歌仙詠物語18
出遊(伯華の章)
誰も住まなくなった家屋は、瞬く間に傷んでいく。
犀星は犀遠がいなくなった後も、歌仙の山奥の邸宅を管理するよう、使用人をあてがっていた。
そこは、時には流行病に苦しむ人々の療養所となり、時には旅人の休み宿として、臨機応変に使用が認められている。
犀遠の遺言ではないが、もし、彼ならば、そういった使い方を望んだだろう。
管理を任されているのは、長年、家老として家を支えてきた源崇(げんすう)字を敬耳(けいじ)という初老の男である。
彼の手腕への信頼は、犀星だけではなく、他の使用人たちや、幼い頃から一緒にいた玲陽も買っているところだ。
涼景の私用で訪れた歌仙は夏の盛りを過ぎたころ、ちょうど過ごしやすい気候で彼らを出迎えてくれた。
山の中の、萎れた花を、玲陽は愛おしげに眺めながら、犀星と二人、犀家へと向かう。
「花の盛りを過ぎても、美しいですね」
ゆっくりとした馬の揺れに身を任せながら、玲陽はそんな花ばかりを探している。
秋に艶やかに香る花もあるというのに、玲陽には、逆に萎れた花弁が風に落ちるのが愛しいらしい。
「相変わらず、だなぁ」
犀星は、少年のように優しい笑みを浮かべて、玲陽を見つめた。
すでに、玲家に顔を出す必要はない。彼は、犀遠の息子、犀陽なのだから……
「お前は昔からそうだ。誰も見向きもしなくなった枯れ花を見ては、微笑んでいた。特別、花に興味のない俺から見ても、不思議だった」
「一生懸命に生まれてきて、花を咲かせて、誰にも気づかれぬように静かに身を引いて……けれど、その内側に、新しい種を宿して、それが熟すまで、寒風にも耐えて守り抜いて……こんなに気高い者がありますか?」
犀星は微笑んだが、少しだけ、そこには寂しさが滲んでいるようだった。
そうだ、玲陽は最近、特に、そうなのだ。
まるで、遠くの世界を見ているような目をする。
傀儡の話ではない。
さらにその先、自分は決して見ることのない、遠い遠い世界を見ている。
自分の腕でしっかりと抱きしめられるその体。しかし、難なくその腕をすり抜けて、背を向けてどこかへ行ってしまいそうな、心細さ。
お前は、ずっと、俺のそばにいてくれる……
美しい晩夏の光に煌めく玲陽の横顔を見ながら、犀星の鼓動は乱れた。
堪えきれずに、目を逸らす。
俺たちの最後は、どんな形になるのだろう。
そんなことばかりが、犀星を惑わせていた。
玲陽と共に、歳を重ねて、天下を変えてゆく夢。
だが、それで終わりではない。
変えたからには、行動したからには、責任が伴う。
いつまで、一緒にいられる?
いっそ、このまま、二人で逃げようか。
そうすれば、煩わしい都や傀儡渦巻く宮中からも離れ、誰も二人を知らない土地で、野菜を作り、狩をして、共に眠り、共に目覚め、新しい日に感謝しながら、いたわりあって生きていける。
権力も、治世も、どうでもいいではないか。
自分が望んで生まれた立場ではない。玲陽とて、欲した力ではない。
もう、許されてもいいのではないだろうか。
この一年あまり……都で傷ついてきた日々……
その中へ帰る必要などない。
どうせ、宝順のことだ。親王一人が行方をくらませたところで、気にもしないだろう。
「生まれた場所で咲きなさい」
突然、玲陽が声にした言葉。
「母上が、よく私に言いました。居場所がなかった私に、母上はご自身の責任を感じていたのだと思います。だから、人一倍大切にしてくれました。でも、私はそんな母上の言葉を、恨めしく思っていました」
玲陽は恥ずかしそうに犀星の顔を下から覗いた。
「生まれた場所……それが、どんなに過酷な環境であっても、強く生きろ、と。でも、誰にでもできることじゃない」
「陽……」
「私は、そんなに強くはありません。だから、いつも兄様に甘えて、くっついて歩いてましたね。一人でいるのが怖くって、不安で、寂しくて」
山の木々が、さわさわと葉を鳴らし、蒸すような草いきれと樹の肌の匂いとが心地よく帰郷する彼らを見守る。足元にはこれから咲こうと蕾を膨らませる秋の花、頭上には枝葉の間から、どこまでも高い空。
都の石畳とは違う、柔らかな土を踏む、馬蹄から伝わる感触。
どんなに都暮らしを続けても、自分はここで生まれ育ったことを思い出させてくれる。
「兄様」
玲陽は、表情を曇らせていた犀星に気づいて、
「どうなさいました? 何か、お気持ちに引っかかるところがおありのようですけど……」
「そう、見えるか?」
「はい」
「そうだな」
犀星には、自分の世界に閉じこもって考えにふけって黙り込む癖がある。
それは大抵、よくないことだ。
明るい話題であれば、澄んだ目を向けて多弁に語ってくれる。
あなたも、相変わらずわかりやすい人ですね。
玲陽は口には出さずに、そう、心でつぶやいた。
ここは、長年の付き合いである。
犀星が自分から世界の扉を開けて出てくるまで、玲陽は黙ってそのそばに寄り添っているだけだ。
必要があれば、向こうから意見を求めてくる。その時、真正面から受け止めればいい。
玲陽は玲陽なりに、この旅を楽しんでいた。
まさか、こんなに穏やかな心境で、故郷に帰って来られるなど、想像もしていなかったことだ。
木々の間から、玲家の領地が見える。
もうすぐ、稲穂の波が美しく広がるだろう。
今年は気候も安定しており、豊作が期待される。
さらに地平には、ちらりと、石造りの砦が見えた。
今はもう、住まう者もなく、ただ、朽ち果てていくだけの世界だろう。
それでも、自分が十年という、人生の青春を過ごした場所であることは、消えはしない。
『生まれた場所で咲きなさい』
私は、あの場所で、咲き誇ることができただろうか。
思い出せば、忘れたい記憶しか蘇ることはないというのに、それでも、まるでわざと自分を苦しめるように、当時の記憶を掘り起こしてゆく。
あそこで過ごした時間が、今の私を作っている。
良くも悪くも、自分の運命を左右した場所だ。
玲陽は、物思いの中にいる犀星を見た。
今は、このまま、この人の隣にいよう。
今の私の生きる場所は、ここなのだ。
「陽」
ふと、犀星が馬を止めた。
犀家の邸宅は、目と鼻の先である。
「先に、屋敷に入っていてくれないか? 一人で行きたい場所がある」
「それなら、私も、寄り道をしてきます」
二人は顔を見合わせた。
「わかった。日が落ちる前に、戻るんだぞ」
「はい、兄様」
まるで、子供時代を彷彿とさせるやりとり。
犀星は先に、目の前の急な崖を下っていった。
「馬術、さすがですねぇ」
玲陽が感嘆する。
昔から、犀星は馬の心がわかるかのように、巧みに操る術に優れていた。
どんな坂道も、ぬかるみも、川も、犀星が手綱を握れば、馬は安心して大人しく歩んでくれた。
そんな犀星を、陰では、帝の血を引く馬丁、と呼んで冷やかす者もいたが、犀星自身は気にした様子もなく、堂々と言い返したものだ。
「馬の気持ちもわからないやつに、人間の気持ちなどわかるはずもない」と。
あの頃から、鋭い語調で周囲を牽制する犀星の片鱗が見えていた。
犀星は、自分がどうしてそうなったのか、幼い頃は考えても見なかったが、今の彼には、予想がついた。
丁寧に下草を確かめながら、馬の前足を庇うように、斜めに山肌を下っていく。
もちろん、回り道をすれば、もっと平坦な道程があるのだが、そこは人馬一体の感覚を持つ犀星だ。
自分がこここを降りる、と決めたら、譲らない。
無事に平野部に降りた馬の首を労うように撫でて、犀星は先へ進んだ。
すでに、耳の奥に、優しい音が聞こえている。
滝の音だ。
彼が愛した、歌仙一帯を潤す白華の滝。
落差が大きく、その崖の上には、地平線までの平地が広がっている。
だが、彼がよく遊んだのは、滝壺と、その奥の洞窟だった。
川の流れを遡りながら、犀星はゆっくりと景色を眺めた。
子供の頃に見ていた景色と、変わることのない、自然の姿。
自分だけが、姿も立場も、考え方も、何もかも、別人のようだ。
「懐かしいな……」
犀星は馬を降りてその轡をとって歩きながら、靴の裏に感じる柔らかな草の感触を楽しんだ。
この川は草原の中を横切っていて、河原が少ない。ほとんどが、湿気を帯びた泥炭である。
だからこそ、このあたりまでは田畑が作られることはなく、自然のままに放置されていた。子供たちの、絶好の遊び場だ。
自分達が育った時代は、農村の子も領主の子も、一緒になってこのあたりを中心に駆け回っていたが、今は、人の姿も見えない。
人口が少なくなったとはいえ、まだ日も高いのに、ここまで閑散としているのは、どこか寂しかった。
昔の自分達であれば、お気に入りの場所を独占できる、と、玲陽と喜んだだろう。
だが、今はなぜか、時の流れが残酷なまでに、胸に迫ってくる。
滝壺に近づくにつれて、犀星は不思議な感覚が自分を誘っていくように感じられた。
いつしか、馬の綱を手放し、どこか、ぼんやりとした目で滝の飛沫へと近づいていく。
それは過去に見た幻影のように、霧のごとく霞んで、白く視界を覆った。
その白い雫の中に、笑い合って水遊びを楽しむ、二人の少年の姿が浮かび上がる。
「俺たちの……幻?」
彼の頭の中に、誰かがそう、囁くのが聞こえた。
青い髪に、鋭い目をして、気の強そうな笑顔で相手を抑え込んでいるのは、幼い自分だ。今から見れば、か細い体をしているが、それでも当時は必死に刀を振って鍛えていたことを思い出す。負けん気が強くて強情で、大人に馬鹿にされるのが大嫌いで、その反面、よく泣く子供だった。そのほとんどが、悔し涙だったな、と振り返る。
水中に抑えられても、魚のようにするりと抜けて、離れた所から勢いよく顔を出したのは、玲陽だ。
漆黒の髪に、純白の絹のような肌。
穢れを知らない、仙童のように美しい少年だ。
黒曜石のように煌めく瞳が見開かれ、満面の笑みに、悪戯っぽい表情を混ぜて、幸せそうに笑っている。
この滝壺は、夏の暑い日、毎日のように着物を脱ぎ捨てて飛び込んだ場所だ。
普段は他にも子供たちがいたが、時々、二人きりになると、そこは自分達だけの城だった。
底が深くて足がつかないが、恐怖心は全くなかった。
二人で潜っては、どちらが長く耐えられるか、競い合った。
勝敗など、どうでも良い、ただの戯れだ。
あまりに眩しく、純粋なその姿に、犀星の心は安らぎから次第と困惑へ変わっていく。やがて心中に、苦しい重たい塊が生まれていくのを感じる。
変わりすぎた自分達を、思い知らされる。
「なぜ、こんなものを見せる?」
犀星は、自分の頭の中に聞こえた声の主に問うた。
『そなたが望むからだ』
意外な答えが帰ってきた。
『永遠に、共に平和の中にいたかったのだろう?』
犀星は、自分達を待ち受ける未来も知らず、ただ幸せそうに遊ぶ幻影を眺めた。
あの頃が、一番幸せだったのかもしれない。
確かに、玲一族の玲陽への冷たい仕打ち、自分の出生…… 悩むことも、それなりにふさぎ込んでいた時もあった。それでも、今の毎日と比べれば……この後の年月と比べれば、幸せだったと言わざるを得ない。
『戻りたいか?』
「え?」
心を見透かされたようで、犀星は動じた。声は、静かに語りかけてくる。
『戻してやっても良い。あの頃のお前たちに』
「そんなこと、できるわけがない」
『私にはできる』
頭の中に響いていた声が、不意に耳元に変わる。
ゾッとして、犀星は体を硬直させた。
傀儡ではない。それより、もっと、強い、何か……
陽!
助けを求めるように、犀星は心の中で叫んだ。
『ずっと、時を止めてやっても良い』
心臓が期待に高鳴った。
もし、あの日々の中で、永遠に笑っていられたなら……
自分達が、引き裂かれることもなく、玲陽が陵辱されることもなく、時を重ね、やがて自然と相手を求めて、結ばれて……
そんな甘い幻想が、犀星の中で広がっていく。
誘惑の力は、理性で抑えるには、あまりに大きすぎる。
逃げきれない!
それでも、何かが、違う。間違っている。
根拠のない、言うなれば、偏見や固執にも似た、どうしようもない不安。
皮肉なことに、今はそれだけが、たった一つの希望に変わる。
『永遠に、純潔のまま、過ごすことを許そう』
声は、再度、犀星を誘った。
駄目だ…… たとえ、本当にそれが叶うのだとしても、ここで、自分一人で決断すべきことではない。
俺は、共に生きると決めた。
玲陽の同意無くして、自分は先へ進むことはしない。
逃げられるのか?
声の主の姿は相変わらず見えなかったが、すぐそばにいることは確かだった。
このままでは、負ける……どうにか、しなくては……
犀星は駆け出すと、水に飛び込んだ。
一瞬で幻は消え、耳をつんざく滝の音、そして、重たい水をまともに体に受けて、滝壺深くに沈められる。そこから、ふた呼吸前に進めば、滝の裏の洞窟だ。
自分が、何かあるたびに隠れて泣いた、あの洞窟だ。
犀星は必死に上に向かって泳いだ。
着物が水を吸って重たく、思うようにいかない。咄嗟に、彼は帯を解いて水中で着物を手放した。体が一気に楽に浮き上がる。
子供の頃は、なんでもなかったはずの滝潜りが、今は、恐怖と隣り合わせだった。
岩肌を這い上がり、呼吸を整えて見回す。
洞窟は、あの頃のままだ。自分がよく座っていた隅に這っていくと、当時と同じように、膝を抱えた。
声は、もう、聞こえない。
どっと、体から力が抜けていく。
懐かしい洞窟は、彼を守り、抱き止めてくれる母胎のようだ。
昔なら、隣に、陽がいてくれた。
そんなことを思いながら、犀星は滝に遮られた小さな洞窟でうとうととし始めた。
あの声は、誰だ?
そんなことを思いながら、一瞬、申し出に身を任せてしまえばよかったのかもしれない、と思いさえする。
だが、本能的に何かが、彼を引き戻した。
守ってくれたのは、この土地なのか。
滝の流れか。
それとも、また、別の何か……
懐かしき
故郷の土に
今立ちて
今宵覚ゆる
長き日の夢
(伯華)
犀星と別れた玲陽が、一人で訪れたのは、あろうことか、あの砦だった。
二度と、戻ることはないと思っていたこの場所……
玲陽は水の満たされた堀の手前で馬を降りると、石の積まれた塀と、跳ね上げらた木橋を見上げた。
自分が救い出されてから、およそ一年。
季節は変わっても、その景色は基本的に変化しない。
自分が子供の頃から、ずっと……
おそらく、はるか昔から、変わらず、ここに君臨し、玲家の汚名の砦として、存在し続けていたのだろう。
玲陽は注意深く、堀を覗き込んだ。
水深も流れもあるが、水は澄んでいる。
水底まで見通せる透明度で、キラキラと夏の日差しを照り返す。彼は着物を脱いで畳み、馬の鞍の荷物袋に丁寧に入れると、襦袢に裸足で、堀に入った。そのまま、流れに逆らいつつ、対岸に渡る。
岸にしがみついて這い上がると、案の定、白い襦袢が泥だらけだ。苦笑しながら、玲陽は跳ね橋を止めていた縄を解いた。体重をかけて、ゆっくりと下ろす。それでも、玲陽一人では支えきれず、一気に橋が対岸にぶつかり、馬が驚いていなないた。
「ごめんなさい!」
玲陽は、降ろした橋を渡って馬のもとに戻ると、興奮を鎮めてやる。
馬の手綱を引いて橋をとって返し、砦の入り口に立つ。
この跳ね橋は、砦の入り口を塞ぐ役割もしている。中へ入ろうとしたところで、馬が足を踏ん張って嫌がった。
玲陽はため息をついた。
「そうですよね。では、ここで待っていて下さい。少しで戻ります」
まるで人に話しかけるように、玲陽は言うと、手綱を門の鉤手に結えた。
奥から、滝の音が聞こえている。
犀星が起こした奇跡は、今も、砦に残されていた。
玲陽は、躊躇いながら、裸足で敷石を踏み、ゆっくりと庭に入った。
体が冷える。着物が水に濡れたためではない。ここの空気が、そうさせる。花は季節に関係なく開き、満開の芳香を漂わせていたが、それはどこか、生気のない作り物の世界のようだ。
時間が、止まっている。
玲陽は、そう、思った。その中で、ただ、水だけが流れ続けている。
玲陽が苦しみにさいなまれたあの小屋は、犀星によって焼き払われた。玲陽の目には、最後に自分を陵辱し、何が起きているかもわからぬうちに命を落とした、二人の男が、今でも、小屋があった場所に立ち尽くしているのが見える。だが、決して目を合わせることはしない。
こちらが気づいたことを悟れば、向こうも近づいてくる。だが、自分には、何もできない。
関わってはいけない。
玲陽は、男たちの立つ小屋の跡地までは行かず、その手前の、犀星と再会した滝の前で立ち止まった。
自分がここへ幽閉されるとき、母から言われた言葉を思い出す。
『滝の水は、必ず毎日浴びるように』
その言葉の意味は、時が経つほどに、玲陽にはよくわかった。
ただの水ではない。仙界より湧き出すと言われる、仙水。
この滝は、台地の上から流れ落ちているが、その水源は禁足地とされ、玲陽も訪れたことはない。玲陽の背丈の三倍ほど、白華の滝に比べれば、問題にならない落差と水量。それでも、水を浴びながら、玲陽は時々、滝の向こうに、あの懐かしい洞窟があり、幼い日の犀星が、膝を抱えて泣いているのではないか、という思いに駆られたものだ。
玲陽は襦袢のまま、水の流れに入ると、滝までゆっくりと歩いた。
こうしていると、この砦で過ごした日々を思い出す。
地獄だったのかもしれない。
だが、全てが過ぎれば、懐かしささえ覚える。
この滝も、池も、水路も、石畳も、花も木も虫も、全て、自分と一身であるかのように、感じられた日々。
自分が守り続けた、小さな世界。
「ただいま、戻りました」
玲陽は、滝を見上げて、優しく微笑んだ。
一度は枯れた滝の水も、今はあの頃のように、清い流れを惜しげもなく生み出している。
玲陽はそっと手を伸ばして、滝の流れに手を差し入れた。
傷だらけの自分を、包むように癒してくれたこの仙水は、冬でもなぜか、暖かく感じられた。
暖をとる火さえ無い、この砦で、何度も過ごした冬も、玲陽は苦しいとは思わなかった。
そうだ。
玲陽はここで、人に絶望し、同時に何かを諦めた。
そしてそれと引き換えに、人ならざるモノを慈しむ心を教えられた。
万物に平等に訪れる、生と死の巡り合わせ。
自然と自分との一体感。
全てが移ろい、変化することのさだめ。
時のことわり。
今の自分につながる大切なものを、この場所で、この水から、土から、花から学んだ。
「無駄ではありませんでした」
玲陽は、また一歩、滝に近づいた。
「私はここで、命の何たるか、己の何たるかを教えられました。あの日々は、私の中で、形を変えて、今も大切な記憶として残っています」
玲陽は着付け紐を解いて、襦袢を脱ぐと、そばの石の上に置いた。あの頃と同じように……
「私は、変わりましたか?」
また一歩、滝に寄り、首を垂れる。前髪に、滝の飛沫が触れた。
「あなたたちには、今の私はどう、見えているのでしょう」
玲陽は滝の水を素直にその両肩で受けた。
「懐かしい……」
犀星にさえ、見せたことのない、涙。
玲陽は、滝の水で洗われる心地よさに、目を閉じた。
外の音は、何も聞こえない。
自分を打つ、水音だけが響き渡る。
余計な雑踏はここにはない。
聞きたくもない騒がしい声も、罵り合う言葉も、誰かの悲鳴も、遠い世界。
私だけの世界。
玲陽はうっすらと微笑んでいた。
「お礼を、言いに来たんです」
誰にともなく、彼は呟く。いや、その相手は人ではないのかもしれない。
「ここを立ち去った時は、そんな余裕などありませんでしたから……」
滝の音にかき消されて、その声は誰にも聞こえはしない。
「私を、守ってくれて、ありがとうございました」
抑えきれない思いが、玲陽の涙となってとめどなく溢れたが、全てを滝がさらっていく。
こんなにも、自分は愛されていた。
玲陽は、滝の重さと、その高まる音を感じながら思った。
ただ、傷つけられるだけの日々だと、あの頃は思っていた。
だが、今ならばわかるのだ。
その中にあって、人ではないものが、自分の味方であったこと。
人よりも、自分に近い存在が、確かに自分を守ってくれていたこと。
自分が守った世界は、同時に、自分を守ってくれた、最後の心の砦だった。
玲陽の涙が、滝の水に混じるたびに、その水で命を繋いでいた花々が、次々と枯れてゆく。
止まっていた時間が動き出し、花は萎れ、同時に、花弁の付け根が膨らんで、種子が育つ。
玲陽は、誰かに呼ばれたかのように、そんな花たちを振り返った。
玲陽への贈り物のように、花たちが、その種子を差し出している。
誰に言われたわけでもなく、彼には、花たちの、植物の心さえ、感じられる。
「ありがとうございます」
玲陽は丁寧に、花の間を巡り歩き、少しずつ、種子を集めた。
「この命を、慈しんで育てます。あなたたちが、私にしてくれたように」
彼の言葉に応じて、風が枯れた花びらを舞い散らし、水面を覆う。
色鮮やかな花吹雪ではないが、玲陽には、命を全うした花たちの姿は、美しかった。
若き日に
見えし景色と
変わりしか
ただ変わらずや
君や尊し
(光理)
玲陽は種子を胸に抱いて、砦を後にした。
もう、ここに来ることはないだろう。
門を出て、着物を身につけ、跳ね橋を渡り……
後ろ髪引かれる想い。だが、自分は過去を振り返ってはいられない。
託された命は、未来に芽吹く。
その未来を、自分は切り拓かねばならない。
玲陽は、遠ざかる滝の音に背中を押され、犀家への道を急いだ。
まだ日は高いが、犀星より先に戻って出迎え、心配性の兄を安心させてやりたい。
白華の滝から流れる川が見えてくる。その橋を渡ろうとしたとき、橋桁に何かが絡みついていることに、玲陽は気づいた。
「あれ……?」
馬を降りて、橋の下を覗きこみ、手を伸ばして拾い上げた。
水を吸ってずっしりと重くなったそれを広げ、サッと血の気が失せる。
見覚えのある、白と黒の着物だ。自分のものと色が反転した、揃いの着物……犀星のものに間違いない。
「上流から流れてきた?」
勝手知ったるこの場所で、犀星が命を落とすとは考えられないが、明らかに、何かあったことを示している。
「兄様!」
玲陽は馬首を転じて、川上へと走らせた。
行手に、主人のいない馬が見える。
犀星の馬だ。
その向こうは、白華の滝の轟音が響く滝壺である。
「まさか?」
着衣のまま、滝に入るとは考えにくい。
だが、犀星に限って、溺れるようなこともないと信じたい。
「兄様!」
声を高めて呼びかけたが、滝の音でどこまで聞こえているかはわからなかった。返答はない。
玲陽は鞍を降りると、二頭まとめて手綱を引きつつ、滝壺の方へと向かった。
と、少し行ったところで、馬が立ち止まる。グッと引き戻された綱に、玲陽は振り返った。
二頭とも、滝の方を見たまま、動こうとしない。
「何か、いるんですか?」
玲陽は問いかけたが、馬たちはただ、それ以上は行かない、と静かに告げている。
馬たちが警戒するとなると、生けるものではないだろう。
「わかりました」
玲陽は手綱を手放し、一人で先に進んだ。
が、数歩歩いて、彼も足を止めた。
いつからそこにいたのかわからない。
自分が気づかなかっただけなのか、それとも、今、突然現れたのか。
滝壺のほとりに、背を丸めた男性が、こちらを見て立っている。
「あの……男の人を見ませんでしたか? 私に似た、群青の髪の人です」
玲陽は、そっと話しかけた。
老人のような風貌のその人物は、濁った目でこちらを見返してくる。
人のようでもあり、そうではないようでもある。
どちらにせよ、生きた普通の老人、というわけではなさそうだ。
無数の皺が刻まれた顔。その中で、玲陽は奇妙な特徴に気づいた。
右の頬に、傷がある。
皺と日焼けとでよくわからなかったが、かなり古い十字の傷跡……
まるで、涼景のような……
「まさか……」
玲陽は、ゴクリ、と唾を飲んだ。
「あなたは……」
自分を見つめる、老いた瞳。
変わり果てているとはいえ、その瞳には、見覚えがある。
薄い茶色の、強い意志の宿る瞳だ。
老人は、黙って滝壺を指差した。
その手も、すっかり老いて骨が浮いて見える。
「! 兄様?」
玲陽は滝と老人とを、交互に見た。
どうしたらいい?
どうしたら……
と、音もなく、老人の体が地面を滑って、こちらに近づいてくる。歩いているのではない。足を動かすことなく、そのままの姿勢でこちらに近づいてくる。
傀儡? いや、涼景なら生きているし、こんな姿であるはずがない。それに、傀儡なら他のものと区別がつく。では、コレは何だ?
玲陽が困惑しているすぐ横を、老人の姿が通り過ぎてゆく。
恐怖なのか、もっと別の感情なのか、玲陽は動けなかった。とにかく、自分は、未知なものに触れてしまった。それだけは確かだ。そしておそらく、犀星も……
玲陽は、通り過ぎて行った老人を顧みることはせず、滝壺に近づきながら、着物を脱ぎ、再び、襦袢姿になると、滝壺に飛び込んだ。
覚えている。この奥。
落ちてくる滝の水を背中に感じ、深みに沈められ、そこから、二つ大きく水をかく。流れに逆らわず、静かに浮かび上がると、目の前に、あの洞窟が待っていた。
膝を抱えて座り込んだ犀星と共に……
犀星たちと別れた涼景は、実家へと続く山道を前に、もう、随分長いこと、立ち尽くしていた。
こんなに長期間、留守にしたのは初めてだった。
もう、そこに、あの人はいない。
涼景は先ほどから、ずっと、そのことばかりを考えていた。
燕春と最後に過ごした時のことを、鮮明に思い出すことができる。
再会した燕春は、まるで全てを見透かしているかのように、涼景に肌を求めた。
あまりに切なく、真っ直ぐな彼女は、涼景の知る妹ではなかった。
あの夜、確かに燕春は『女』だった……
帰宅するたび、確実に成長していった燕春に、涼景は戸惑いを感じ、同時に自分の中の愛情が抑えきれなくなっていくことへの恐怖を覚えた。
屋敷に戻ることを躊躇うようになったのも、涼景の自制心ゆえのことであった。
時を空ければ、気持ちもおさまる。それを願って家には帰らずにいたが、燕春からの手紙は変わりなく手元に届き、その文面は一通ごとに更に熱を帯びて、自分への愛しさが赤裸々に綴られていた。
兄妹でさえ、なかったら!
もう、数え切れないほど、そんな祈りを繰り返してきた。
血縁であろうと、せめて、従兄妹ほども離れていれば、婚姻も珍しいことではない。
だが、自分達は両親を同じくする。最も濃い血で結ばれている。それは、変えようのない現実だ。
「春……」
涼景は退屈そうな馬のたてがみを撫でながら、幾度めかのため息を漏らした。
もう、いない。
涼景は、自分に言い聞かせた。
燕春は、もう、いないのだ。
そのことを確かめるため、自分の気持ちにけじめをつけるために、こうして故郷を訪ねた。
表向きは、両親の墓参りとしていたが、勘のいい犀星や玲陽には、気づかれているかもしれない。彼らは帰郷を伝えた自分に、同行する、と、その場で言い出した。
一人では行かせない、という心情が汲み取れた。
その気持ちはありがたかった。涼景の言葉以上に、理由を問い詰めることもせず、ただ、道中、自分を包み込むように、優しく接してくれた。傷だらけの涼景の心に、その思いはむずがゆく、そして心地よく滲み入った。
供も連れず、東雨や玲凛すら伴わず、たった三騎だけの里帰りは、久しく忘れていた自由を思い出させてくれる。
そして同時に、いやがおうにも蘇る、最後の夜、一夜の逢瀬の記憶……
燕春の香りたつ肌と、柔らかく絡みつく墨のような髪。逞しく鍛えられた涼景とは相反する、少女のような細い体を、彼は荒れ狂う葛藤の中で深く愛した。
交わす言葉もなく、名を呼ぶこともせず、灯りもない山中で、相手の熱だけを頼りに、呼吸と鼓動を聞いて、流れる汗と涙を感じ、互いの血を忘れるように、夢中で求めあった。
経験のない妹を、涼景は甘く導いた。自分自身が焼けるような高潮の中で、それでも妹を……愛する人を精一杯に庇い、いたわったつもりだ。
ただ、覚悟だけは燕春の方が勝っていたと、今でも思う。
後悔はしていない。
もし、あの夜がなければ、自分は生きていられなかった。
暁の光の中で見た、燕春の姿。身体は限界まで疲れ切っているはずなのに、あれほど幸せそうに微笑む彼女を、涼景は知らない。
自分との枕の思い出を胸に、旅立たせてやること。涼景にできたのは、それだけだ。
もう、手が届かないとわかっているからこそ、今の彼は素直に言葉にできる。
「愛している……」
呟きが、静かに揺れる草葉の音と重なる。
と、葉を揺らした風の通り道を辿るように、薄紅色の衣が横切った。
「!」
涼景が息を呑む。
こちらをちらり、と振り返って、薄紅の衣を纏った燕春が、山道を屋敷へと駆けていく。
「そんな……」
涼景は、馬を降りると、後を追った。
必死に走ったが、追いつくことはできない。病弱な燕春が、彼より素早く動けるはずなどない。いや、ここに燕春がいるはずはない!
涼景は、それが本当の妹ではないと知りつつも、目を離すことができなかった。
時折こちらを振り返りながら、ついておいで、と言わんばかりに、彼女は微笑んだ。
「春!」
悲鳴にも近い声が、無意識に涼景の喉をついて出た。
「待って!」
呼びかけにも、燕春の影は止まらない。
気づけば、目の前に、古く大きな門構えが見える。燕家の本家だ。
今は、管理する者もなく、ひっそりと静まっている。
「春!」
わずかに開いていた門から、中へと滑り込んだ燕春を追い、涼景も屋敷の敷地に駆け込んだ。
変わり果て、草の生い茂る前庭で立ち止まると、涼景はあたりを見回した。
自分の腰の高さまで伸びたススキの緑が、わずかな風に揺れる。
つい、数歩先を駆けていた燕春の姿はどこにもない。
「そんな……」
涼景は草の中に両膝をついた。
いるはずはない、と、わかっていたのに……
一瞬見えた幻は、涼景の鎮まり始めていた心を、再びかき乱した。
この荒れた屋敷には、もう、誰もいないのだ。
両親も、妹も、自分の居場所も、全てが廃墟の塵となった。
「俺は……」
ぽとぽとと、大粒の涙が滴った。
「春……」
涼景は、ゆっくりと立ち上がると、呼吸を整え、二度と鍵のかかることのない屋敷の扉を開いた。
扉の裏で、いつものように燕春が自分を待っているような気がする。
一瞬、姿が見えたように思えたが、それは自分の願望が見せた幻影にすぎない。
誰もいないこと。
いや、愛する人がいないことを確かめるため、ここに来た。
それなのに、自分はまだ、彼女の影を追い求めている。
もう、気持ちの整理がついたと思っていたというのに、この場所が、涼景の記憶を残酷に引き摺り出した。
外と同じ匂いのする屋敷の中は、どこか、涼景の知っている我が家とは違う家のようにも感じられる。
締め切られていた廊下の鎧戸を開けると、夏風が吹き込んできた。日差しは傾いて、夕暮れが近い。
涼景は一つひとつ、部屋を見て回った。できるだけ扉は開け放し、雨風にさらされるよう、放置する。こうしておけば、少しは早く、朽ち果てるだろう。
自分の手で、取り壊す気にはなれなかった。せめて、自然の流れに任せて、崩れ落ちるのを待つことしか、彼にはできなかった。
この屋敷で暮らした記憶は、涼景にはほとんど残されていない。
五歳の誕生日までここで育ったが、当時のことはおぼろげで、少しずつ失われていくようだ。
彼にとってここは、燕春の思い出と同一だった。
いつでも、燕春がいた場所。自分が自分の苦しみと、唯一の愛にさいなまれた場所……
屋敷の中庭に面した一つの区画は、涼景が燕春のために整えた部屋が並んでいる。
手前の部屋は、中央に囲炉裏をしつらえた茶室だ。
彼女を訪ねてくる客は、自分と玲凛だけだった。それでも、燕春は丁寧に茶器を手入れし、自分をもてなしてくれた。
幼いながら湯を沸かす燕春が危なっかしく覚えて、涼景はそっと彼女に手を添えて、茶を煎れるのを手伝った。
あの小さく柔らかな手の感触を、今でもはっきりと覚えている。数年後、その手をとり、指を絡めて睦みあう男女になろうとは、想像もしていないことだった。
いや、涼景が自分の気持ちに気づかなかったのに対し、燕春はあの頃から、よく言っていた。
『大人になったら、兄様の奥様にして下さいね』
年の離れた孤独な妹の、子どもらしい戯言だと、あの頃の涼景は軽く考えていた。
燕春がそう言うたびに、わかった、と気軽に答えていた自分が恨めしい。何もわかってなどいなかった。燕春は本気だった。それは、別れの時まで変わることなく、涼景だけを見つめ続けていた燕春のひたむきな想いだ。
フッと、涼景は忘れていた記憶が蘇った。
あれはいつだったか、自分が使い終わった茶器を、燕春が手に取り、自分が口をつけたふちに、愛しそうに口付けたことがあった。それを見ても、涼景は顔をそらしただけで、何も言えなかった。咎めることも、正すことも、ましてや同調することもできなかった。ただ、自分の顔が赤らんでいるような気がして、顔を背けたのだ。
それより前に、眠っていた燕春の唇に、興味本位で触れるだけの口付けをした自分には、彼女の気持ちが痛いほどわかった。そんな自分に、燕春の切なる行動を責めることなどできなかった。
涼景はその部屋の戸を全て開いた。
少しでも早く、この場所を消してしまいたい。
罪を隠すかのような罪悪感を覚えたが、彼はそれを振り払うように首を振った。
茶室の隣室は、書斎で、文机と書棚が置かれ、微かに香の匂いがした。
燕春が好んでいた、麝香だろう。
文机を見ると、その前に座って、一緒に書物を読んだことが思い出される。
小さかった燕春を脚の間に座らせ、後ろから抱き抱えるようにして、書物を読んで聞かせた。
涼景を真似て、難しい文章を意味もわからずに反芻する燕春の声が、すぐそばで聞こえるように感じられる。
今思えば、あまりに危うい接触だった。燕春は、涼景の体にぴたりと背中を預け、涼景もまた、彼女の肩に顎を乗せて、耳元で静かに音読していた。当初は、幼子にする当然の体勢でありながら、それはやがて、別の意味を持つようになる。
初めて、相手を異性として意識したのも、この部屋だった。
じっと、涼景の声に聞き入っていた燕春が、思い詰めたような目で、間近い兄の顔を見上げた。視線が重なり、気持ちが重なり、唇が重なる。そのまま、静かに、しだいと大胆に、二人は書物を取り落として、色香に侵食されていった。
涼景はふと、自分の唇に触れた。当時を思い出して、自分の指を甘く噛む。
すでに、あの時、未来は定められていたのかもしれない。
記憶を封じるように、涼景はまた、扉を開け放つと、次の部屋に向かった。
そこは、他の部屋よりも一回り広く、琴や着物が収められている。
埃除けの布を取り去ると、美しい螺鈿の細工がされた琴が、晩夏の日差しに煌めいて現れる。
手が小さかった燕春のために、一回り小ぶりの琴を用意した。自分には小さすぎて弾きにくかったが、二人で手を重ねて音を奏でるのは、幸福なひと時だった。恋心を自覚するようになるまでは……
壁には、燕春が縫っていた着物が、途中のまま掛けられている。
涼景のために、彼女はよく着物を縫い、送ってくれた。
ちょうど心臓に重なる襟の裏には、必ず『春』の文字の刺繍があった。
涼景も、手作りの簪や玉飾りを贈ったが、いつしか、春からの一方向の贈り物だけになった。
涼景が忙しかったせいではない。春を想って木を削ると、決まって、その刃で手首を切りつけたくなったためだ。
自分の感情を殺さなかった燕春に対し、涼景は大人の分別か、立場の問題か、恋に狂うことはできなかった。
兄であろうと、妹であろうと構わない。
燕春の苛烈なまでの愛情は、狂気と隣り合わせだった。涼景は、そんな妹が恐ろしく、同時に、それを喜ぶ自分が浅ましく、醜く、直視することができなくなっていた。
この部屋で、兄に贈る着物を素肌に羽織り、兄が触れるであろう場所に口付けし、恍惚に耽る燕春の姿を、涼景は知らない。
燕春にとって、涼景は人生の全てだった。都からもたらされる、暁将軍の活躍は、彼女を嫉妬させた。都中の誰もが涼景を見ているとき、自分はその愛しい相手に一目会うこともできず、声を聞くこともない。
年頃の娘に似合わず、燕春が都を嫌ったのは、愛する人を自分から奪った対象だったからかもしれない。
そんな燕春が、人生の大半を過ごしたのが、最後の部屋である。
寝台が一つ置かれただけの、一番狭い寝室だ。
燕春の一生のほとんどが、この寝台の上で過ぎていった。
生まれついて病弱で、一刻と起き上がっていられなかった。
何をするにも、休みながらゆっくりと、時間をかけた。
食も細く、ほとんど何も食べずに過ごす日も多かった。
無理に食べようとしても、吐き戻してしまう。
まるで、身体が生きることを拒んでいるかのように彼女は線が細く、いつ、命がついえてもおかしくないほど、生気がなかった。
涼景が帰っている間だけは、人が変わったように笑顔を見せ、はしゃいでいたが、それが過ぎると、反動のように床についた。
彼女に与えられた、僅かな生きる力は、全て涼景との時間に注がれた。
そんな身体の弱い妹のために、涼景は本来であれば不要だった医術を学んだ。だが、その知識は妹のためではなく、宮中の陰謀や、戦場で傷ついた兵士のために必要とされた。それが返って彼の名声を高め、燕春の焦燥を煽ったのは、皮肉な話である。
燕春が十三になる頃、涼景は家のことを任せていた侍女長から、とある相談を受けた。
燕春の体が、今後、出産に耐えられるものか医者に診せたい、というものだった。良家の娘であれば普通の習わしだったが、燕春は頑としてそれを拒んだ。侍女長が言うには、彼女は男女問わず、涼景以外の者に体に触れさせることを、決して認めないという。
涼景は散々悩んだ末、宮中の典医に教えを乞い、自分で燕春を診察した。
そして、それが決定的に、涼景の心を砕いた。
二人きりの寝室で、涼景は自分が妹を女として愛していることを、思い知らされた。どれほど、理性が否定しても、彼の肉体はあまりに正直に欲望を漲らせ、燕春もまた、診察の上で触れられる刺激に艶めいて身をよじった。
限界だった。
これ以上、自分は妹のそばにはいられない。
涼景は逃げるように、夜中に屋敷を出て、都に戻った。
それ以来、親族の会合や法事以外で、彼が燕家に戻ることはなかった。
心配させないよう、手紙のやり取りだけは続けたが、一通書き終えるのに、数日を要した。
心の乱れは文字の乱れにつながる。今更繕ったところで、燕春に自分の本心は知れてしまっている。それでも、兄としての最後の矜持だけは守りたかった。
勢いで情愛に堕ちかけたものの、最後の一線だけは、超えてはならない。
涼景はひたすらに耐え、燕春はひたすらに求めた。
どちらにとっても、苦しい恋に変わりはなかった。だが、終わらせたくても終わらせることはできない。死ぬまで……いや、どちらかが死んでも、この苦しみは一生続く。
命を捧げたい相手に出会いながら、それが双方の想いでありながら、自分達ではどうすることもできない、壁に阻まれる。
どちらも別々の鎖で繋がれ、互いに手を伸ばしても、紙一枚の距離が届かない辛さ。姿は見える。声も聞こえる。なのに、触れることは許されない。同じ愛を抱きながら、身を削られるように日々を過ごす中で、少しずつ、確実に、魂は疲弊していく。
全てを忘れるように、涼景は都での仕事に打ち込んだ。
全てを背負う覚悟で、燕春は最後まで愛に生きた。
涼景は、懐から、一通の手紙を取り出した。
『来世でも、あなたの妹に生まれます』
綴られた文字こそ儚かったが、燕春の強い心が滲んだ、一行だけの最後の手紙。
涼景は、じっと見つめ、想いを断ち切るように、唇を結ぶと、手紙を寝台に置くため、部屋に入ろうとした。
その時、突然、屋敷のそこかしこから、木を打つ音が響いてきた。
驚いて涼景は歩いてきた廊下を振り返った。
まるで、見えない誰かが、素早く動いているかのように、タン、タン、タン、と乾いた音を立てて、次々と開け放たれていた戸が閉められていく。
最後に、涼景の鼻先で、燕春の寝所の戸が、ぴしゃん、と閉まった。
呆気に取られながら、開けようと戸に手をかけたが、どんなに力を込めても、戸は動かなかった。
涼景は、思わず手紙に目を落とした。
『来世でも……』
そうだ。
来世で再び燕春と出逢ったら、ここで暮らそう。
今度こそ、逃げはしない。
そのためにも、自分はこの時代を変えなければならない。
誰もが、心穏やかに生きられる時代を作る。
安んじて眠れるように。
そのために、自分は身命を懸けて、生き抜くのだ。
燕春が自分への愛に生きた苦しみに比べれば、自分の苦悩など、ものの数ににも入らない。
「春……」
涼景は、手紙を懐に戻した。
「見ていてくれ」
戰場の
果てに見ゆるは
夕闇の
眠りし人の
身をぞ守らん
(仙水)
自分が進むべき道を、涼景は確かに胸に刻んだ。
もう、迷うことはない。
・
犀星が聞いた声。
玲陽が見た怪異。
涼景が出会った幻影。
それらは全て、何であったのか。
この時はまだ、誰もその答えを知らない。
ただ、後々の世に人々の伝えることには、それは歌仙に伝わる伝承、『仙如の出遊』であったのではないかということである。
