1
前夜


薄暗い山道を、三騎の軽快な馬蹄の音が横切っていく。
十年ぶりに見る景色と、次第に急がせる馬の蹄の音は、先頭をいく男の心音と重なり、手綱を握る手にさらに力を込めさせた。
馬の主は、かすかな月明かりの下でも、整った顔立ちだと察しがつく。色白の肌、この国では稀に見る印象的な深い蒼色の瞳と髪、透明感のある雰囲気をまとい、今、一心に夜道の行く先を見つめている。その目を縁取る長いまつげの隙間には、こみ上げてくるものが時折ちらと光った。それが向かい風によるものであるのか、それとも、感情に起因するのか、切羽詰まったこの状況下では、判断できない。
夜の山道は、馬で駆けるには危険すぎる。
それでも、三騎は速度を落とさず、細い獣道を縫っていく。
男の結い髪に刺した銀の歩揺が、鞍上の動きに合わせてせわしなく揺れ、そこに映る月明かりが砕けた氷のように煌めいた。
「若様!」
必死に男の後ろをついていく少年が叫んだ。年の頃は十七ほど、落ち着きのある男とは違い、すでに疲労困憊の色が見える。
少年は、手綱を握ってはいるものの、馬に翻弄され、振り落とされないよう、鞍にしがみつくだけで精一杯だ。
「危険です、若様! もっとゆっくり! この暗さでは……うわ!」
顔を掠めた枝に、少年はとっさに首をすくめた。
馬蹄の音にかき消されて、少年の訴えは先を行く男には聞こえていない。
「若様っ!」
少年はさらに声を上げた。それは訴えであるより、悲鳴に近い。
「危ないですから!」
風と馬の足音の隙間で、男は少年の声を聞き取った。
「心配ない。よく知る道だ」
全神経を前方に向けている男は、振り返ることもなく答えた。
「よく知る道って……獣道じゃないですか! しかも、最後に通ったのは、十年も前なんでしょう?」
少年の悲痛な声を、男は全く意に介さず、馬を緩めることはない。
「無駄だ、|東雨《とうう》。|星《せい》が止まるもんか」
最後尾の長身の男が、東雨と呼ばれた少年に馬を寄せてくる。更に器用に馬を御して、少年を追い越し、星と呼ばれた先頭の青年の横につける。
「振り切った。ここからは俺が先導する!」
「頼む、|涼景《りょうけい》」
長身の男が、にやりと口元を緩める。
星と涼景、この二人には、どうやら地の利も体力もあるらしい。東雨少年だけが一人、歯を食いしばって息を切らしている。
いつ果てるともない時間をそうして耐え、東雨がついに根をあげそうになったころ、ようやく、先頭の涼景が馬足をゆるめた。
軽く息を弾ませた星が背後を振り返る。
どうにか落馬せずについてきた東雨をちらりと見て、さらにその後ろの闇を探る。
秋の気配が漂う月夜。
木の葉の擦れる音と、三頭の馬が鼻を鳴らしながら、ゆっくりと枯葉を踏みしめる音のほかは、気になる様子はないようだ。
熱くなった馬体を撫でて、星は大きく息を吐いた。涼景も、安堵したように額を拭った。
「ここからは問題ないだろう。山賊たちも引き離したな」
「さ、山賊!」
ぐったりと馬の首にもたれていた東雨が、呼吸を荒げたまま顔を上げ、息を飲んで涼景を見た。
「気がつかなかったのか? 追われていたから、無理を承知で突っ切った。こんな夜道で揉め事はごめんだからな」
「そんなの、聞いていないです。若様も気づいていたんですか?」
「ああ」
『若様』と呼ばれる碧眼の男、星こと、|犀星《さいせい》が、当然のような顔で答える。東雨は泣きそうに眉を寄せた。
「何で教えてくれなかったんですか?」
「教えてどうなる?」
涼景が軽く笑う。東雨が息を整えながら涼景を睨んだ。
「お二人とも、人が悪いですよ!」
「逆だな」
涼景こと、|燕涼景《えんりょうけい》は、ちらりと東雨を振り返った。
「お前を不要に怖がらせないための配慮だ。第一、一番道に慣れている俺が、しんがりについたことを、不思議に思わなかったのか?」
「そ、それは、特には……」
東雨はふと、涼景の鞍に吊り下げていた荷物の一つに、一本の矢が突き刺さっていることに気づいた。
「それ……もしかして、山賊の矢?」
「心配ない。この暗がりで射たところで、簡単に当たるものでもないさ」
涼景は矢を抜くと、脇の茂みの中へ放り捨てた。
「背後は任せておけ。それが俺の役目だからな」
「それはそれは。さすがは、燕将軍、頼りになります」
東雨は、一人だけ状況を理解できていなかったことへの不満からか、ふてくされたように礼を言う。その口調は明らかに無礼ではあるのだが、涼景はそのような瑣末を気にする性格ではないらしい。さっさと犀星へと目を転じた。
「星、俺はこのまま燕家に行くが、お前はどうする?」
「うん……俺も、一度、犀家に向かう。このような時分に押しかけても、玲家の不信を買うだけだから」
犀星の呼吸はすでに整っていたが、その口調は苦しげだった。
「涼景、明日、日の出と共に玲家へ行きたい」
犀星の声が低く震えた。
「すまないが、同行してもらえるか?」
「勿論だ。そのためにここまで来たんだからな」
犀星に反して、燕涼景の声は明るい。それは、犀星の不安を打ち消そうとするかのようだ。
「夜明けに犀家へ迎えに行く。俺が行くまで、勝手に動くなよ」
「……わかっている」
痛みをこらえるように、犀星は呟いた。潤んだその瞳から、明らかに涙が頬に流れた。月明かりの下、涼景はその軌跡に目を細める。幸福ではないその涙は、涼景のたくましい胸に刺さり、一瞬、苦しげな表情が浮かぶ。
犀星が声も立てずに泣く姿を、涼景は不思議と美しいと思う。美しく、そして、痛い。
「心配ない。明日、すべてうまくいくさ。焦るな」
つとめて、涼景は明るく繕った。犀星はじっと手元に視線を落とした。
「……そう願う……」
「星。お前は少し休め。不安な気持ちもわかるが、身体がもたないぞ。何日眠っていないと思っているんだ」
「…………」
東雨は涼景の反対側に馬を寄せて、深く沈んだ犀星の顔を覗いた。
山道はいつしか里につながるように開け、三騎が並んで歩めるほどに広くなっている。
「若様……」
遠慮がちに、東雨は呼びかけた。その声に、犀星は反応を示さない。
しばらく、馬蹄の音だけが、しんとした夜に響いた。
東雨はちらちらと二人を伺いながら、それ以上、声をかけることもできずに黙り込んだ。
犀星は、東雨の主人である。
そばに仕えて十年になるが、未だに、何を考えているのか、どこかつかみどころのない男だった。
東雨が抱く犀星の印象といえば、とにかく、無感情であるということだ。
笑うことは、まずない。声を荒げて怒ったところも見たことはない。常に静かで、口数は少なく、生真面目だ。そして、時々、一人で無言のまま、泣いている。涙の理由については、何も話してはくれないが、感情を押し殺す分だけ泣くのだ、と、東雨は勝手に納得していた。
感情を表さないとはいえ、犀星の有能ぶりは明らかだった。
大陸の南東部を支配する大国・|函《かん》の親王として、その政治手腕は群を抜いている。
また、武術、学問、芸能にも長けており、幼い頃から東雨はそのほとんどを、犀星から学んだ。
それに加え、生まれついての美貌は、十五歳で宮中に上がった当時から、周囲を魅了すると噂された。
黒髪と、黒や茶の瞳が多い地域において、犀星の容貌は珍しさからも目を引いた。瞳は、暗く深い藍色に近い。明るい場所では時折、碧玉のように煌めいた。夜の闇の中では、漆黒よりも深く闇を宿した。印象的なその眼と同様に、髪もまた、黒に近い濃紺で、絹糸のように艶やかである。一目見れば彼とわかる際立った特徴と、それらが調和して作る、常にどこか物憂げな影を湛えた表情が、見る者の心をいやがおうにも惹きつける。
犀星、|字《あざな》を|伯華《はくか》。感情を表さず、常に変わらぬその様子に、『|蒼氷《あお》の親王』とあだ名される、齢二十五になる美丈夫である。
同行する護衛、燕涼景は、字を仙水という。
函の都・|紅蘭《こうらん》において、一二を争う軍部の実力者だ。皇家の警備を任される近衛隊のうち、左右の片翼、右近衛隊隊長を任されている。若干二十九歳にして、その地位を得た彼の実力は、その武術もさることながら、周囲からの人望でも評価された証であった。皇帝からの信頼も厚く、年若ながら、周囲に彼を知らぬ者はない。
また、同時に都の駐屯軍である|暁隊《あかつきたい》隊長、そして、戦時下において皇帝の片腕を担う|幕環《ばくかん》将軍をも拝命している。
特に近年、第二皇位継承者である犀星の警護は、涼景率いる右近衛隊が一手に取り仕切っている。
そこには、涼景の優秀さだけではなく、涼景と犀星の関係性も大きく影響していた。もともと、犀星は人付き合いを得意とはしない。周囲に馴染むことも、遠慮することも、信頼することもない。
親王という立場上、政治的な謀略に巻き込まれる危険性も高く、そこから己の身を守るため、大変に慎重である。
そのような犀星であったから、涼景をそばに置くことには、特別な信頼を意味する。
この二人の付き合いは、東雨と同じく十年を数える。
人嫌いの気質を持つ犀星だが、涼景に対しては他の誰よりも心を許している、と、東雨も実感している。
その理由の一つとして、彼らが同郷の出であることも挙げられるかもしれない。
二人とも、函の南中部に位置する、|歌仙《かせん》地方の出身である。
犀星は母親が歌仙の旧家・玲一族の出であり、十五歳になるまで、歌仙地方で育てられた。
涼景が当主となる燕家もまた、歌仙の豪族の一つである。
二人が直接顔を合わせたのは、犀星が都に上がってからであるが、こうして帰郷するにあたり、涼景が自ら同行を申し出た背景には、そのようなつながりがあった。
本来であれば、犀星の警護や部下など、大人数での旅となるところだが、それは歌仙親王(犀星の号)の偏屈ぶりを如実に表し、こうして、たった三騎での帰郷となっている。
さらに状況を特殊化している要因に、犀星の病状があった。
ここ半年ほど、感情が不安定となり、気鬱を発し、特に人との関わりが難しくなっていたのである。ただでさえ苦手な上に、さらに輪をかけて、となれば、まさに取り付く島もない。誰が声をかけても、じっと黙り込み、応じようとはしなかった。
最近では生活そのものがままならず、食わず眠らずで、とても仕事が手につく状況ではなかった。そんな中での、かなり『訳あり』な帰郷なのだ。
東雨は、やれやれと溜息をついた。
幼い頃から犀星のそばにいる東雨にも、主人の気鬱の原因がよくわからない。
ただ、とにかく歌仙に帰りたい、ということ。そして、『|陽《よう》』という人物に会いたい、ということだけが、すべての情報だった。
馬を進めるうちに、道の分岐が見えてきた。目印らしい石の前で、彼らは馬を止めた。
「では、俺は燕家に顔を出してくる。星、行っていいな?」
黙って、犀星は頷いた。反して、東雨が怪訝な顔を涼景に向ける。
「涼景様、お言葉ですが、若様の護衛として、いらしたんでしょう? お役目を放り出していいんですか?」
「星本人が良いと言っているのだから、いいだろう?」
自分よりも身分のある犀星を、気安く呼び捨てて、涼景はわずかに笑った。この口調は、十年前から変わらない。
「ですが、涼景様!」
東雨は食い下がった。犀星と二人きりにされて、万が一、何か問題が起きたら、すべて、東雨の責任となってしまう。残念ながら、東雨の剣術の腕前は、涼景どころか、犀星にも遠く及ばない程度なのだ。
「東雨、大人の事情ってのがあるんだよ」
涼景は面倒くさそうに、
「たまには帰ってこい、と家の者がうるさくてな。一年ほど放っておいたんだが、そろそろ限界だ。どっちにしろ、いつかは顔を見せなきゃならなかった。ついでだ」
「ついで、って……」
「なぁに、一晩だけだ。いや、もう夜半を過ぎているから、数刻か。明日からはちゃんと警備に戻る」
「そんな……」
「東雨、お前の『若様』をしっかり守れよ。これでも大事な親王様だ」
「これでも、って失礼な!」
東雨は、不満もあらわに言い返した。
「あなたに言われなくてもわかっています! でも、俺はただの小間使いだから……」
「頼んだぞ」
「あ! 逃げないでください!」
東雨の訴えもむなしく、涼景は二人を残して別の方角へと馬を向けてしまう。
顔をしかめてその背中を見送り、東雨は恐る恐る犀星を振り返った。主人はわずかに目を伏せ、眠たげに草を食む乗馬を、じっと鞍上から眺めていた。まるで、道に迷った子供が立ち尽くしているような横顔である。
犀星には気付かれぬよう、東雨は一つ、深呼吸をした。この変わり者の親王の相手は、ただでさえ面倒だというのに、最近の気鬱の症状のせいで、余計に意思疎通が難しくなっているのだ。かろうじて、涼景と東雨は言葉をかわすことができたが、それとて、犀星の気分次第ではあっさりと閉ざされてしまう。
正直言って、もう嫌だ。
東雨は内心絶望に近い気持ちを抱えたまま、犀星の様子を伺いながら馬を寄せた。
「若様、犀家へ急ぎましょう。お屋敷では皆様がお待ちですよ」
「……ああ」
「どうしたんですか? 十年ぶりに故郷へ帰りたい、と言い出したのは若様じゃないですか。もうすぐですよ」
「……ああ……」
「ほら、急がないと、また山賊がきちゃうかもしれませんし」
「…………ああ」
ああ、ダメだ!
東雨はイライラする気持ちを押さえ込み、無理に引きつった笑顔を見せた。
元来、明るく快活な東雨にとって、この煮え切らない犀星との受け答えには、耐え難いものがある。
「さぁ、行きますよ」
東雨は犀星の馬の轡を軽く引いて、ゆっくりと馬を進めた。
「昔から多いんですか、山賊? ここら辺って、若様の犀家と、涼景様の燕家、それから、歌仙で一番歴史がある玲家の接する場所ですよね? 大家が集中しているのに、そんな物騒な状況が収まらないなんて、何だかもやもやします」
沈黙が苦手な東雨が、必死に多弁になる。
普段から口数の多くない犀星は返事をしなかったが、わずかに目線を上げた。
視界の隅で、主人が少しでも反応したことに、東雨は満足した。元来、この少年の気性は明快である。
「そもそも、この山は燕家の管轄でしょう? 涼景様は暁将軍なのだから、ご自身のご領地を守るために、一軍を割くこともできるでしょうに……自分の実家のためってのが私事でダメなら、若様のご実家の警護として、この一帯全部の治安維持ってことでも……」
「それでは、父上の面子が立たない」
やった!
東雨は、犀星がまともに返事をしたことが素直に嬉しく、パッと笑顔になる。
「そうか、自分の領地を管理できなくて、朝廷に頼った人、ってことになっちゃいますね? 確かに格好がつかないや。大人の事情ってやつ、なんだかまどろっこしいですねぇ」
「東雨」
「はい!」
「……無理に、話さなくていい」
「あ…………」
東雨の笑顔が凍りつく。
犀星は目を伏せると、
「だが、ありがとう」
「……若様……」
固まっていた東雨の笑顔が、ふっと悲しみの表情に変わる。
犀星は決して、薄情な男ではない。その胸の中には、想像もできない思いが渦巻いているように感じる。ただ、感情の制御が人より苦手なだけなのだ、と東雨は思う。だからこそ、よく涙を流すし、こうして、気持ちの浮き沈みに苦しむのだろう。
東雨は奥歯を噛んで、前を向いた。
遡ること、二十五年前。
犀星は、都、紅蘭で生を受けた。
父親は当時の皇帝、|蕭白《しょうはく》帝、母親は、歌仙の旧家である玲家の直系を継ぐ|玲心《れいしん》という美女であった。
玲心は犀星を生んだ直後、出産の障りで亡くなった。
犀星は、玲心の前の夫であり、国の忠臣でもあった|犀遠《さいえん》に預けられ、十五になるまで、犀家で育てられることとなった。本来、親王は母方の姓を名乗るため玲星の名が正しいのだが、そのような経緯で、彼は自然と犀の姓を用いるようになっていた。
犀家の当主、犀遠・字を|侶香《りょこう》は、男手一つで犀星を育て上げた好人物である。
東雨は面識がなかったが、かつては都で名を馳せた将軍であったと聞く。
犀星の複雑な出生や、その後の生い立ちについては、美しい歌仙親王にまつわる逸話として、都で知らぬ者はいない。
ぼんやりとそんなことがらを思い出していた東雨は、行く手に小さな篝火が揺れるのを見た。
「あの灯が、犀家の外門だ」
この旅では珍しく、犀星が先に声を発した。
山林を抜けた先の、切り立つ崖の上にその屋敷は静かに佇んでいた。
犀星にとって、屋敷は、十年ぶりに訪れる懐かしい我が家、のはずだった。
ただ、彼の心はそこにはなく、何か見えないものを探るように視線をさまよわせた。迎えに出てきた家人たちを直視することもできず、不安そうに周囲を警戒する。そうしながら、導かれるままに、屋敷の奥へと進んだ。
彼の視線は常にさまよい続け、庭の隅、廊下の曲がり角、開け放されたままの部屋、と、せわしなく動いた。
何かを必死に探しているようでもあり、所在なさを紛らわすようでもある。
彼の心の内は、家人たちにも計り知れなかった。
一緒に屋敷に入った東雨は、別棟に案内され、旅の疲れからすぐに寝台に潜り込んでいた。
犀星一人が、当主の間に案内される。
先帝の落胤であり、犀遠が愛情を込めて育てた若き親王は、犀家の家人たちにとっても、まさに誇りであった。
美しく毅然と成長した犀星の姿を、年老いた者たちは涙を浮かべて見守っていた。
子供の頃から、犀星の気性は扱いが難しかった。
それでも、心根の優しさ、判断の実直さ、そして、今ではすっかり見ることができない無邪気な笑顔は、家人たちにも分け隔てなく向けられ、誰もがこの美しい少年を愛した。
夜もふけ、通常であれば皆が寝静まっている時刻でありながら、犀星が帰宅するとの報に、皆がその帰りを待ち望んでいたのである。
しかし、当の犀星は、心ここに在らず、終始、落ち着かない表情を浮かべている。
彼にとって、この屋敷は、懐かしい我が家であると同時に、もう一つ、大きな思い出のある場所であった。
かつて、犀星はここで、従兄弟である|玲陽《れいよう》と共に育てられた。
犀星が心を病むほどに再会を望む玲陽の姿が、懐かしい屋敷の随所に見える気がして、彼の心はざわめいた。
犀星が都へ移ってから、玲陽は自分の生家である玲家へ戻ったと聞かされてはいたが、もしかすると、今夜、ここで自分を迎えてくれるかもしれない。
帰郷を知らせる書簡を玲陽宛に送ったが、それに対する返事はない。それでも、悪戯好きの玲陽が、こっそり隠れて見ているのではないか。そんな、淡く切ない期待が、犀星から生来の落ち着きを奪っていた。
犀星の願いむなしく、懐かしい姿を見つけられぬまま、犀星は一人、主人の部屋へ足を踏み入れた。
養父、犀遠の座する一室である。
長い道のりを駆け通した犀星の身なりは良いとは言えなかったが、彼を待ちわびていた父親は笑顔でその姿を迎え入れた。
「よく、お越しくださいました」
すだれを開けるや、犀星の前に恭しく進み出た犀遠は、記憶より少しやつれたように思われる。だが、肥沃な土地の領主らしからぬ粗末な着物のいでたちは、当時と変わることはない。常に慎ましく、質素に生きることを犀星に教えた犀遠の現状に、犀星はふっと正気を取り戻した。
かつて、父と共にここで過ごした頃の記憶が、瞬時に蘇る。
わずかの間、玲陽の面影が薄れ、目の前の犀遠を注視する。
犀星は、深い青色に煌めく目に、しっかりと養父を写した。喉の奥が、締め付けられるように痛む。
「長きにわたり、ご無沙汰致しましたこと、お許し願いたく存じます」
湧き上がる思いをこらえ、犀星は静かに挨拶を述べた。
犀遠は恐縮して身を屈めた。
「歌仙親王殿下、何を仰せられます。どうぞ、上座へ」
言いながら、犀遠は、部屋の奥の座を指した。それを見て、犀星の顔が曇る。
また、数多の記憶が犀星の脳裏を駆け巡る。
犀遠を父と慕い、尊敬し、過ごした少年時代がある。それは突然、親王として都に連れ戻される日をもって、断絶された。それまで、自分のことを我が子のように厳しく、優しく導いていた父が、突如として、自分の前に跪き、その立場が逆転した瞬間。その時の記憶は、犀星にとって今なお、受け入れ難い衝撃と悲しみをもたらす。
父は父であり、臣下ではない。彼の前で、自分は子であり、親王ではない。
そんな、犀遠への切なる思いは、今も、変わることなく彼の内にある。
「父上、わたくしは……」
犀星は息を詰まらせながら、
「わたくしは、親王として戻ったのではございません。一人の子として……あなたに育てられ、恩を受けた者として、ここにいるのです」
犀星は立ち尽くしたまま、顔を伏せた。
自分に膝をつく養父を、見たくはなかった。
犀星にとって、犀遠は常に父であり、仰ぎ見る存在である。宮中の者たちのように、歌仙親王に迎合する姿など、見るに堪えない。
「父上……約束下さったではありませんか。時が経とうと『我が子である』と……」
犀星の絞り出すような声に、犀遠は悲しそうにかすかに微笑み、目を逸らした。
「そのような戯言を、よもやお信じになられるとは」
「父上……」
「今や、都でその手腕を知らぬ者なき、歌仙親王様をお迎えするのです。礼を失することはできませぬ」
「何をおっしゃられますか!」
犀星の堪えていた悲しみが爆ぜる。
辛さと怒りのない混ざった瞳を上げると、その場に片膝をつき、犀遠を見据えた。その気迫に、思わず犀遠はひるみ、息を止める。犀星の美しく紅潮した頬と涙を湛えた眼差しは、犀遠ばかりではなく、部屋の端に控えていた家人たちをも飲み込んだ。
犀星の激しい胸の内を、その姿を見る誰もが強く感じとる。
「十年も親不孝をしたわたくしに、これ以上、父上をないがしろにせよと?」
犀星は声を震わせた。
「この犀伯華、そのような無礼者になれと、育てられた覚えはございませぬ! 上座に座れと仰せならば、ここで自刃するも良し!」
犀星が素早く右手に掴んだ腰の短刀の柄が、かちゃりと音を立てる。
犀遠を差し置いて上座に座るなど、ありえない。
そのように父を軽んずることは、犀星にとって、死よりも避けるに値する。
「おい、待て! 早まるな!」
犀星の迫力に、犀遠は慌てて叫んだ。目を見開いて、犀星は父を見た。
「全く、お前というやつは変わらんな。融通がきかん」
「父上?」
反応に窮して、犀星は刀に手を添えたまま、養父を見続ける。
犀遠は腕を組むと、鷹揚に犀星を見下ろした。
「都でちやほやされて、すっかり高飛車になって戻ってくるものと思ったが……変わらぬ」
何を言われているのか、犀星はしばし、理解できずにいた。
「これくらいのことで、自刃する? お前は昔から極端なのだ」
犀遠は、呆然としている犀星に近づくと、その前にしゃがみ、無遠慮に顔を覗き込んだ。口の端で、ニヤっと笑う。
「どうだ、星。驚いたか?」
「…………」
「どうした? 声も出ないか? わしの勝ちだ」
そう言うなり、犀遠の笑い声が部屋中に響く。その中で、犀星は何度か目を瞬いた。やがて、結んでいた唇を歪めつつ、顔を伏せた。
「父上……わ、わたくし……俺を、からかったんですか!」
安堵のためか、ぽろりと一雫、犀星の目から涙がこぼれた。
犀遠は意地悪く笑うと、自分より背の伸びた息子の頭を撫でた。
「十年分の親不孝の仕返しだ」
呆気に取られたまま、犀星はされるがままに首を垂れた。立てていた膝も崩れ、そのまま座り込む。
「父上……冗談が過ぎます。俺は本当に……」
「うん? お前、泣いているのか? 相変わらずだな。もう、子供ではあるまいに」
微笑むと、犀遠はそのまま、たくましくなった息子の肩を抱いた。幼児をあやすように、背中を優しく叩いてやると、押し殺した犀星の嗚咽と、体の震えが伝わってくる。
犀遠は目を細めた。
「星……よく、生きて戻ってくれた。都は地獄であったろう?」
その言葉に、犀星の緊張の糸が切れる。犀星は父に身を委ね、犀遠の目にも、静かに涙が溢れていた。
燕家の直系は、涼景とその妹の|春《しゅん》の二人きりである。
山林を中心とした領内は、決して豊かとは言えなかった。材木業を営むにも、木材を安定して他領へ運び出すことは困難だった。川の多い地域ではあったが、燕家の領内の川はそのほとんどが急流であり、水運として利用できるものもなかった。また、馬力に頼るには、丘陵が多すぎた。
狩猟を主に生活の糧としていたが、昨今の厳しい生活に耐えかねて若者が流出し、今はわずかな平地を耕し、細々と自給自足の暮らしを送る者が残るばかりである。
燕家の近親者たちは平野部へと移ったが、本家の屋敷は今でも、険しい山中にある。
先代領主は、長年守り続けてきたこの屋敷を離れることはなかった。涼景はそんな衰退の一途を辿る一族の嫡男として生を受けた。
その彼が、都の親族の元に預けられたのは、わずか五歳の頃である。
燕家の将来は目に見えている。周辺には、この土地を狙う友好関係の薄い領主たちもいる。たとえ領地を失ったとしても、涼景がその身を立てていけるよう、彼の父は、宮中へと息子を送り出したのである。
幼いながらに、涼景は自分の立場をよく理解していた。
学問も、武術も、周囲が目を見張るほどの才能を開花させた。
それは、彼の不断の努力によるものであった。宮廷内の者たちは、才知溢れる逸材として、彼を重宝した。
わずか十二歳で、内政官を任され、翌年には本人の希望で軍部へと移籍した。
知恵者であり、剣術にも優れ、また、生まれ持った優れた容姿は、瞬く間に都の人々を夢中にさせた。
若き英雄の誕生である。
涼景が十二を迎えた年、実家から彼を喜ばせる頼りが届いた。
病弱だった母が、第二子として、妹を産んだというものだった。
まずは祝いに、と、皇帝の許可を取り付け、涼景は懐かしい山中の屋敷へと飛んで帰った。
妹の誕生を喜ぶと同時に、涼景の心には、拭いがたい不安が生まれた。
男である自分でさえ、この家を出て、都の荒波の中で苦労に苦労を重ねなければならない時に、このか弱い女子が、いかにして幸せに生きることができるのだろうか。
涼景のその懸念は、わずか三年後、的中する。
山中での貧しい生活の中で、体の弱かった母が亡くなり、そのすぐ後に、父もまた、流行病であっけなくこの世を去った。
一人、山中の屋敷に残されたのは、まだ三つになったばかりの、幼い少女だけだった。
涼景は信頼できる自分の部下の中から、数人の侍女を選び出し、妹の世話を任せた。
毎月の仕送りも欠かさなかった。侍女たちには読み書きを教えるよう頼み、自らも簡単な文字で頻繁に手紙を送った。
そして、どれほど多忙でも、わずか数刻しか滞在できない時でも、彼は馬を駆って故郷へ帰り、妹と過ごす時間を大切にした。
春と名付けられたその少女は、兄の想いを知ってか知らずか、健やかに年を重ねていったが、母親譲りの病弱さだけは、どうしても改善する気配がなかった。
それでも、兄が戻ると、どんなに体調の悪い時でも、屋敷の奥から駆け出してきては、その身体に飛びついて、細い腕で涼景を抱きしめてくれた。
涼景にとって、燕春は心を許せる唯一の存在であると同時に、自分の生きる理由となっていった。
彼女を幸せにすることだけが、涼景の望みであり、涼景の笑顔だけが、燕春の喜びだった。
やがて、燕春にも、兄が置かれている厳しい立場がわかるようになると、その想いはより一層、増した。
山中の古い屋敷に、侍女と共に幽閉されているような生活でありながら、書を読み、兄に手紙を書き、詩を作り、着物を縫い上げた。
同い年の少女たちより身体は弱かったが、心の強さは比べようもないほど強く、そこに、兄に似た気質を感じ取らせた。
彼女は決して、涼景に負担をかけまいと、屋敷の中で静かに暮らし、贅沢は望まなかった。
犀星たちと別れた涼景は、より細い山道を馬の手綱を引いて注意深く上がり、切り開かれたわずかな土地に建つ屋敷へとたどり着いた。
豊かな領地を持つ犀家とは異なり、すっかり衰えた燕家である。迎えに出る者もない。
警備の兵が松明を掲げてくれる中、涼景は自ら馬小屋に馬を繋ぎ、鞍と轡を外して体を拭いてやり、水と草、わずかな塩を与えてから、軋む屋敷の扉を叩いた。
錠前が内側から下りている。帰宅することは伝えてあるが、大抵は待ちきれずに眠ってしまう侍女たちである。
昼間は山賊対策に地域の男たちを雇うこともあるが、涼景自身が、燕春のそばに男を近づけることを好まなかった。自分の目が行き届かない中、燕春の成長にどのような影響を与えるか知れない。
侍女長には信頼のおける人物を抜擢しているが、若い侍女たちが、山中での禁欲生活に耐えられるほど聖人であるとは、涼景も思ってはいない。宮中の泥沼の愛憎に、何度も巻き込まれてきた経験から、彼はその点に関しては神経質とも言えるほど、慎重だった。
かつての父の盟友であった犀遠が、そんな燕家の事情を配慮して、自分の私兵をさいて警護をになってくれていることは、涼景にとってもありがたく、安心につながった。
涼景の参謀を務めている|遜蓮章《そんれんしょう》からは、過保護すぎるとあきれられるが、それでも、涼景は方針を曲げなかった。
燕春を都に呼び寄せることを勧める者もあったが、彼には、どうしても、そうすることができない事情があった。それは決して、他者に知られてはならない、禁忌であると心得ている。
この世に、たった二人の兄と妹。そんな孤独がもたらした悲劇なのかもしれない。
涼景は、自分が妹を愛していることに気づいていた。
兄妹としての愛情とは程遠い、忘れがたく隠し難い思い。
それは涼景自身を困惑させ、怯えさせた。
妹の姿が都にあれば、その思いにすべてを乱されてしまう予感がして、涼景は燕春と距離を取ることを選んだのである。
そうではあっても、胸に巣食う情は消しがたく、いつまでも彼に重くのしかかる。
燕春が幼い頃は頻繁に行き来していた涼景だったが、己が心に気づいてしまってからは、自然と足が遠のいた。
近くにはいられない。
姿を見れば情が増す。
涼景は次第と帰郷を避け、気づけば一年の時が過ぎていた……
「涼景だ。誰かいるか?」
開かない扉の前で、彼はよく通る声で叫んだ。
と、がたり、と扉が内側から揺れた。
「|兄様《にいさま》!」
燕春の声だ。どうやら、扉に寄りかかって眠っていたらしい。
「今、開けます!」
手間取りながら閂を外す音がして、扉が押し開けられる。
「兄様!」
開いた扉の隙間から滑り出て、まだ閂を持ったままの燕春が、涼景を力いっぱい抱きしめた。
「お会いしたかった!」
すでに涙目になっている妹の髪を、涼景はそっと撫で付ける。素直に自分の胸にすがる燕春の無事を確かめるように、しっかりと腕に抱いて、しばし、涼景は目を閉じた。
ひた隠しにしてきた思いが、一瞬、涼景の思考を止めた。
細く暖かな妹の体は、無防備なままに、彼の腕の中にある。
しかし、だからなんだというのだ。
どんなに慕ってくれようと、燕春は妹として、兄である涼景を迎えただけのことなのだ。
涼景は自分自身にそう言い聞かせ、静かに一つ大きな息を吐くと、目を開いた。
今からは、良い兄を演じねばならない。身体を引くと、涼景は改めて燕春を見た。
一年ぶりのその笑顔は、一瞬で彼の決意を砕いてしまいそうなほど、眩しかった。
「こんなところで寝ていたら、風邪をひくぞ。もう、外は秋だ」
「でも、ここが一番早く、兄様に会える場所ですもの」
そう言って、にっこりと微笑む燕春の笑みに、涼景はつられて頬を緩めた。
兄様、か。
妹は、ただまっすぐに自分を慕ってくれている。その思いを、裏切ることはできない。
涼景はそっと、燕春の肩から手を放した。
「湯の支度をしてあります。どうぞ」
まるで、涼景の妻であるかのように、燕春は甲斐甲斐しく兄を案内した。
「春、少し、背が伸びたか?」
「一年で、そんなに変わりはしませんわ」
「そうか。心なしか、大人っぽく見える」
「嬉しい!」
無邪気に、燕春は手を叩いた。
「兄様にそう言っていただけると、苦労した甲斐があります」
「苦労? 何か不自由があったのか?」
心配して再度、燕春の顔を覗き込み、涼景ははっと息を飲んだ。
「お前……化粧を?」
「はい。侍女に習いました」
「そうか……だが、まだ、早くないか? お前にはまだ……」
「私も来月には十六歳になります。都なら、私くらいの娘は、もうお輿入れをしても良い年だと聞きましたわ」
「こ、輿入れ?!」
これが、敵を震え上がらせた函の将軍か、と思われぬほど、涼景は完全に度肝を抜かれた顔で立ち止まった。
「春が、輿入れ……?」
予想だにしていなかった言葉に、複雑な思いが胸を駆け巡る。そんな涼景の胸中を知るはずもなく、燕春はにっこりと笑った。
「好いた殿方と結ばれるのが、女の幸い、だと」
「それも侍女が言ったのか?」
「はい。私はもう、子供じゃありませんわ」
どくん、と胸が鳴る。
涼景はまるで、自分の体が自分ではないような浮遊感を味わいながら、思わず声を震わせた。
「好いた男が……いるのか?」
「はい」
都での涼景を知る者が見たら笑いを堪えきれないほど、完全に動揺している兄を、燕春は悪びれた様子もなく振り返った。惜しげもない笑顔で涼景を包みながら、
「私はずっと前から、決めておりますから。兄様も御存知のはず」
そう言うと、燕春は静かに真顔になり、目を細めて真っ直ぐに涼景を見上げた。
その目は、一瞬前とは別人のように冴え、笑みの消えた表情はどこか、恐ろしくさえある。
涼景は我知らず、燕春の表情を食い入るように見つめた。
涼景が動けないことを確かめるように、燕春はゆっくりと腕を伸ばすと、頬に指を添える。涼景は微動だにしない。
「私は、兄様と結ばれとうございます」
声は出ず、涼景はただ、まるで自分を殺す獣を見るような目で、妹を見つめ続ける。
『大きくなったら、兄様のお嫁様になるの』
燕春が何度も口にしていた言葉が、涼景の脳裏に浮かんだ。
子供の戯言。兄を慕う幼い妹なら、誰でも一度は口にする言葉だと、今まで気にも留めていなかった。
滅多に会えない自分を慕ってくれる、幼い妹のはずだった。成長と共に、自分から離れていくであろうことも、覚悟していた。そういうものなのだ、と自分に言い聞かせ、燕春と再会するたびに、そこに情愛を感じる己の心を殺してきた。
そんな涼景には、燕春の真っ直ぐな視線はあまりにも熱く、目を逸らすことができない。
まさか、妹もまた、本気で自分を思っている?
いや、ありえない。
「……俺をからかうな」
精一杯に、無理な作り笑いを浮かべた涼景の一瞬の隙をついて、燕春は涼景の首に腕を回して引き寄せると、紅をさした唇を寄せる。
涼景の体に、燕春の細い体がぴたりと重なる。涼景の腹の底で、本能の塊が音を立てて蠢いた。
化粧の香りが鼻先を掠めるのと、涼景が燕春を押し返すのは、同時だった。
「馬鹿な真似はよせ!」
普段は決して、燕春に大声を出すことのない涼景が、この時ばかりは冷静さを欠いて叫んだ。
数歩の距離をとって、二人の視線が激しくぶつかる。
妹のものとは思われない、ぎらりと光る眼差し。
自分の狂気が、いつしか、燕春までも毒に染めたか?
いや、これは、たちのよくない冗談に違いない。
うろたえた自分を見て、ころっと燕春が笑顔になり、笑い出すに違いない。
そして、悪夢にうなされたような頭の奥の熱と、胸の騒ぎも忘れられるに違いない。
だが、涼景の願いを、冷たい沈黙が封殺する。
圧倒的な感情の重さが、燕春の目の中にはあった。
決して、戯言ではない、真実の重さが、確かに感じられた。
先に目をそらしたのは、涼景の方であった。
「湯は使わせてもらう。お前はもう、休め」
かすれた声が、かろうじて喉を突いた。
「涼景」
足早に燕春の脇をすり抜けて、歩き出した涼景の背後で、燕春の声が強く響いた。
「私たち、もう、逃げられないの」
彼女の言葉は、涼景の胸に刺さり、ずっと隠してきた黒い欲望の風が、その傷口から噴き出そうと渦を巻く。
惹かれる思いを振り切るように廊下の向こうへ歩き去る涼景の背中を、燕春は無表情で見送る。そうしながら、彼女は己の腹に手を当てた。
兄に抱きついたとき、腹部に触れた硬い感触。
彼女はもう、子供ではない。