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歌仙詠物語3
探梅

​ 玲陽が都に来て、初めての冬が終わろうとしていた頃の、五亨庵。

「兄様、お茶にしませんか?」

 ちょうど、緑権が用事で出かけて二人きりになると、玲陽は休息の準備をして犀星を招いた。

「朝から、一度も休んでいませんよね? 少し、無理をし過ぎです」

「だが、やらねばならないことが……」

「何をお考えですか?」

 玲陽は犀星の手元を覗き込んだ。

 都の外側の田畑が描かれた絵地図である。

「今年はお前もいるし、郊外の河川工事をしてみようと思ってな。手伝ってくれるだろう?」

「勿論です」

 玲陽は興味津々に地図を見た。

「このところ、干ばつや洪水のたびに、田畑の被害が甚大になっている。気候が変化しているのかもしれない。今までの治水対策では追いつかないんだ」

「それで、新たに整備を?」

「ああ。だが、現地を視察しないことには話は進まない。俺一人では手がまわらなくて、昨年は見送ったんだ。だが、今年はお前がいる。一人じゃできなかったこともできる」

「お役に立てるよう、精一杯努めさせていただきます、親王殿下」

 玲陽は形式ばって拝啓した。

 その姿を見て、犀星が破顔する。

 そうだ。

 一人でできなくても、二人なら、何倍もの力を出せる。その相手が玲陽なら、本当に何でもできると確信する。

「陽」

 仕事中の彼らしからぬ甘い呼び声に、玲陽はそっと応えて、犀星の上体を胸に抱き寄せた。

「休憩をしないのは、甘えたくなるから、ですか?」

「ああ」

「いくらでも、私はあなたを受け入れるのに。どうしてそんなに臆病なのです?」

「別に、臆している訳ではない。ただ、加減がわからない」

「したいようにしてみて下さい。加減は私が判断しますから」

「そうか……」

 犀星は玲陽の胸もとに顔を押し当てて、甘い香りにうっとりと目を閉じた。

 それを見ながら、玲陽は苦笑した。

 確かに、こんな姿はいくら緑権や慈圓が知っている仲とはいえ、親王としての沽券に関わる。見せるわけにはいかないな、と、自らも犀星の不思議な色合いの髪に頬を寄せて思う。

 玲陽は身体が回復してきたおかげで、多くのことを一人でできるようになってきた。長年の不摂生のために体力にはまだ自信はないが、傷が痛むことも格段に減った。冷菓子だけを口にする生活からも、もうすぐ抜け出せそうである。

 冬は確実に遠ざかり、春は確実に近づいてくる午後。

 まだ肌寒い五亨庵の中で、互いの温もりは宝玉よりも価値のある存在だ。

「……お前たち、何をしているんだ?」

 ビクっとして、二人は身体を離した。

 見れば、五亨庵の入り口に、涼景が棒立ちしている。気配を感じさせない彼は、いつも二人を驚かせる。

「近くを通りかかったから、覗きに来てみれば……」

「あ、いや……」

 犀星が咳払いして絵地図に目を戻す。

「お、お茶でもご一緒にいかがですか?」

 玲陽が珍しく焦りながら、涼景に茶を勧めた。

「他の連中がいないと、いつもこうか?」

「そんな訳ないだろ!」

 むきになって、犀星が怒鳴る。

「今は、偶然……」

「もう、この冬は火を焚かないことにしたので、ちょっと寒くて」

 と、玲陽が言い訳を挟む。

「それで、互いに温め合っていた、と?」

 ポッと頬を赤らめて、玲陽がうつむく。

「違う! 俺が甘えたから……」

「兄様!」

「あ……」

 うろたえ続ける二人を、涼景はさも面白そうに眺めていた。

「本当に、お前たちは仲がいいな」

「…………」

 二人とも黙って縮こまる。

「別に、責めてなどいないぞ。お前たちが幸せでいてくれると、俺も嬉しい。何より、な」

「涼景様……」

 玲陽は椅子でくつろいだ涼景の前に、茶器を置き、湯気のたつ茶を注ぐ。

「ジャスミンです」

「お前が好きなやつだな」

「ご存知でしたか?」

「ああ。よく、星が言っていた。大切な人が好きだった、と」

「大切な……人……」

 玲陽は繰り返して、また、照れて黙りこむ。

「おい、陽をからかうな」

「だったら、お前もこっちに来て話をしろ。どうせ、仕事詰めで気も休まらないんだろ?」

「俺は、陽がそばにいてくれれば、それだけで……」

「あー、わかったわかった!」

 涼景が遮る。

「惚気は晩酌の時にでも聞いてやる。酒が入らないと、こっちまで照れくさくなる」

「涼景様……」

 玲陽は、遠慮がちに、

「あの、東雨どのは?」

 涼景は瞬時に真面目な顔に戻ると、

「大丈夫だ。命に別状はない。利巧が適度に連れ回しているから。俺たちに任せてくれ」

「宝順は、見逃してくれたんだよな」

 犀星は机を離れて、涼景たちの卓に近づいたが、手には絵地図を持ったままだ。

「皇胤は断たれた。問題はない」

「そうか……」

「殺してしまえばそれまでだが、生かしておけば、また使い道がある、と考えたのだろう」

「これ以上、あいつを追い詰められてたまるか」

「ああ。ほとぼりが覚めたら、お前づきの私設近衛に推挙してやる。あいつも、剣の腕は立つ。文句は出ないだろう。お前も自由に出歩ける」

「そうだな」

「すでに、勝手に出歩いてますけどね」

 玲陽が小声で告げ口する。

「こいつは、昔からそうだ。俺が何度言ってもきかん」

「自由奔放に育っているので……私たち」

「そうだったな」

 涼景は暖かな茶の香りを楽しみながら、

「確かに、そんなお前たちに、宮中は窮屈だろう。野山を駆け回っていたんだから」

「懐かしいです」

 玲陽は両手を茶碗で温めながら、

「昔、この季節になると、よく山深くに入りました。梅を探して……」

「探梅、か」

 涼景は興味深そうにつぶやいた。

「いいな。何代か前までは、宮中行事であったが、何せ、雪解けの山道で難儀をする、ということで、廃止になったそうだ」

「よかったな」

 犀星は傍に絵地図を広げながら、

「お前の仕事が一つ、減ったわけだ」

「ああ。宝順じゃ、自分の足で歩くなんて、絶対に言わないだろうからな。かといって、馬も進めん。籠の担ぎ手が酷い目に合う上、梅を探すのは俺たちの仕事になる」

「何のための山歩きか、わからないですね」

 玲陽が苦笑いする。

「全くだ。血生臭いことは好きだが、それ以外のことには無頓着だからな」

「わかりやすいです」

……涼景。次の休仕はいつだ?」

 犀星は絵地図を眺めて、

「この山へ、行きたいんだが」

「は?」

 涼景が顔をしかめる。

「まさか、お前、人の休みに漬け込んで、俺を護衛に使う気か?」

「仕方がないだろ? 近衛なしで出歩くな、って、右近衛将軍に言われている」

「…………」

「お前が無理なら、別の……ああ、蓮章でもいい」

「あいつには任せられない。二人まとめて食われるぞ」

「だったら、やはり、お前しかいない」

 涼景は諦めの息をついた。

「……わかった。何を調べに行きたいんだ?」

「梅の開花」

「は?」

 再び、涼景は度肝を抜かれた。

 犀星はこうして、時折、突拍子もないことを言い出す。

「探梅だ。陽の体力をつけるにも、ちょうどいいだろ」

「そりゃ、反対はしないが……危険だぞ」

「だから、お前に頼んでいる。別に、俺たちだけでもいいが、何かあったら、お前が咎を受けるんだろ? 一応、俺はお前の警護対象なんだから」

「それはそうだが……」

「正式に、宝順に頼んでもいいが、そうすると、また余計な問題が起こりそうだからな」

「はぁ」

「兄様、涼景様はお疲れですから、お休みの日まで連れ回してはお可哀想です」

「陽……」

 わかってくれるか! と、嬉しそうに涼景は玲陽を見た。

「ですから、私たちだけで行きましょう」

「そういうことじゃない……」

 涼景の期待は、見事に裏切られた。

山深し

鳥の声のみ

近き春

開き初めにし

梅を探して

(​伯華)

 口ずさんで、犀星は楽しげに笑う。

ついでに、この山麓から湧き出している川の様子を見たいんだ」

 こっちが本命だ、というように、犀星は絵地図を涼景に示した。

「今年は、都の南側の治水を中心に行いたい。昨年、台風で酷い被害が出ている。二年続けて田畑が荒れては、皆、窮するだろう」

「そういうことなら、名目が立つ。わざわざ、俺の休日を返上しなくてもいい」

「視察計画書を届けさせる。護衛の指名はお前に任せる。陽が同行することは伏せてくれ」

 犀星は顔を上げて涼景を見た。

「わかっている」

 涼景も、任せろ、と頷く。

「梅の花……」

 玲陽はぼんやりと宙を見ていた。

「どうした?」

「兄様。梅の木って……」

「うん?」

「いえ……」

「なんだ?」

「その……一番、仙界に近い木と言われています。だから……」

「待て、陽!」

 涼景が、玲陽の言葉の続きを止める。

「お前が『嫌な予感が……』とか言い出すと、決まって本当に厄介なことが起こるんだ。だから、せめて、思っても、口にはしないでくれ」

「別に、悪いことじゃないですよ」

 玲陽は安心させるように微笑んだ。

「逆です」

「逆?」

「梅の木は、仙界への通り道。その人の夢幻の願いを叶えてくれると言われているんです。悪い話じゃないでしょう?」

「そ、そうか。よかった……」

「涼景、お前、相当疲れてるな」

「その疲れている俺を巻き込もうとしているのは、どこの誰だ?」

 犀星はじっと、涼景を見つめて、

「お前を、信頼しているから」

「……こいつ」

 犀星の殺し文句に、何度、無茶をさせられてきたことか。

 そんな二人のやり取りを、玲陽は微笑ましく見守る。

 まるで、本当の兄弟みたいだ。

 面倒見の良い兄と、それをうまく操る弟。

 そんな関係が、涼景と犀星の間に見えて、玲陽は心から平穏を感じる。

 こんな時間が、長く続けばいい。

 梅の木を見つけたら、そう、願い事をしよう。

​ 玲陽は冬の寒さも忘れて、じゃれ合うように言い合いをする二人を、いつまでも眺めていた。

 趣ある梅の探索とは裏腹、この季節の山道は、雪解けでぬかるんで、足場が悪い。

 特に、犀星が示した山の状況は酷く、人が入った形跡もない状態だった。

「いい所ですね」

 玲陽はしっかりと足元を固めた服装で、山歩きに備えている。犀星も同様に、慣れた様子だ。

 涼景は、とりあえず言われた通りに支度をしてきたが、実際に歩き始めると、その困難さを思い知った。数々の戦場を渡り歩いてきたが、大群を動かすため、地盤はしっかりした場所を選んでいた。遊撃で動く場合も、ここまでの悪路を選んだことはない。

「おい」

 難なく進んでいく犀星と玲陽に遅れをとって、涼景は呼び止めた。

 何事か、と二人が振り返る。

 犀星はともかく、玲陽は体力的に落ちているはずだ。それなのに、軽々と山道を登ってゆく。

「大丈夫か?」

 犀星が引き返してきて、涼景の足元を見る。

「馬鹿だなぁ。ちゃんと、足場を選ばないと、疲れるだけだぞ」

「足場って、どこも、泥が深い上に、下手に雪を踏めば滑るし……」

「涼景様にも、苦手なものがあったんですね」

「お前たちが慣れすぎなんだよ」

「陽、先頭を頼む。俺が後ろに回るから」

「わかりました」

 今まで涼景は、別段、この二人に劣等感を感じた事はなかった。それぞれの、自分より優れた面は知っていたが、それはそれで素直に尊敬してきたし、友人として自慢でもあった。

 だが、武芸に関しては、自分が最も優れているとの自覚があった。むしろ、そうでなければならないのだ。自分は彼らを守る立場にあるのだから。

 今回も、護衛として、彼らを警護する目的で参加している。その自分が足でまといになることはあってはならない。

 だというのに…… このときばかりは、さすがに涼景も白旗を上げざるを得なかった。馬の駆け合い、戦場での動き、武術や戦略に至るまで、全て自分が率先して犀星達の面倒を見てきた。だが、単純な冬山の歩き方については、両者の方が一歩も二歩も上である。

 犀星が目指しているのは、山の中腹にある切り立った露頭だった。そこからは都の南側の一面が見渡せる上、川の流れや、田畑の面積、家屋の状況、今年の積雪量の状態、残雪がしっかりと確認できる。それらを含め、昨年末に彼がどうにか作成していた氾濫区域の地図を重ねれば、今年やるべき治水工事の全容が見えてくるはずだ。

 内政には知識の薄い涼景からすれば、そちらの方が素晴らしい技術に思える。しかも玲陽がそばにいる。玲陽の知識は深く、それが書物から得たものとは言え、犀星を助けるのに充分すぎる力を発揮してくれるだろう。少なくとも今回の治水工事に関しては、自分よりも役にたつに違いない。

 だからこそ、せめて自分はこの二人が自由に動けるように、と自ら護衛を買って出たわけだが、結果的に面倒をかけてしまっている。ただありがたいことに……涼景にとっては不本意ながら……二人は涼景に山歩きの達者さを求めてはいなかった。ただ、どうせ苦労するのだから、他の誰かが苦しむより、気の知れた涼景を巻き込んだほうがまだマシだろうという、思いやりのあるようなないような考えによって人選されたに他ならない。もっとも、涼景自身が志願して今この場にいるのだから、自業自得と言わざるを得ない。また、このような悪路であることがわかっていたとしても、彼はやはり自分が行くと言っただろう。部下に、こんな難儀はさせたくはない。そこは、涼景の上に立つ者としての配慮である。

 どの角度から考えても、涼景がここにいるのは、必然の流れなのだ。

 玲陽はできる限り足場のしっかりした場所を選び一歩一歩ゆっくりと歩いてくれた。犀星は涼景がずり落ちないよう、時折背中を支えてくれる。涼景には判断がつかないが、二人にはどこも同じに見える泥道ながら、それなりに足場が良い悪いの判断が効くらしい。

 しかし問題は草木だった。この山には本来、人が通る道はない。道なき道を行くとはまさにこのことであろう。

 涼景は、服が汚れる事は気にしなかったが、転倒して二人や、または自分が怪我をすることだけは避けたかった。

 しかし、正式な道が整備されていない以上、山歩きの達人である友人たちに任せるほかはない。

 こんな情けない思いは、何年ぶりだろうか。

 涼景は、玲陽が歩いた靴後を追いかけていた。犀星二度と踏まれた場所を少し避け、それでも安全な場所を確保しながらついて行く。これはどんな修行場でも、書物でも、学べない知識だ。まさに経験から得たものとしか言いようがない。そうしていくうちに次第と草木はその深さを増し、分け入って行くことが困難な状況になった。

「兄様」

 玲陽が振り返る。

「イバラですね。突っ切りますか? それとも迂回しますか?」

 犀星は二、三秒考えてから、

「まっすぐに行こう」

 と、涼景を驚かせる返答した。

「おい、ちょっと待て、イバラだぞ。服が痛むこと気にして言ってるんじゃない。お前たちの怪我を心配してる。かすり傷一つつける訳にはいかないんだ」

 涼景の言い分は逃げ口上ではなく、本心からのものであったが、二人は全く気にした様子はなかった。犀星などは笑って、

「まさかお前、このイバラの中に突っ込むつもりでいるんじゃないだろうなぁ?」

 とニヤニヤする。玲陽もにっこり笑って、

「すべて刀で斬り払いながら進みますか? それとも焼き払いますか?」

 と尋ねる。

 涼景は返答に困り、意地の悪い二人の友人を交互に眺めた。三人でいる時、彼らの間には本当に仲の良い友人同士の暖かな会話と冗談が飛び交う。もしかすると、自分はそれを求めて、苦労するとわかっているこの任務を引き受けたのかもしれない。本来であれば、他に護衛を二、三名要望することができたが、あえて自分だけに留めたのには、三人だけになりたかった、そんな涼景の本心があったのかもしれない。

 あれこれと涼景が迷っているうちに、イバラがいよいよその茂りを濃くし、もうこれ以上一歩も先へ進めない状態になった。

「では、突っ切りましょう」

 玲陽が涼景を振り返った。

「涼景様、木登りはお得意ですか?」

「は?」

 涼景が首をかしげる。

「このイバラを避けるには、そばに生えている木をを使います。幸い、この辺はまだ葉が出ていませんので、木登りにはうってつけです」

「木登り、するのか?」

「おや、将軍は木に登った経験がありませんか?」

 と、後ろから犀星がからかう。

「将軍になるために、木登りの試験は必要ないですからね」

 玲陽もその言葉に乗っかる。

 涼景は何とも言えず、複雑な心境で、高く伸びたブナの木を見上げた。落葉樹であるブナは、今、葉を落とし、枝がはっきりと見えている。

 玲陽は近くにあった木を何本か確かめその若さを確認していた。老木であれば途中で折れる可能性がある。そこまで気を張り、木登りに技術と知識、さらに経験と度胸も必要とするとは、さしもの暁将軍も知らないことであった。

 玲陽が選んだ木を犀星も確かめた。見誤れば、転落して大怪我だ。二人も子供の頃、何度も落ちかけて危険な思いをしている。

「なぁ、本気なのか?」

 最後の救いを求めるように涼景が言った。二人は情け容赦なく、揃ってうなずいた。

「陽、お前が先に行け」

「はい」

 犀星に言われ、玲陽が幹に手をかける。彼の体力を考えれば、木登りなどまだ難しいように思われたが、玲陽は難なく、それをこなしていく。

「涼景様は縄を使ったほうがいいと思います」

 玲陽の言葉に犀星は、荷物から荒縄を取り出し、ちょうど腕を広げたほどの長さに刀で切ると、涼景に渡した。

「おい、これをどうするんだ?」

「引っ掛けて登るんだ。お前、本当に木の登り方も知らないのか?」

 犀星はここまでは冗談だったが、さすがにまるで経験がない涼景に呆れ顔である。

「とにかく、陽の登り方を見ておけ。お前は腕の代わりに縄を使え」

 さっぱりわからない、というように、困惑しながら、涼景は玲陽を見た。

 玲陽は小さな幹の凹凸に足先をかけ、腕の力で体を引き上げる。足場を踏み、それをもとに体を伸縮させ、上のほうに手をかけ、また足を上に上げ、さらにそこから上に向かって伸び上がり、幹に回した腕に体重をかけながら、まるでシャクトリムシのように上がってゆく。

「神業だな」

 涼景が思わずつぶやいた。

「これぐらいのこと。五歳の子供でもできる」

 犀星があきれたように、

「玲陽は腕を使えるが、お前は縄を使え。慣れていないと、手が滑ったり、幹に擦れて怪我をする」

「あ、ああ……」

「心配するな。落ちてきたら俺が支える。それとも一番後ろで置いてけぼりを食いたいか?」

 仕方なく、涼景はため息をついた。これはある意味、一種の試練だ。剣術の稽古や作戦を立てるより、どんな強者と一騎討ちを交えるより、あの宝順と一夜を過ごすより、違った意味で命がけの冒険である。

 そういえばしばらく、こんな胸躍るようなことをしていなかったな、と涼景の中の好奇心が湧き上がってくる。

「よし、やってやる」

 涼景は初めてであることも気にせず、やり方だけ教わると、自分からその木に取り付いた。涼景にとっては生まれて初めてのこと、だが、二人の友人の前で恥ずかしい格好は見せられない。仮にも暁将軍と言われた彼である。腕力には自信があった。体力も二人に負けない。そして体の使い方も決して鈍い方ではない。

 はじめこそ、危なっかしい動きであったが、やがてコツを掴むと、するすると木を登って行く。

「さすがは涼景様です!」

 上の枝に腰掛けて玲陽が言う。

「慣れてさえしまえば難しい事はありません。猫だって気に登れるんです」

「猫と比べるな」

 涼景は汗のにじんだ額で玲陽を見上げニヤリと笑った。

「気を付けろ、表面に苔があると滑りやすい」

 犀星が注意を促す。

「この時期の苔は凍結しています。氷と同じだと思ってください」

 二人から様々な技術を学びながら、涼景はどうにか一番下の太い枝までたどり着いた。その頃には、玲陽はもう一つ上の枝に移動している。

 あれだけ道をふさいでいたイバラが、今ははるか下である。

 目の前には、力強く枝を広げた高木が、空の向こうまで続いている。

 確かに地理的に言えば、この先が犀星の言っていた露頭だ。

 真っ直ぐ行く、とはこういうことだったらしい。納得はしたものの、涼景はその発想の突飛さに、今更ながら、面白い友を持った、と嬉しくなる。

「で、ここからどうするんだ?」

 涼景はとりあえず枝でひといきつきながら、まだ幹に取り付いている犀星に言葉をかけた。

「まさか、枝を渡っていくとか言わないよな」

 冗談で口にした涼景の言葉に、玲陽は真剣な顔で頷いた。

「飛び移れそうな道筋があります。大丈夫です。任せてください」

「え?」

 呆気に取られている涼景には構わず、玲陽は自分の荷物の中から、細めの縄を取り出した。その先には重たい分銅がついている。

「なんだそれ……」

「どこかで見た事はありませんか?」

 玲陽に言われて涼景はまじまじとその手の中のものを見た。確かに似たような形のものを、どこか以前に見かけた記憶がある。ハッと、思い出し、涼景はあきれたように玲陽を見上げた。

「攻城戦の時に使う、鉤縄か?」

「そうです。鉤縄だと、木を痛めるので、分銅に変えてあります」

 玲陽は、見極めた枝に向かって縄を放り投げた。見事に分銅の手前の縄が枝に引っかかり、そのまま分銅が遠心力でくるくると回転し固定される。

「縄と枝の摩擦力で、私たちの体重くらいは支えてくれますから」

「そ、それでどうやって向こうまで……」

「こうやって」

 玲陽は足場にしていた枝に立ち上がると、軽々とそれを蹴って、分銅が巻き付いた枝の一本下の上に飛び移った。「…………」

 涼景は今見た光景が信じられず、しばらく呆然とする。玲陽は縄を外すと、

「こんな感じで、渡っていきます」

「いや、こんな感じって! 無理だろ!」

「無理じゃありません。今、私がやりました」

「だから、お前にできても、俺には……」

「ほら、涼景。お前の分の渡り綱」

 気づけば、すぐ横まで来ていた犀星が、玲陽が使ったのと同じ分銅付きの縄を涼景に差し出している。

「ほ、本気かよ……」

「陽、一本先へ。涼景は俺が一緒に飛ぶ」

「わかりました」

「わ、わかりました、って……」

 玲陽は自分の綱を外して、さらにその先の枝に巻きつけ、軽々と渡る。

「いいか、自分が飛び移りたい枝の、少し手前の上にある枝に縄をかけるんだ。木の枝は、少しずつズレて伸びている。体が勢いで振られて、ちょうど速度が弱まったあたりで足を着けるように決める」

「理屈はわかるが、そんなに簡単には……」

「陽はこういう時に道筋を読むのが得意なんだ。あいつが使った枝を使えば、うまくいくから」

 犀星は、何でもない、という調子で涼景を力づけるが、涼景本人はそれどころではない。

「とにかく、やってみろ。無理そうだったら、ここで待っていてくれていいから」

「そ、そんな訳に行くか!」

 すでに、使命だのお役目だのより、意地になって、涼景は縄を構えた。

 攻城戦で鉤縄を使った経験はある。それと同じ……

 自分に言い聞かせて、玲陽が狙ったのと同じ枝目掛けて縄を放る。だが、攻城戦と違うのは、足場が頼りない枝の上、ということだ。思わず癖で片足を後ろに引いたが、そこには踏むべき大地がない。

「おっと!」

 犀星が、体勢を崩した涼景を、器用に支えた。

 涼景は観念した。

「すまん、星。俺は足でまといだ。ここからは二人で行ってくれ」

「何だよ? いいのか、護衛なしで」

「この状況で、お前たちに護衛は必要ない」

「そうか。じゃあ、ここに座って、幹にもたれて休んでいろ。帰りもこの枝を通るから、迎えにくる。心配するな」

「残念だが、そうさせてもらう」

 残念、というより、心底、悔しそうな涼景の頭を、犀星がくしゃりと撫でる。

「気にするなよ。俺たちは歌仙でも上手い方だ。特に陽はな。俺だって、あんなに身軽に渡れない」

「お前たち、生まれる場所と立場を間違えたな」

「うん?」

「俺なんかより、よほど優秀な将軍になっていた」

「俺はともかく……」

 犀星は声を低めた。

「陽は、戦いは好かない」

「……そうだな」

 涼景は犀星の手を借りて、楽な姿勢に座りこんだ。

「星、気をつけろ」

「ああ。用事を済ませたら、すぐに戻るから」

「俺のことは気にするな」

 涼景はすっかり自分の敗北を認めて、

「本当は、陽に、自信をつけさせたかったんだろ? 自分はもう、ちゃんと動ける、と」

「涼景」

「お前が、陽のためにしか行動しないことは知っているさ」

「見くびるな。俺はお前のことも考えている」

「そうか?」

「そうだ」

「その結果がこれだぞ」

「いい気晴らしになっただろ?」

「……負けたよ、お前には」

 涼景は素直に認めた。

「兄様? 大丈夫ですか?」

 先をゆく玲陽が振り返っている。

「行けよ。ここから先は、お前たちだけの世界だ」

「……ありがとう」

「こちらこそ」

 二人は、手を握り合うと、嬉しそうに微笑んだ。

「陽! 涼景はここに置いていく。先へ進め」

「はい」

 玲陽の後を追って、犀星は枝を飛び移っていく。二人が身軽だということは知っていたが、まさか自分とここまで差があるとは……

 涼景は悔しさを通り越して、素直にその特技を認めざるを得なかった。

 涼景を残して、犀星と玲陽は、軽快に枝を渡り、あっという間に目指す露頭へたどり着いた。

 まずは玲陽が近くで居心地の良い枝を選び、そこによじ登ると景色を楽しむようにゆったりと座る。そのすぐ下の枝に、犀星は陣取り、近くの枝に荷物を引っ掛けて軽装になってから、巻紙と木炭を取り出した。

 眼下に広がる景色を丁寧に写生していく。もちろん、美術的な絵を描くのが目的ではない。治水工事に必要な情報が欲しいだけだ。

 この露頭よりもさらに西に行ったところから川が流れてくるのがわかる。水源はこの山の西の山麓だ。そこに十分な貯水量の湖があることは、昨年、犀星が調べてわかっている。そこから流れてくる川の水量は、灌漑用水として利用するには、ちょうど良く、田畑を十分に潤し、海へと続く大河へ注いでいる。まずはその流れを確実に確保することである。それによって大雨や台風の際にも、都にまで浸水の被害が及ぶ心配は少なくなる。

 さらに、田畑を区切っている細い用水路にも犀星は丁寧に目を向けていた。

「兄様、どうしてここら辺の田畑は面積や形がこんなにバラバラなんです?」

 玲陽が問いかける。犀星は正確に書き留めながら、

「土地の切り売りを繰り返しているからな。本当はある一定の面積を固定した農民に任せた方が安定するんだが、農業の苦しさのために田畑を売り、土地を離れたり、逆に有り余った金で商人が土地を買い取ったりと、区画はもうめちゃくちゃな状態だ」

「なるほど……」

 玲陽は農民たちの苦しい生活の果てが、この景色であることに納得した。

「誰がどこを持っていようと、面積は出来る限り均一にしておいた方が安全ですし、効率も良いですよね」

「そうだな。俺もそう思う。特にこの辺は平野で、環境が等しい状態だから、扱いやすい広さ、家族や集団で管理しきれる広さに区切る整備が必要だ」

「そうなると、商人から再び土地を買い上げる必要が出てきますね」

「ああ。その後、田畑の採寸から始めて、灌漑用水路の配備に入らねば……」

「結構大掛かりだし、お金もかかりそうです」

 玲陽は、その膨大な仕事量を想像して、肩を落とした。宮中の内務官が、誰も手をつけようとしない訳だ。

「俺がどうしても一人ではできないと、言ったのがわかるか?」

 玲陽は何度も頷いた。

「はい。これは生半可な仕事ではありません。この景色を見て納得しました」

「陽。俺はここを水田地帯にしたいと考えている。お前はどう思う?」

「そうですね……」

 玲陽は、都の南だけではなく、見える範囲全てを比較してから、

「この一帯は農地としてはとても良いところです。都中の人々の食料を確保できる。畑にできる場所は結構ありますが、水田にできる場所は限られています。兄様が見込んだように、南側は良い水田地帯になるでしょう」

「お前のその言葉で安心した。自信を持ってここの開拓を進めようと思う」

「十分な農民は確保できるのですか?」

「土地の区画整備が済めば、それに見合うだけの人員は北の方からも呼べる。皆、南の氾濫を恐れて北へ避難していっている」

「でも北のほうは泥炭です。あそこは農作物を育てるにも土地が痩せていて、土壌改良をしなければ、十分な収穫は望めません」

「その通りだ。農民たちの努力だけではどうにもならない。こういう時こそ政治が動かねば」

「歌仙は山が多く林業が盛んでした。でも玲家がおさめていた土地は平野部がほとんどで、田畑の管理が主な仕事でした。兄様は、犀家の領地だけではなく、私の家族が放り出していた平野部の管理にも、犀遠様と共に力を貸してくださいました」

 懐かしそうに、玲陽はゆっくりと語った。

「そんなこともあったな。あの時はよくわからなかったが、本当に良い勉強をさせてもらっていたんだと、最近つくづく思う」

「はい。机上の空論ではなく、実際にその難しさを体験し、そしてやりがいを感じた兄様だからこそ、必ずや、この仕事を成し遂げてくださると信じています」

 玲陽は、楽しい計画を前にした子供のように、声を弾ませた。

「今年は都の南。来年はまた別の地域、その次の年は……」

 玲陽の視線がより遠くへ、やがて地平線へと伸びていく。

「兄様。すべての人々を幸せにすることはできないでしょう。けれど、せめて一人でも多くの人を幸せにしたい。その手伝いが出来るなら、何か小さな事でも力になれるなら、私はそこに全力を注ぎたいです」

「陽」

「兄様。私は兄様の手足です。どうか、存分にお使いください」

 犀星は描いていた手を、ふと止めた。

 自分が思っている以上に玲陽は自分の力になろうとしてくれている。自分が期待している以上に、自分に尽くそうとしてくれている。

 その思いが何よりも犀星を力づけ、勇気を与えてくれる。

「頼りにしている」

「お任せください。親王殿下」

 玲陽が明るく笑う。

 木の上で眼下の景色を眺めながら、二人は少年の日のように互いに夢を語りあった。

 この国をどうしていきたいのか、まだ冷たい冬の風が吹く中、二人の胸には暖かな希望が溢れて、枯れ果てた田畑も、緑に色づき、やがて黄金色に輝き、人々の笑い声が溢れる……そんな世界が目に見えるようだった。

 玲陽は久しぶりに存分に体を動かし、のびのびとした気持ちで景色を楽しんでいた。チラリと犀星を見ると、真剣な仕事をしながらも、どこか幸せそうな、満足そうな笑顔である。人々のために、自分にできる何もかもを捧げる覚悟で仕事に臨んでいる犀星は、玲陽には何よりも、誇らしく、力強い。

 玲陽は周りを見渡した。木々の枝にはまだわずかに雪が積もり冬が残っている。残念ながら梅の木は見当たらない。

 だが、自分のすぐそばで、春を夢見て花を咲かせようとしている犀星の姿そのものが、厳しい冬の寒さにも雪にも負けない、美しい一輪の白い梅の花に思われた。

 

枝先の

雪に埋もれし

花一輪

その命をや

愛し君かも

(光理)

 

 玲陽が、心の中で呟く。

 私は、世界で一番、美しい梅の花を見つけました。

 その人の隣で過ごせる日々は、さぞ、輝きに満ち溢れていることであろう。

 友人たちが、先の露頭であれこれと考えを巡らせている間、涼景もまた試行錯誤を重ねた挙句、どうにか自力で木を降りることに成功した。

 枝の上でくつろぐ、など、慣れていない彼には心地の良いものではない。自分の身の安全を考えて、とりあえず地面の上にいた方がいい。

 降りてきた木を見上げ、涼景はため息をついた。あの二人には決して見せられない、情けない顔になる。

「確かに、猫でも登れるのにな……」

 玲陽が言っていたことを思い出す。

 慣れないことをしたために、緊張感で体がこわばっている。

 日にあたって乾いた場所を探すと、涼景は四肢を投げ出し、腕を枕に寝転んだ。

​「猫なら、陽だまりで居眠りをしていても叱られまい……」

 穏やかな日差しと、心地よい風、誰からも見つからない山の中。近くには、信頼する友人がいて、必ず迎えに来てくれる。

 久しぶりに深い安堵と重たい疲れが、涼景の意識を瞬く間に夢の中へ引き込んでゆく。

 夢の中で、自分はじっと、山に暖かな季節が来るのを待っていた

 枝の上にいるのだろうか。

 地面がはるか下に見える。

 見回すと、紅色の梅の花が、静かにすぐそばで自分を見つめていた。

 不思議に思って、さらに周囲を見れば、自分が梅の木になり、その花は自分が咲かせたものだとわかる。

 祇桜とかいう桜のことを、涼景は思い出した。

 そうか、俺は梅になったのか。

 確かに、わざわざ探して歩くより、自分が梅になった方が早いな、などと、不自然にも感じず、彼は思った。

 ふと、視界に動くものが入る。

 一人の少女が、白い息を吐きはがら、あたりをきょろきょろと見回し、何かを探しながらこちらへくる。

「ほら、花が咲いたぞ」

 涼景は声をかけようとして、話せないことに気づいた。

 少女は自分には気づかない。

 ただ、一生懸命に周りを見回している。

 近づくにつれ、涼景には少女が誰か、はっきりわかった。

 燕春だ。

 自分が愛してやまない、たった一人の実の妹。

「兄様! 涼景!」

 精一杯の声で、彼女は自分を呼んでいる。

「どちらです?」

 俺はここにいる!

 答えたくても、答えられない。

 なぜ、見上げてくれない? お前の、すぐそばにいる。

 春! 俺はここだ!

 涼景は胸いっぱいに叫んだが、声は出ない。

「兄様!」

 苦しそうに叫びながら、燕春が自分の下を通りすぎ、遠ざかっていく。

 春!

 涼景は振り返ろうとした。後を追おうとした。

 だが、今の自分は梅の木だ。動くことはできない。

 小さくなっていく燕春の声が、彼の心を締め付けた。

「ああっ!」

 自分の声に、涼景は目を覚ました。

 体を確かめると、元通り、人である。

 ただの夢。

 涼景はぼんやりと、空を見上げた。

 都はまだ冷えるが、歌仙はもう、至るところで梅が咲いているだろう。

 探すまでもなく、屋敷の庭から、山々を彩る紅白の梅が眺められる季節だ。

 身体の弱い妹は、間近で梅の花を見たことはない。

深窓の

君の髪にぞ

飾りたき

​花を求めて

冬の山入る

(仙水)

 一度、外に出られないなら取ってきてやろう、と言ったが、自然に咲くものをむやみに傷つけるな、と逆に妹に叱られたことを思い出した。

『私は、兄様と一緒にいたいのです。梅の花はただの口実』

 そう言って、燕春は自分に口付けた。自分もまた、当然のように、その柔らかな唇を夢中で吸い、舌を絡めて欲望のままに睦み合った。

 あの頃は、今より穢れを知らず、そして、自らの感情に素直であった。そして、怖さを知らなかった。

 だが、今は違う。

 燕春は年齢を重ね、物事を理解し、女になった。

 ただの兄妹の触れ合いの域を越えてしまった二人に、引き返す道はない。せめて、できる限り、遠ざかること。

 物理的な距離だけが、救いだ。

 玲陽を迎えに歌仙に戻った時も、自宅には最初の夜しか寝泊まりしていない。

 そばに燕春を感じれば、自制心を保つ自信はない。

 時がたてば、燕春とて、自分から離れていくだろう。

 そんな願いのような祈りは虚しく、彼女が自分を恋慕う心は、時折届く手紙から、苦しいほどに伝わってくる。いつも、最後まで読むことができず、かといって手放すこともできず、涼景の文箱には、細い線で書かれた熱い想いだけが溜まっていく。

 涼景の胸中を知っているのは、犀星と蓮章だけである。おそらく、今では宝順も勘づいているに違いない。単に家族を守る、という理由だけで、ここまでの屈辱に耐えられるほど、手ぬるい扱いは受けてはいない。

『お前は、年の離れた若い娘が好みか?』

 一度、宝順にそう、問われたことがある。

 その時は適当にはぐらかしたが、自分と燕春のことを言っていたのは間違いないだろう。

 犀星たちの気配が遠のいている。

 大仕事だから、すぐに戻ってくることはない。

 涼景は、手頃な枝を拾うと、木の根本に突き立てた。ここで待っていろ、という意味の暗号だ。

 そうしてから、ぶらりと、足場の良さそうなところを探しつつ、南へと向かう。

「梅の開花を調べに来たんじゃなかったのか」

 草を分けて進みながら、涼景は、忘れたい思いを振り切るように、一歩一歩を踏み締めた。

 宮中では滅多に嗅ぐことのない、泥の匂い。そして、冷たく心地よい湿気を含んだ風。葉を落とした木にも、しっかりと宿る命。

 燕春からの手紙とは別に、自分が家のことを任せている女官長からも、定期的に彼女の体調についての正確な報告が届いている。それによれば、毎年冬場は床につききりで、起き上がる力もないほど、食も細くなるらしい。

 燕家はかつての名家ではあるが、今は没落の一途を辿っている。だからこそ、自分が出世することで、家を建て直すよう、両親が都へ送り出した。今では、涼景一人の肩に、遠縁も含め、全ての血族の命運がかかっている。十分過ぎる俸禄も、彼の手元にはほとんど残らない。

 それでも、燕春にだけは辛い思いをさせないよう、どうにか工面して送っている。

 一人で歩いていると、いろいろなことが思い出される。

 自分が初めて私情で人を殴ったのは、数年前、ちょうどこの時期に本家に戻った時だった。

 あれは先代の自分の父の八回忌、親族が集まっての宴席の後、酔いを覚ましに庭に出た時、遠縁の男たちが話している会話が、偶然聞こえてきた。

『どうせ、永くないのだから、春に金を使うのは無駄じゃないか。そのぶん、こちらに回して欲しいものだ』

 酒が入ってのことだったため、問題にはされなかったが、涼景ははっきりと拳の感触を覚えている。

 どれだけ、戦場で敵を手にかけても、そこには感情などなかった。

 戦いは責務であり、人を殺めることへの罪悪感は、何千人殺そうとも消えるものではない。

 だが、あの時、親族を殴ったのは、明らかに自分の感情だった。悔しさと、悲しさ、憎しみか恨みか、やり場のない怒り。

 相手が一撃で気を失った上、周囲も止めに入ってくれたが、そうではなければ、本当に殺していたかもしれない。あの時ほど、自分で自分が恐ろしいと思ったことはない。

 親族のほとんどが燕春に同情的だ。

 しかし、人の数ほど考え方は違う。正誤を決めつけるほど涼景も世間知らずではないが、それでも、自分なりの正義は持っている。完全に相反したとき、やはり、感情に流されるのは、人間として避けられないことなのかもしれない。

「春……」

 無意識に、涼景は呟いた。

 その名を、人前で口にすることは滅多にない。

 名を呼んだだけで、心を見抜かれてしまいそうで、涼景は常に何かに怯えていた。

 また、取り止めのない記憶がよぎる。

『なぁ、一人でする、って、普通なのか?』

 あれは、犀星が二十歳になる前、二人で酒を飲んでいた時だった。突然の問いかけに、涼景は一瞬、何のことかわからなかった。

『東雨が言うんだ。自分ともしない、一人でもしない、大丈夫なのか、って』

 思わず酒を吹き出しかけたのを覚えている。

 犀星は帝の血を引いている。

 落胤を残さないためにも、女と交わることは禁じられていた。そのため、性処理については男性相手か、自分で始末するしかない。そのために東雨も性技を仕込まれていたのだから。

 あの時は、さすがに参ったな。

 涼景は記憶をたどり、苦笑いした。

 実のところ、当時から、涼景自身、自分で処理することはしていない。毎夜のように、宝順にそのような場面を見せつけられ、ついには自らの体まで食い荒らされていた彼に、その欲望は欠如していた。

 だが、そうなるより前に、一度だけ、堪えきれずに試みたことがあった。そして、皮肉にも、それが彼を、二度と自慰できぬ心境に陥れた。

 口から出るのは、妹の名。目を閉じて想像するのは、その体。あられも無い姿で自分にすがる燕春を想像して、涼景は達した。自らがこぼした欲にまみれた手を見たとき、彼は泣くより他に、何もできなかった。

 この手で、再び妹に触れることなどできない。

 潔癖なまでに、涼景は数日、自分を責め続け、激しい後悔で狂いかけた。

 あの時、一度きりだ。

 もう二度と、自分ではしない。

 考えたくない。

 そういう意味では、燕春を想像する余裕もない、宝順との付き合いは、涼景にとってはまだ気が楽なのかもしれない。

 当時、涼景のそばにいた犀星と蓮章が、彼の様子がおかしいことに気づいた。二人に問い詰められ、涼景は観念して妹への想いを明かしたのだ。あの時の光景を、はっきりと覚えている。

 犀星は清めるように、そっと手を握ってくれた。

 蓮章は背後から暖かく、抱きしめてくれた。

 胸の支えが消え、呼吸が楽になり、そのまま二人に身をゆだねて眠ったのだ。

 二人とも、一言も言わず、それ以来、燕春のことを口に出すこともなかった。今までと変わらずに、自分を信じ、支え、苦楽を共にしてくれている。

 犀星は、仲の良かった夫婦が引き裂かれ、先帝と母の間に生まれ落ちた。女であることを望まれていながら、男として生まれてきた。そして、自分が生まれることで、母を苦しめ、死に追いやった。

 蓮章の出生は、本人も語らないが、複雑な事情があるらしい。ここまで腹を割って話せる仲でありながら、その一点だけは、彼から聞かされたことはない。涼景もまた、無理に聞くつもりもない。何にせよ、愛された証として生まれた訳ではなさそうだ、ということだけは察しがつく。

「愛って、何なんだろうな」

 誰が聞くわけでもない。足を止め、涼景は行手の木の枝を見上げた。

「心から愛する人と結ばれることは、冬山に梅を見つけることより難しい」
 彼の視線の先には、薄紅色をした、小さな梅の花がひとつ、誇らしげに開いていた。

 病弱ゆえ、外出もままならない燕春は、こんな景色を見ることはない。

 いや、それどころか、いつまで、生きていられるのか、それさえわからない。

 生まれ変わるなら、梅の木になれ。紅でも白でも構わない。お前の花を、誰よりも早く、俺が見つけてやる

 熱い涙が、涼景の頬を伝って、残雪の上に落ちた。

 燕春がこの世を去ったのは、それから、八年後のことである。

 だがそれを、涼景が知ることは永遠になかった。

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