきのとうを見つけ、玲陽が東雨に料理法を教える。

 勿論、自分はまだ食べられないが、それでも、犀星の好物であるふきのとうの味噌漬けの作り方を伝えた。そのほかにも、ギョウジャニンニクやタラの芽など、山菜に詳しい玲陽は、次々と東雨に調理を教え、この春は山菜に麦飯の食事が楽しめそうだった。最も、玲陽自身は粥であるが。

 東雨は、見たことはあっても、まさか食用になるなどと思ってもいなかった植物の数々に驚きながら、同時に、それを膳に出された犀星の驚く顔を想像して、にんまりと笑うのだった。

 そして時折、玲陽が本当に気持ち良さげに春風に髪を解く姿に見惚れては、全てが悪い夢だったような気がしてくる。

 あのようなことがあったというのに、玲陽は自分を信頼し、こうして二人で遠出することを承知してくれる。さらに特筆すべきは、犀星がそれに対して何も言わないことである。

「東雨どの?」

 ぼんやりしていた東雨を、玲陽は振り返った。

「疲れましたか?」

「い、いえ! 陽様よりは体力、ありますから!」

「そうですね」

 回復してきたとはいえ、まだ、本調子には遠い玲陽は、素直に認めた。

「あの、陽様?」

「はい?」

「その……嫌じゃないんですか、俺なんかと二人で……」

 やはり気になって、東雨が尋ねる。

 玲陽はじっと東雨の顔を見つめた。笑みはないが、警戒している様子もない。

「お、俺はあなたに酷いことをしたんですよ。あなたにも、若様にも……涼景……様にも、たくさんの人たちに、大変な迷惑をかけて……」

「兄上は、一度でも、あなたを責めましたか?」

「え?」

 逆に問い返されて、東雨は黙った。

「兄上も、涼景様も、一度でも、あなたを見捨てようとしましたか?」

…………いえ」

「私も同じです」

 玲陽はそう言って、きらきらと美しく輝く瞳に東雨を映した。

「あなたが思っているほど、私たちは薄情ではないつもりです」

「あ……」

 ぽろり、と東雨の目から涙がこぼれた。

「東雨どの。人に見られたら恥ずかしいでしょう」

 言いながら、玲陽はそっと東雨の泣き顔を抱き寄せ、自らの長衣でその体を包み隠した。

「陽様……俺……」

「怖がらなくていいんです」

 玲陽には珍しく、自分から強く東雨を抱き締めると、そっと耳元で囁いた。

「もう、あなたは一人ではないのだから」

 慰めようとした玲陽だったが、逆に東雨の号泣を誘ってしまう。

 やれやれ、とその背を優しく叩いてあやしながら、玲陽はふと、子供の時の記憶を蘇らせた。

 犀星もよく、こうして自分の胸で泣いていた。

 私は泣き虫を引き寄せてしまうのだろうか。

 そんな妙なことを思いながら、どうにか東雨をなだめつつ、用事を済ませるには、予定より時間がかかってしまった。邸宅へと戻った頃にはすでに夕闇が近づいている。

 先に帰っていた犀星が、珍しく厨房仕事をしていた。

 何やら、懐かしい匂いがする。

 東雨が山菜や粟の袋を食材庫に収めている間、玲陽はそっと、犀星の手元を覗き込んだ。犀星が丁寧に下ごしらえしているものを見て、ぱっと表情が明るくなる。

「七草粥!」

 玲陽の歓喜の声に、犀星は満面に笑みを浮かべた。

「涼景の許可は取ってきた。今夜は、みんなで食べよう」

「はい!」

 玲陽も、東雨の方を振り返って、

「私たちも、山菜を摘んできたんです。今夜アク抜きして、明日はご馳走ですよ」

「でも、お前は……」

「いいんです!」

「陽……」

 よほど嬉しかったのか、玲陽は犀星の後ろから、その体を抱きしめた。

 視界の隅で見ていた東雨が、少し、寂しそうな表情になるが、それも一瞬のこと。この二人が平穏でいられることがどれほど得がたく、価値があるか。東雨は誰よりも知っている。

「では、弁当にして、花見にしましょう!」

 東雨は二人に提案した。

「明日はよく晴れそうですし、若様も出仕はないでしょう?」

「午前中、少し片付けないといけない仕事があるが、昼からは時間が空く」

「では、陽様と俺でお昼を作って、五亨庵にお持ちします!」

「霞池じゃなくていいのか?」

 意外そうに、犀星が訊く。

「いいんです。だって、五亨庵の庭も素晴らしいし、何より、お二人が一番好きな場所じゃないですか」

 犀星と玲陽は顔を見合わせた。

「東雨……」

 犀星は手を止めると、嬉しそうに従者を見た。

「感謝する」

「……え」

 自分は何か礼を言われるようなことをしただろうか。

 首を傾げる東雨を見て、歌仙の二人は、また、笑い合った。

 自室で、詩書を楽しんでいた犀星は、ふと、窓から差し込む月光が揺れて、小さな囁き声を聞いた。

『いるよ』

 その声は傀儡ではなく、時折現れる、正体のない声だ。

 自分に対して敵意はないようで、いつも優しい響きで犀星を誘った。

 顔を上げると、窓の向こうに中央の庭が見える。

 満月の光が美しく照らし出し、小さな川の流れや、昼間とは違った色合いを見せる池の淵の花々、その奥に、若い山桜も枝を静かに揺らしている。犀星が山桜が好きなことを知って、この邸宅に越してきたとき、​歌仙から苗木を取り寄せ、涼景が植えてくれたものだった。

 池を挟んで、その山桜を眺めることができるように置かれた石造りの簡素な長椅子に、一人、こちらに背を向けて、玲陽が座っている。

 犀星はしばらく頬杖をついて、その後ろ姿を見つめていた。

 金色の髪が、月光を受けて光を放つように煌めく。

 自分よりも一回り細い身体、わずかに低い背丈、けれど、そのしなやかな動きは、体が回復するとともに、確実に戻ってきている。

 今に、自分を超える剣士になるだろう。

 体を鍛え、修行を積むべき時期を、玲陽は奪われはしたが、自分より、玲陽の方が優れていることを、犀星は誰よりも知っている。

 幼い日、共に刀を交えて鍛錬に励み、父の厳しい指導にも二人で耐えてきた。

 全ては、国を守り、故郷を守る、そんな未来のためであった。

 十年前に別れてしまった道が、再び重なり、こうして、同じ空間、同じ未来を描けることに、犀星はつい、涙腺が緩む。

 必ず、守る。

 そう、誓う想いに偽りはない。

 だが、それは同時に、共に生きることを、意味するようになっていた。

 どちらかがどちらかを一方的に守れるほど、自分達は強くはない。

 お互いに弱さを補ってこそ、守りあえる関係と、共に生きる時間が得られるのだと、ゆっくり、犀星は自分の想いの変化に気づいている。これからも、より望む形へと変わってゆくだろう。

 季節が移ろうように、玲陽との関係も同じ一瞬は二度と来ない。

 そう、思ったとき、犀星はすでに体が動いていた。部屋を出ると、庭園へと降りて行く。

「春の月って、どうしてこんなに白いのでしょう?」

 振り返りもせず、犀星が来たことを察した玲陽が、囁いた。

「まるで、溶けて消えてしまう、雪のよう……」

「お前は消えたりしないで……」

 犀星は隣りに座ると、後ろから、右腕を玲陽の肩にかけ、同時に左腕を彼の胴に回して、玲陽の胸の前で指を組んだ。背後から、袈裟懸けにぴたりと玲陽を抱きしめる。

 玲陽も慣れていて、そっと肩の腕に首をもたせかける。

 そらされた左の首筋に、犀星は顔を埋める。

 玲陽の肌は薄く、それこそ春の月のごとく、繊細に思われる。

 顔を見れば、思わず唇を重ねたくなる衝動に駆られる。

 いつしか、二人はこうして、抱き合うようになっていた。

 玲陽はそっと、自分の胸にあてがわれた、犀星の手を、両手で包んだ。まるで、宝物を胸に抱き締めるかのように。

「陽」

 犀星がふと、口ずさむ。

花開く

季節の果てに

我はおり

遠く見ゆるが

ごとき桜や

(​伯華)

 玲陽の手に力がこもる。

 互いにはなれていたとき、たとえどれほど美しい桜を見ても、犀星の心に響くことはなかった。自分だけが季節に取り残され、時間が止まってしまったかのように。

「星」

​ 玲陽は答えて詠んだ。

「花開く 季節の中に 君はおり 我が妻の眼に、我が身あるとぞ」

 犀星がより強く、玲陽を抱き締める。

 春の夜は、美しく、更けてゆく。

 白い月の光。

 玲陽の髪に春風が絡みつき、その甘い香りを犀星は胸に深く吸い込んだ。

 と、その吸気の最後に一瞬、つん、と鼻を刺激する匂いが混じる。

 玲陽も、異変に気づいたらしく、心地よさげに閉じていた目をうすく開いた。

 二人の間に、無言の、しかし、確かな緊張感が走る。

 血の匂い。

 いや、臓物の匂いか。

 こんな時間帯に、どこから漂ってきたのか。

 悲鳴も聞こえなかった。

 それらしい物音もしなかった。

 その匂いだけが、突然、流れてきたのだ。

「陽」

 犀星は、他者が聞けば甘えたような声で呼んだ。

「はい」

 玲陽の返事も、柔らかい響きを持っている。

 だが、二人の短いやり取りの間には、二人にしかわからない、暗黙の了解があった。

 犀星はスッと視線を流して、背後を探る。

 玲陽は犀星とは反対側の庭の暗がりに目を凝らした。

 気配はない。風が流れ、再び、今度は十分な割合を持って、その匂いが吹き付けてくる。

「風上、丑寅」

 犀星が呟いた。いいながら、玲陽の首筋に舌先を這わせる。

「ん……」

 疼くように鼻を鳴らして、玲陽が答える。

「兄様……灯りを消して……虫が飛び込んでしまいます」

「優しいな、お前は……」

 当然、月明かりしかない庭である。消さねばならない灯りなどない。

 二人の会話は隠語だ。正体のわからない相手に対する、警告だ。

 犀星が着物の上から玲陽の体を弄り、そっと手を下ろしていく。帯に結えてある玲陽の刀の鍔を音を立てずに押し上げると、いつでも抜けるように緩めた。犀星の手を追って、玲陽が刀の柄に触れた瞬間、黒い影が二人の視界の隅を横切る。

 がさり、と庭に放置していた去年の枯葉が、音を立てた。

 長刀が振り下ろされたとき、二人はすでに、長椅子にはいなかった。

 一太刀の元に入らぬよう、互いに距離を取って飛び退き、東西から影を見据えて構えている。
「何者だ!」

 犀星が声を張る。

「犀歌仙と知っての狼藉か!」

「知れたこと!」

 布で顔の下半分を隠した男が、犀星に飛びかかる。

 十分に離れていたはずだったが、玲陽の動きは素早く、一息に間合いを詰める。そのまま、男の背後から、刀を閃かせた。

 春の月が、一瞬、赤く染まり、血飛沫が上がる。

 じっと立ったままの犀星の目の前で、男が刀を取り落として、膝をついた。

「兄様、不用心にも程があります。得物も持たず、夜の庭に出てきたんですか?」

 玲陽は慣れた動きで刀の血を払った。

「お前が持っていたから、大丈夫だと思った」

 犀星が、ニヤリと玲陽に笑いかける。

 犀星は男の刀を蹴って退けると、その襟足を掴んで引き立たせ、顔を覆っていた布を剥ぎ取り、口の中に詰め込む。この類(たぐい)は、任務に失敗すると、自決するように仕込まれている。舌を噛みきれないよう、先手を打つ。

 その間に、玲陽が男の腕を後ろに捻り、自分の帯で縛った。

「足首の筋を切られたくなければ、大人しくしていろ」

 犀星は男の髪紐を解いて、布を吐き出させぬよう、轡をする。

「全く、どこの手合いですか?」

「俺の知り合いじゃないぞ」

 犀星はじっと、男の顔を見て、言った。

「だが、相当だな。衣服というより、体から血の匂いがする」

「ここまでの暗殺者となると、蛾連衆でしょうかね」

「おそらくな……」

 と、裏門の方から、こちらへ誰かが駆け込んでくる。

 犀星は長いため息をつくと、首を振った。

「随分と客の多い夜だな」

「親王!」

「こっちだ」

 聞き覚えのある声に、犀星が自ら呼び寄せる。姿を見せたのは、蓮章だ。

「殺してないだろうな!」

「それは、どっちに言っている?」

 犀星は、蓮章の前に男を放り出した。

「……どっちも、だ」

 蓮章は濃茶の装束で、音が立たない軽装の皮の鎧を身につけていた。明らかに、夜に動く出立ちだ。

「涼景は?」

「いや、俺一人だ」

 蓮章は驚いたように自分を見上げている男を見て、苦笑を漏らす。

「陽が優しくてよかったな。俺だったら、あと一寸、深く斬っている」

「蓮章、どういうことだ?」

「こいつの身柄、預からせてもらう。何も言わずに引き渡せ」

「そうはいきません」

 玲陽が、刀を手にしたまま、蓮章を睨みつけた。

 その眼差しには、明らかな殺気がある。さしもの蓮章も、怒りを抱えた玲陽には弱い。

「蓮章様。兄様に手出しする者を、私が許すとお思いか?」

「陽……」

 蓮章は助けを求めるように犀星を見た。

 だが、犀星も真顔のまま、見返すだけだ。その感情の読み取れない静かな目は、玲陽と再会する前の歌仙新王を思い出させる。

「仕方ないな」

「……!」

 蓮章は男を見下ろした。

 嫌だ、というように、男が首を振る。

「お前も蛾連の端くれなら、潔く死ね」

 刀を抜こうとした蓮章の手を、犀星が抑えた。

「この者は生かす」

「親王? だが……」

「私が見逃さないと言ったのは、あなたも同じですよ、蓮章様」

 玲陽は、感情の無い声で言いながら、蓮章を見据えたままだ。

「ここで口封じなんて、させません。そうでなければ、最初から私が殺しています」

「……だ、そうだ」

 犀星が蓮章の手を放す。

 ただ、握られていただけだというのに、蓮章の手首には犀星の手の跡がくっきりと残っている。

「……ち……」

 舌打ちすると、蓮章は身体の緊張を緩めた。

「わかった! わかったから、二人とも、そう、角を立てるな」

「…………」

 犀星と玲陽の無言の圧力は、蓮章を引かせるに十分だった。片や病み上がり、片や武器も持たない相手とはいえ、二人の意思に逆らってまで、場を収めることは、蓮章には荷が重い。

「知っていることを、全て、話していただきましょうか?」

 玲陽の視線は、並の刺客のものよりも凄みがある。

 蓮章は苦笑したまま、

「それ、こいつと俺、どっちに言っている?」

「どちらにも、です」

 一部の隙もない玲陽に、お手上げだ、というように蓮章は肩をすくめた。

 

 血だらけの男を預けられて、東雨は面食らった。

 本来なら、自分が犀星の護衛だというのに、すっかり隙を突かれてしまった。情けないやら、腹立たしいやら、で、目を白黒させている東雨に、玲陽は微笑した。

「夜更けに、申し訳ありません。手当するので、手伝っていただけますか?」

「お、俺がやります!」

 これ以上、役立たずになってたまるものか、と、東雨が変な張り切り方をする。

 玲陽と東雨が男の傷の手当をしている様子を横目に見ながら、蓮章は机を挟んで犀星と向き合っていた。

「陽、斬ったり、治療したり、忙しいな」

「こんなことになるなら、峰打ちにしておくんでしたよ」

 蓮章にはにこりともせず、玲陽は東雨と共に、男の傷を丁寧に診る。

「どういう事情なんだ?」

 犀星も、明らかに不機嫌だ。だが、元々、歌仙親王はこんな雰囲気だった。蓮章は再度、玲陽の存在の大きさを思い知った。

「俺たちが納得できるように、説明してもらおうか?」

「そうだな…… 納得してもらえるかはわからないが、俺が知っている限りのことを話す」

 蓮章は観念した。

「こいつは、易永(えきえい)。蛾連衆の下っ端だ」

「そんな下っ端が、俺の命を狙ったと? 随分、軽く見られたものだな」

「無理だ、って俺も言ったんだよ」

 蓮章は不満げに言い返した。

「こいつ、蛾連でも汚れ仕事ばかり押し付けられていて、先日、縄にかけたとき、足抜けしたいって言ってきたんだ」

「そいつが、どうして、俺を狙った?」

 蓮章は、易永を振り返った。

 易永は大人しく玲陽の治療を受けていたが、その視線に、怯えたように首を振った。

「大方、上の連中に、お前を処分したら、抜けさせてやる、とでも吹き込まれたんだろう」

「要するに、捨てられたという訳ですね」

 玲陽が、撫然として、

「自分達の厄介ごとを、兄様に始末させようとしたということですね」

「……まぁ、そうなるな」

 易永は轡のために話しはできないが、苦しそうに頷いた。

「そいつを庇う訳じゃないが、失敗がわかれば、どうせ、蛾連衆に消される運命だ。さっさと殺してやった方が楽になる」

「蓮章、お前はなぜ、そいつの足抜けを擁護する? 一度は縄にかけたんだろ?」

「蛾連衆はお前たちが思っている以上に、宮中とのつながりが深い。俺たちだって、何人も捕らえたが、いつの間にか牢から姿が消えている。他の者に殺されたのか、逃されたのか、わからない。こいつらは、捕まえても意味がない。その場で消さないと、いくらでも湧いてくる」

「答えになっていそうで、なっていないな」

 犀星は冷静に言った。

 ああ、と、蓮章は諦めの声をあげる。

「わかった! 俺が甘いって言いたいんだろ? そう責めるな」

「もし、兄様に傷でもつけたら、私が殺します。たとえ、誰だろうと」

 玲陽が、チラリと、蓮章を見る。

​ 強烈な視線を感じ、蓮章は玲陽から顔を背けた。それはある意味、生き物として、正常な反応だったのかもしれない。

「よ、陽……様……」

 そばにいる無関係の東雨でさえ、玲陽の気迫に完全に圧倒されているのがわかる。

 涼景や蓮章とは違う意味で、玲陽もまた、修羅場をくぐってきている。秘めた凄みは、常人とは違う。

「勘弁してくれ…」

「しません。あなたが安っぽい期待を与えて逃したりするから、この人は兄様を狙う羽目になりました。私も、見たくもない血を見なければなりません。この人も、必要ない怪我を負うことに…… 全部、あなたの判断の失態からです」

「わかったから、もう、責めないでくれ」

 蓮章は深いため息をついた。

 逆鱗に触れた、とは、まさにこのこと……

 恐れるべきは、宝順よりも、玲陽の方だ。

 そんな主人たちを見ながら、東雨は内心、複雑だった。

 自分が玲陽を殺そうとした時、そんな時でさえ、玲陽は自分を庇ってくれた。その玲陽が、今、本気で怒っている。物腰こそ柔らかく、いつも通りに見えるものの、心情は計り知れない。

 自分とて、犀星の身に何かあれば、怒りに狂うだろうが、玲陽は我を見失っている訳ではない。ただ、本当に怒らせてはならない人、というのは、いるのだ。しかも、すぐそばに。

 東雨は、今まで自分がどれほど危険な橋を渡っていたのか、思い出してゾッとした。

「それで、これから、どうするつもりだ?」

「どうするって……」

 蓮章は、犀星の感情の見えない顔の方が、玲陽の視線よりは遥かにマシだと思いながら、

「このまま放り出すわけにはいかないだろう。こいつに矜持があれば自害するだろうし、なければ蛾連衆に消されるのを待つだけのこと。どちらにせよ、死ぬだけだ」

「私が殺さないと選択したのです。生かして下さい」

「またそういう無茶を……」

「陽の言う通りだ。一度は助けたんだろ? だったら、最後まで責任を持て」

 無理と無茶は、この二人の十八番だ。

 どうして、自分はこんなところで、二人から寄ってたかって責められているんだ?

 蓮章は頭を抱えた。

「だから、止めたのに……」

 蓮章は恨めしげに易永を見ようとしたが、玲陽がこちらを向いているのを感じて、首を回せなかった。

「こいつ、ご丁寧にさっき、俺の所にきて、今夜お前を襲うって…… だから、次に暁隊が都の夜番になるまで待てって言ったんだ。夜のうちに門を通して逃してやるからって…… お前たちを狙っても、敵う相手じゃないのはわかっていたからな」

「あの……」

 東雨が、遠慮がちに口を挟んだ。

「そ、その……無事に都を出たとして、その後、逃げ切れるものなんでしょうか? 俺、帝の近くにいたから、何度もそういうの、見てきましたけど、成功した話は聞いたことがない。いつも連れ戻されて、帝の前で拷問に合って……」

「ああ……」

 蓮章は口元を手で覆った。

「俺も見ている。なぶり殺すのが、あいつの趣味だしな。だが、逃げきれないなら、そこまでだ。第一、成功例なんて報告されるわけがない」

「お前、初めてじゃないのか?」

 犀星が顔色一つ変えずに言った。

「今までも、足抜けの手助けをしてきたんだろ?」

「まぁな……」

 蓮章は、さすがに参っている様子だった。

「立場上、色々と、な。全員が失敗した訳でもない。だが、東雨が言うように、十中八九、連れ戻される」

「残酷ですね」

 玲陽は、手当を終えて、血で染まった手を桶の水で洗いながら、

「逃してやる……そんな曖昧な約束、残酷です。希望など、いっそ、無い方が楽……」

 フッと、玲陽の気持ちが沈み込んだのを感じて、犀星が唐突に立ち上がった。

「蓮章、とりあえず、こいつは預かる。次の暁隊の都番はいつだ?」

「二日後だが……」

「では、その夜、迎えにきてくれ。それまで、俺たちは宮中には出向かない。いいな?」

「わかった。五亨庵には当たり障りなく伝えておく」

 蓮章はそのまま部屋を出ようとし、未練を感じて、恐る恐る、玲陽を振り返った。

 自分の腕を抱いて俯いている玲陽からは、もう、殺気は感じられない。だが、代わりに痛いほどの悲しみが溢れている。

「悪かった。そいつを頼む」

 蓮章は見送りもないまま、屋敷の門を出た。

 見上げれば、先ほどよりわずかに西に傾いた月。

 思わず、全身からどっと汗が噴き出す。

 今になって、身体が震えてくる。

 確かに、玲陽の言う通りだ。だが、それしか自分にはできない。現実の激しい矛盾と向き合うしかない。

 本当に、勘弁してくれ……

 吐き気と眩暈を感じて、蓮章は門の柱に沿って、ずるずるとしゃがみ込んだ。

 同時に、意味もわからぬ涙が溢れてくる。心臓が破れるように脈を打つのに、身体中が冷たい。

 痺れた肩に、暖かなものが触れた。

 背後に立たれた?

 隙だらけってことか……

 蓮章は振り返りもせずに、自嘲した。

 これで、暁将軍の片腕とは、あまりに不甲斐ない。

「蓮章様」

 その声に、蓮章の身体がさらに強張る。

「……陽?」

 掠れた声で、蓮章は呼びかけた。

「……はい」

「…………」

「すみません。先ほどは、言い過ぎました……」

 玲陽の声は、深い悲しみに満ちていたが、怒りは過ぎ去っている。

「私は……未熟です。自分の辛さを、あなたにぶつけてしまいました」

「……どういう……」

「私も、同じ夢を見せられていたから……」

 玲陽は、蓮章の背中をさすった。

 凍りついていたその身体から、少しずつ余計な力が抜けていく。

「でもね、蓮章様。私に希望をくれた人は、私を助けてくれたんです。本当に、助けに来てくれた……」

「…………」

「だから、お願いです。易永様を、どうか、救って下さい。苦しい心のまま、裏切りしか知らないまま、死なせないで……そんな魂はもう、増やしたくない」

「……陽……約束はできない。俺には、親王のような覚悟はない」

「それでも、精一杯のことはして下さい。それが、一度でも助けようとした相手に対する誠意です」

「……わかった」

 よろめきながら立ちあがった蓮章を、そっと玲陽は支えた。

 互いに、顔を見ることは無意識に避ける。

「世話をかける」

「いえ……」

 一歩踏み出した蓮章に、陽は声をかけた。

「ありがとうございました」

「え?」

 咄嗟に、蓮章は振り返った。玲陽の、気まずそうな顔が、月明かりに美しかった。

「大切なことを、気持ちを、思い出させてくれました。ですから……ありがとうございました」

 視線が合う。玲陽から、敵意は感じられなかった。先ほどまでとは、別人のように穏やかだ。

「俺は……」

 何かしたか、と問いかけそうになり、蓮章はそれは愚問だと、自分を制した。玲陽の心の深淵は、自分などには想像もつかないほど、深く澄んでいる。そうだ。そこに踏み入ることが許されるのは、犀星だけだ。

 蓮章は、自分の中で芽吹きそうになっていた、自分でも気づかなかった想いに、今更ながら呆然とした。

 俺は、陽に……

 そこから先を、ぐっと飲み込む。

 これ以上、恥を晒してどうする?

「二日後、迎えにくる」

「はい」

 蓮章は、自分でも怯えるほどの突拍子もない想いに戸惑い、それを封印するかのように、玲陽に背中を向けた。

 見えなくなるまで、その背中を見送って、玲陽は苦しそうに胸を抑えた。


人の世の

満ち足りしとき

短かきも

花の命と

比べるやなし

(光理)

 

 今、この瞬間は、決して容易く手に入れたものではない。

 一瞬でも、あなたのそばで……

 玲陽は何かに急かされたように、屋敷へと駆け戻った。

 どういうことなのか。

 易永の身を引き受けた犀星と玲陽は、東雨の力を借りながら、彼の介抱に全力を注いだ。

 体の傷だけではない。不安定になった精神状態を少しでも癒そうと、彼らは残された時間を精一杯の思いを込めて共に過ごすことを選んだ。

 蓮章が迎えに来るまでの二日間。それはもしかすると、易永にとって人生の最後の時間になるかもしれない。

 たとえどれほど蓮章が力を尽くしたところで、彼が言うように、足抜けは決して簡単なことではない。犀星たちには、経験のないことではあるが、客観的に見て、それがどれほど困難であるか、絶望的であるか、その証拠ばかりが目についてしまう。

「易永様、傷の具合はいかがですか?」

 玲陽は、易永にあてがった部屋にそっと足を踏み入れた。

 その手には暖かな薬湯を入れた椀と、粥を乗せた盆が大切そうに抱えられている。

「私たちの故郷に伝わる、この季節の山菜を使った粥なんです。お口に合うか分かりませんが……」

 玲陽は笑みを浮かべ、そっと怪我人の枕元の台に盆を乗せた。寝台から起き上がることができないまま、彼はうずく痛みに目元を曇らせながら、それでもじっと玲陽の顔を見つめ続けた。

 玲陽のほうは、反対に彼の顔をまともに見られない。

 自分が傷つけたのだ。

 だからこそ、玲陽は自分から彼の看護を買って出た。

 憎しみではない。玲陽が彼を斬ったのは、大切な人を守るためだ。その行動自体に後悔は無い。

 だが、易永の置かれた状況を知れば、そこにはおのずと、心を寄せる余地がある。

「易永様、申し訳ありませんでした」

 玲陽は、昨夜、蓮章が去ってから何度目かの詫びを入れた。易永は、決して玲陽を責める事はしなかった。自分がしたことが何であるか、そして玲陽の思いがいかばかりか、彼はちゃんと理解していた。

「あなたは悪くない」

 易永はか細い声で言った。

「元はと言えば、私が身にすぎた希望を抱いたことが災いだったんです」

 玲陽はそっと彼の枕元に椅子を寄せ、座った。

 背中の傷を庇って横向きに寝ている易永の口元に、粥を乗せた匙を近づける。

 恐る恐る、易永は口を開いた。

 一口ずつ、ゆっくりと食べさせ、薬湯も飲ませる。

 薬の苦味を消すように、最後に小さな砂糖菓子を与える。

 その様子は、幼い子供の世話をする親のようである。

「これ、美味しいです」

 易永は涙ぐみながら、礼を言った。

「お国は南陵郡でしたね」

「はい。私も兄様と同じ、歌仙です」

 玲陽は、透き通るように微笑んだ。

「あ……私、自己紹介をしていませんでした……犀陽、字を光理と申します」

 易永は、静かに、

「存じています。歌仙親王の臣子で、お従兄弟君ですね」

「あ……そうですね。易永様なら、ご存知ですよね……」

 はにかんだ玲陽は、自分を斬った人間とはまるで別人だ。

 易永は完全に、玲陽の人を惹きつける魅力に負けていた。当の玲陽には自覚はないが、こればかりは隠しようのない生まれ持った資質だ。

「易永様。もしよかったら話を聞かせてもらえませんか?」

 玲陽は決して、興味本位でそのようなことを言ったのではない。もし自分にできることがあるのならば、少しでも力になりたい。そんな純粋な思いからだ。

 と、部屋の扉が軽く叩かれ、その隙間から犀星が顔を覗かせた。

「様子はどうだ?」

 どうやらこちらも、易永を放っておけない、おせっかい気質らしい。犀星を素直に迎え入れて、玲陽はもう一つ椅子を用意した。

 この部屋は、普段は涼景や蓮章が泊まるために使っている。こうして友人以外の者がこの屋敷に入ることすら珍しい。

 ここで犀星と東雨が暮らし始めて十年余り。誰もこの屋敷には近づけなかった。それは警備する兵士たちの働きでもあったし、同時に、犀星が敵を作らなかった結果でもある。

 蛾連衆に狙われるような危険は常に伴っていたが、蛾連を動かしているのは宮中の高位の者たちである。

 彼らにとって犀星は田舎育ちの取るに足らない親王だ。立場こそ上であっても、財力も影響力も自分たちの方が勝っていると言う自負がある。そんな中で、自身の危険を脅かしてまで、あえて皇帝の血族である犀星に危害を加えようという者はいなかった。

 だが、一方では、犀星の都の人々に対する影響力は、月日を追うごとに大きくなっている。宮廷人たちは興味を示さなかったが、都人にとっては死活問題である課題を、犀星はいくつも解決に導いてきた。

 都中の治水工事がその代表的なものであるが、今年はそれに加え、都の外の田畑の灌水にも着手している。そのような業務に敏感な民たちは、犀星の働きに大きな期待を寄せていた。だからこそ、何らかの災いがもたらされようとした時、都の人々が率先して犀星の身を守っていたのかもしれない。

 裏で何が行われていたか、その全てを知ることはできないが、犀星の背後には、間違いなく都の人々の信頼があった。それは宮中の誰もが持っていないものだ。

 易永はそのことも、十分に知っていた。

 彼はじっと親王の顔を見つめた。無礼とされる行為だが、一度はその命を奪おうとした身である。今更そのようなことを恐れても仕方がない。

 それに昨夜からの様子を見る限り、犀星は他の宮廷人とは違うように思われた。

 身分も立場も国の上層であり、武術も自分が叶うべくもなく、高いものを持っている。だが、決しておごることなく、また玲陽や従者の東雨に対しても、家族のように親しく接しているのを、易永はしっかりと見ていた。

 決して彼は愚かではない。蛾連衆の一員でありながら、いや、蛾連衆に関わる者として、人並み以上の力量を買われているからこそ、今の自分がいるのだ。自分が暗殺しようとした歌仙親王のことも、易永はよく知っていた。

 犀星は玲陽のそばに椅子を寄せ、彼の膝の上でその手を握った。それは犀星にとっては当たり前のことであったが、易永にとっては少々驚きだった。この二人がどんな関係であるのか、単なる従兄弟、主従の関係を超えて結ばれているのだということを、さらりと示されてしまった。

「そういうことでしたか」

 易永はため息交じりに言った。そして、自嘲したような笑みを浮かべた。

「あなたたちに敵うはずがない。蓮章様がおっしゃった事は正しかった。あなたたちの剣術の腕だけではない。硬い結ばれている……その絆を刀で裂く事は不可能。国一番の剣豪であろうとも」

 彼の寂しげな声を、犀星は目を細めて聞いていた。

 玲陽が先ほど口にしかけたことを繋げた。

「あなたはどうして蛾連衆に関わり、そして足抜けを望んだのですか?」

 易永はしばらく物思いにふけりながらどこまで話して良いものか、迷っている様子だった。

 やがて、彼は、ゆっくりと話し始めた。

「蛾連衆は、決して、荒くれ者の集まりではありません。私たちは多くがもともと貴族の出身です。ただ、表舞台にはいられない、そんなわけがあって、闇に潜み、闇の権力に従っているだけです」

「もともと貴族の家柄?」

 犀星が繰り返す。

「それはどういう経緯だ?」

 易永は遠くを見るような目で、

「私たちの先祖は、かつてこの都が建立された時、帝のそばに仕える貴族でした。しかし、度重なる跡継ぎ争いの中で敗れ、ときには一族が皆殺しに合う憂き目も見てきました。そんな中で、私たちは少しずつ生き残り、ほんのわずかな希望に託して、表舞台から姿を消し、裏で暗躍することで、自分たちの身を立ててきたのです。そして、いつしか、貴族たちの汚れ役を買うことで、その存在を確固としたものとし、都における闇の影響力を手に入れました。私たちの存在は抑止力となり、いらぬ争いを避けるための道具となりました。しかし、道具は所詮道具です。使う者によっては……」

「宝順、か……」

 犀星はつぶやいた。

「話は色々と聞いている。お前が言うように使われる立場である以上、主人の命令は絶対なのだろう。そしてそれは時に、自分の正義ではないこともある。お前の心、察するにあまりある。矛盾の中で生きること。それは俺たちも味わってきた。だが、俺たちはそれをはねのけるだけの選択肢を与えられている。不自由な中でも自分を貫くだけの力と機会を。だが、お前にはそれすらなかったのだな」

 玲陽は、静かな犀星の声を聞きながら、強く、その手を握った。

「生まれた場所で咲きなさい」

 玲陽が続ける。

「私の母は自分の境遇を嘆いた私に、よくそう言いました。私もその言葉を信じ、必死に生きようとしました。けれど、それは一つの諦めなのだと、最近思うようになったのです。確かに草木は生まれた場所で一生終えるしかないかもしれない。けれど、私たちは草花ではありません。あなたが、蛾連衆の宿命の中に生まれたとしても、その場にとどまることが、あなたの意思でないのなら、自由のために、あなたがとった行動は、誰にも責められるものではありません」

 犀星と、玲陽と。

 彼らの語る言葉に、易永はじっと静かに聞き入っていた。

 自分にこれほどの理解を示し、共感と言う名のぬくもりをくれること、自分が殺そうとした相手が、このように深い思いで自分の心を解きほぐしてくれるということに、易永は信じがたい思いと、同時に味わったことのない不可思議な安堵感を感じた

 この二人ともっと早く出会っていたのなら、自分はまた違う道を探すことができたかもしれない。

「易永、お前はこれからどうしたい? 都を出て、蛾連と縁を切って、どこか行くあてがあるのか?」

 易永は目元を歪めた。傷の痛みのせいではない。ただ、かれが望む未来の困難さゆえ。

「長く生きられるとは思いません」

 易永は声を震わせた。

「ただ、一目、見たい場所があります。私の母が生まれ育った場所です。都から東へ五十里......」

「易永様」

 玲陽が、静かに、しかし、強い気配で遮った。

「私に、嘘は通じません」

 あからさまに動揺して、易永は玲陽を見つめた。金色の瞳は、決して自分を責めてはいなかったが、偽りで乗り切れる局面ではないことを、彼に覚悟させた。

 

 その頃、玲陽から厳しい課題を突きつけられた蓮章は、自分の屋敷の庭先で、憂鬱な心を抱えたまま、ぼんやりとしていた。

 玲陽の言う通りである。助けるのならば最後まで責任を持つべきこと。犀星が玲陽を助けたように。しかし、彼らの関係は自分たちには当てはまらない。とは言え、人の命がかかっていることに変わりは無い。

 鑑札を渡し、都を出してやることはできる。

 しかし、その後の事までは、現実的に、彼にはどうしようもないことなのだ。

 うまく逃げ伸びる者はいる。だが、それはごくわずかだ。易永が必ず助かると言う保証はどこにもなく、そのために自分がしてやれる事は、あまりにもわずかである。

 どうしたら、彼を自由にできるのか。

 蓮章は蓮章なりに、それを考えていたつもりだった。だが、それが中途半端な思いであること、行いであることを指摘され、彼自身、もう一度考え直さざるを得なかった。

 普段は浮ついた彼であるが、実のところ、誰よりも思慮深い一面を持っている。だからこそ、涼景の信頼を得ているのだ。涼景だけではない。他の部下たちも一目を置く。さらに、蛾連の易永でさえ、彼に救いを求めた。

 蓮章とて、易永の命を軽んじるつもりはない。できることならば、彼が望むようにしてやりたいと思う。

 しかし、人は人の人生を変えることはできない。変えることができるのは、自分の人生だけである。

 蓮章が珍しく、おとなしく屋敷に引きこもっているのを聞きつけて、物珍しそうに涼景が訪ねてくるのは、時間の問題であった。

 気分がすぐれない、と、蓮章は出仕を断った。それはすなわち涼景に、自分を見舞いに来い、話したいことがあるという、暗黙の伝言である。

 宮中の警備が終わり、日が傾きかけた頃、涼景は蓮章の屋敷を訪ねた。

 遜家は、宮中でも、宰相を排出するほどの名家である。

 だが、蓮章はそんな本家からは離れ、嫡男でありながら、都の一画に小さな屋敷を構えるのみで、使用人すら置いていない。自分の身の回りの事は自分で何もかもこなす。それは蓮章の性格であるのか、それとも折り合いの悪い家族への当てつけであるのかわからないが、蓮章のそんな生活は、彼自身の気に入るところであった。

 涼景は酒瓶を一本手土産に、その屋敷を尋ねた。

 使用人もいないのだから、気兼ねする必要は無い。表も裏も、涼景は合鍵を持っている。この屋敷は以前から蓮章と涼景、そしてごく一部の親しい者たちの溜まり場となっていた。

 溜まり場。

 そう、皇帝のことをよく思わない者たちのあじとである。

 まさか近衛副隊長の私邸が、反逆者の根城となっているなど、誰も思いもしない。

 涼景は黙って庭まで入り込んだ。物思いにふける時、親友がどこにいるかくらい、今までの経験から容易に想像がつく。彼との付き合いは甘いものではなく、また、浅いものでもなかった。自分の弱みを蓮章は知るところであるし、蓮章の弱さや脆さもまた、涼景がよく知っている。

「何があったんだ?」

 涼景は蓮章の後ろから声をかけた。

「背中が、がら空きだぞ」

「お前相手に警戒する必要はないだろ」

 蓮章は投げやりな調子で答えた。言葉こそそっけないが、そこには涼景に対する深い信頼と、言わずとも通じる心の距離がある。その信頼が蓮章の本音を引き出していく。

「何があった?」

 涼景の短い問いかけに、蓮章は一部始終を語った。話を聞きながら、涼景は次第と不安そうな顔を深めていく。

 それはこれから起きることへの不安と言うよりは、蓮章の心の乱れを感じているかのようである。

 事実、蓮章という男はそういう人物であった。

 他者のために何かをする。そのためならば、ときには大胆なことも平気でやってのける。涼景はそんな蓮章の気概が好きだった。だからこそ、彼とは馬が合うのだ。だが、同時に自分自身を投げ出すような、無謀なことも恐れなかった。良くも悪くも命知らずで、その気性は時に涼景を悩ませた。

「涼、どうしたらいいと思う?」

 蓮章は話の最後を、そう、締めくくった。

 涼景は蓮章と並んで殺風景な庭を眺めながら、

「ずいぶん簡単なことで悩んでいるんだな」

 と、あっさり答えた。

「簡単なことならこんなに悩まない。少なくとも俺にとっては、悩むに値することなんだ」

「そうか?」

 涼景は勝手に厨房から持ってきた杯を出すと、酒を注いで、蓮章に手渡した。

「まぁ、飲め」

「ありがたいが……」

 蓮章は浮かない顔で、

「せっかくの一献がもったいないだろう? 飲んだところで、俺は酔えないんだから」

「知っている」

 涼景はさっさと自分の杯を空にすると、次の酒を注ぎながら、

「それでも、飲め」

 蓮章はそれ以上、口答えすることもなく、おとなしく杯の酒を煽った。

 彼が酔わないのには訳がある。酔わないのではなく酔えない、という方が正確だ。

 彼の肉体には酒も薬も効かない。

 幼い頃からそれらの類に体を慣らされ、大抵の薬物には耐性があるのだ。

 玲陽とは違う意味で、虐待的な人生を送ってきた彼には、そんなことを恨めしく思う余裕もなかった。しいて言うならば、甘んじて自らの出自を受け入れていたのだろう。

「簡単なことだと言うなら、お前は、どう答えを出す?」

 蓮章は、遠慮なく涼景に回答を求めた。

「そうだな。そいつが足抜けしたいと言うのは、どういう理由からか、聞いたのか?」

「いや…...」

 蓮章は首を振った

「ただ、あいつは今まで相当なことをしてきている。腕も確かだし、俺が取り押さえた時もてこずった。それに…あいつからは拭いきれない血の匂いがする。足を洗うにしても、足抜けするとは言ったところで、逃れ切れるものではないと思う」

「それなら、それなりの道を探すしかなかろう」

 涼景はさらりと言って抜ける。

「蓮、お前は時に自分の感情に素直すぎる。あいつは......易永はお前ではない。自分の思いとあいつの思いが同一であると言う錯覚を抱いているだけだ。まずはそこを確かめることだな」

「易永に蛾連を抜ける、別の理由があると言うのか?」

「別も何も、お前は訳を知らないじゃないか。あいつがどうして離れたいのか、そこに答えがある。都から遠ざけ、逃亡者の縄をかけることもなかろう。そんな立場に、あいつを追い込むよりも、あいつ自身の願いを叶える方法が他にあるように思えてならない」

「易永の願い…...?」

「そうだ」

「わかった。もう一度話してみる必要があるようだな」

「さぁ、それはどうか」

「どういう意味だ?」

 涼景はニヤリと笑った。

「蓮、お前が唯一、賢かったのは、易永をあのふたりに預けたことだ。あいつらのことだから、とっくに易永の願いも、今後の行く末も、全て見通して筋書きを書いている頃だろう」

「............」

「二日後、迎えに行く必要は無い」

「え? だが…...」

「俺の言葉を信じろ。迎えには行かなくていい」

 蓮章はじっと涼景を見つめた。いつでも自信にあふれ、何がその身を傷つけようとも、決して屈することのないこの友人は、自分が思う以上に強い。そして賢人だ。

「わかった。もしあいつらが文句を言いに来たら、お前が行くなと言ったと言う。それでいいな」

「構わない」

 涼景は蓮章の杯に酒を満たしながら、

「酔えなくても、味わうことくらいできるだろう。それでいい」

 お前はお前のままでいい。

 言外の意味を解して、蓮章は目を閉じた。

 陽、すまない。俺はどこまでも中途半端だ......

 勝手な情け心で助けようとした易永を守り切ることができず、その上、弱った心を友人に委ねてしまう。何一つ、自分で満足にやり遂げることはできない。

「蓮」

 息を止めるように、涙をこらえている友人を横目で見て、涼景は静かに言った。

「この庭には、春の花がないんだな。今度、俺の庭から持ってきてやる」

 

 本人の言葉通り、玲陽に嘘偽りは通用しない。玲陽が見ている世界は、易永の知覚する世界とはあまりに違う。

 人を魂で見分ける玲陽を騙すことは至難の業である。

 もちろん、易永に詳しい事情はわからないが、それでも、玲陽には敵わないことだけは本能的に感じ取った。

「易永、何でも言って欲しい」

 犀星が、戸惑う易永の背中を押す。

「話を聞いても、俺たちには何もできないかもしれない。だが、お前が話してくれるなら、こちらも最善を尽くす覚悟がある。そうでなければ、生かしてはおかなかった」

 玲陽が静かにうなずく。

 易永は交互にふたりを見た。

 その姿は、凡人の域を脱している。美貌だけではない。このふたりからは、人間を超越した神聖さを感じる。まるで、生き物ですらないかのような、卓越した存在。

 命のやりとりをしてきた易永には、それが余計に如実に感じられるのだ。

 彼は、観念した。

「…...疲れたのです。私は命じられるままに暗殺を繰り返してきた。相手がどのような立場の人間であろうとも構わなかった。密かに慕った人を殺せと言われた時、私は逆らうことができなかったんです。私はその人を手にかけ、その人は私を恐怖の目で見つめたままこの世を去りました。私の本心を知ることもなく、告げることもなく、私自身、その勇気もなく…...」

 犀星がちらりと玲陽を盗み見る。思った通り、玲陽は易永を見ているようで、見てはいなかった。玲陽の目は、易永の後ろの壁に注がれている。

 犀星にはまだ、声は聞こえないが、玲陽には、易永が殺したという女性の姿が見えているのだ。

 易永の嘆きが高まった。

「もうたくさんです。何のためにこんなことを繰り返しているのかわからなくなった。今更、愚かだと思うでしょう。けれど、その時に気がついたんです。私が殺してきた多くの人たちに大切な相手がいたということ」

 玲陽はじっと傀儡を見つめ、犀星は心を澄ませた。

「今更何を言っても言い訳で、自分の弱さが情けなく、生きていることも苦しい。でもせめて......せめて、その人の弔いだけはしたいと思ったのです。彼女の墓前に手を合わせたいだけなのです。それが叶うなら、それ以外の事はどうでもいいと思える」

 傀儡の声はしないが、姿が消えていないことは、玲陽の様子から明らかだった。

(あなたは、どこに葬られたのか?)

 玲陽の視線の先に、犀星は静かに問いかけた。頭の中に、掠れた返答があった。

「可哀そうだが、彼女に墓はないようだ」

 犀星は、易永の表情を伺いながら、

「お前が手を合わせる場所は、どこにもない。おそらく、その体は打ち捨てられたのだろう」

「......なぜ、そうわかるのです?」

「詳しいことを話すと長くなる。だが、これは事実だ。お前が信じなくても、それは変わらない」

 易永は視線を落とした。

「......いえ、信じます。彼女の遺体を切り刻んで、池に捨てたのは私ですから」

 ハッとして、犀星が立ち上がった。同時に、玲陽も体を緊張させる。

 易永の言葉に、明らかに傀儡が反応を示した。

 二人の目の前で、傀儡が易永の口中に飛び込む。

 あえて、ふたりは止めなかった。

 支配された易永には、傀儡の記憶がわかるはずだ。

 何が起きているか、易永自身が理解できるはずだ。

「どうする、易永?」

 突然の出来事に動揺する易永を、犀星は抱き寄せた。

「今なら、その女だけを消すことができる。おまえは助かる」

「!」

「だが、このまま、おまえが共に死ぬというなら、それも叶えることができる」

 犀星は、敢えて感情を抑えて、易永に問いかけた。

「選べ。お前の生き方を。お前は、自由だ」

 易永の顔が、苦しみの表情から、解き放たれるように、笑顔へと変わっていく。

 まるで、固く閉じていたつぼみが、春の日差しに花弁を開くかのようだった。

「私は......」

  

血染めなる

刃の先に

花落つと

君の命を

遠く思えば

(仙水)

 

 春爛漫の朝焼けの朝。

 東雨が部屋を訪れたとき、犀星と玲陽は互いに背を持たせかけて、床に座り込んでいた。

 犀星は手にした寿魔刀が朝日を弾く光を、玲陽は誰もいない寝台を、それぞれに見つめたまま。

 易永の答えこそ、彼を救う唯一の道だったのか。

​ 闇の中に生まれ落ちた彼が、唯一選ぶことのできたもの。それは、己の死に様のみ……

 ふたりの胸には、春の嵐が吹き荒れていた。

bottom of page