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歌仙詠物語11
絶世の舞光理の章)

 都に夏の気配が迫りつつある頃、人々の暮らしにも活気が溢れてくる。

 冬に厳しい日々を抱えるこの地域では、過ごしやすい夏季は多くの笑顔と賑わいに満たされる平穏な季節である。

 最も、歌仙親王の邸宅には、春先からやまない嵐が吹き荒れているのだが……

「また、余計なことをして!」

 東雨の怒鳴り声が、厨房から飛んできた。

 昼餉の食器を片づけるために廊下を歩いていた玲陽は、その声に表情を曇らせた。どこか呆れたようでもある。

「また、とは何よ! あんたが中途半端な管理をしているからでしょ!」

 東雨に言い返す大声は、妹のものだ。

「今から備えておかないと、夏の暑さで痛んでしまうんだから!」

「ここは歌仙より涼しいから大丈夫なんだよ!」

「そうやって油断して、兄様が食あたりでも起こしたらどうするのよ!」

「若様は多少腐っていたって、腹を壊したことはない!」

「陽兄様のことを言っているの! 昔から、味には敏感で繊細な人なんだから!」

「おい! それって、若様は鈍感だって言いたいのかよ!」

「あんたの作る食事を文句も言わないで食べてくれるんだから、無頓着なんじゃない?」

「何だよ、それ! 俺の飯が不味いって?」

「あら、知らなかった?」

 言い合いを続ける二人の横を抜けて、玲陽は黙って食器を洗い桶に入れると、水瓶から柄杓で桶に水を足し、つけ置きの準備をして、振り返る。

 玲陽が来たことにも気づかないのか、それどころではないのか、若い二人は睨み合ったままだ。

「だいたい、居候のくせに、態度がでかいんだよ!」

「あんただって同じじゃない!」

「俺は、若様の護衛だから、住み込んで当然なんだ!」

「私だって、兄様のこと、母上に頼まれてきているんだから!」

 東雨と玲凛が、顔を合わせればいつもこうである。いくら屋敷が広いとはいえ、一つ屋根の下であるから、いやがおうにも顔を合わせる。食事の際には犀星や玲陽が同席するため、さほど大ごとにはならないが、二人きりだとこれが日常である。

 玲陽は腕を組んで二人の様子を眺めた。

 限りなく不毛な争いだ。

 お互いに言いたいことを言い尽くすまでは終わらない。周囲にできることといえば、決闘沙汰にならないよう、どこかで仲裁に入ることだけだった。

「第一、護衛とか言うくせに、立ち回りもろくにできないじゃないの」

「それは、実践経験がないから……だから、今、涼景のところで経験を積んでるんじゃないかよ!」

「あ、また、呼び捨てて! 本当に礼儀がなっていないんだから」

「あいつはいいんだ!」

「そういう態度だから、星兄様もあんたを天輝殿には連れて行けないんじゃない?」

「そこまでです!」

 玲陽が、東雨の顔色が変わったのを見て、止めに入った。

「凛どの。兄様が手合わせしたい、とおっしゃっていました。庭に行ってください」

「星兄様が?」

 玲凛は、ぱっと表情を明るくした。剣術の稽古となれば、彼女は他のことなど歯牙にも掛けない。東雨との口論などは一瞬で忘れてしまう。

「…………」

 いつもなら不満の一つも言うところだが、今回は話題が話題であっただけに、東雨も何も言わずに玲凛を見送った。

「すみません、東雨どの」

 玲陽は、事情を知らない玲凛に代わって詫びた。

 東雨が、今さっきまでの勢いは何処へやら、沈んだ声で首を振った。

「陽様が謝ることはありません。凛だって、悪気はないってわかってます。ただ、知らないだけ」

 東雨は黙って食器を洗い始める。

 玲陽も、厨房横の食糧庫を覗いて、あれこれと食材を確認しながら、東雨の様子を盗み見た。

 黙り込んだ東雨の表情は暗い。

 忘れようとしているのか、東雨は体のことも、帝のことも口にはしない。

 不安は大きいだろうが、それを表に出すことはない。

 兄様に似てきたな。

 玲陽は、ふと、そんなことを思った。

 最近、東雨の言動に、少年の頃の犀星の影を見ることが増えてきた。

 それは、玲陽だからこそ、気づけるのかもしれない。

 犀星と東雨では、その気性はあまりに違う。

 犀星は人との交流を極端に嫌うが、東雨はそれを補うように社交的に振る舞う。

 感情を表さない犀星の心を代弁するように、東雨は喜怒哀楽を惜しみなく見せる。

 相反する主従だが、何事にも物怖じすることなく、真正面から向き合う姿勢だけは、まるで兄弟のように酷似していた。

 正確には、犀星と東雨は先帝を介して、叔父と甥の関係にあたる。

 しかし、そのような血筋などは二人にとって意味はないようだった。おそらく、意識したこともないだろう。

 血よりも、情で結ばれた二人の関係を、玲陽は尊いと思う。

 そして、その情の中で、東雨が知らず知らずのうちに、犀星の気質に影響を受けていることも確かだ。

 そんな東雨を、玲陽もまた、愛している。

 最初の頃は、犀星を支えてくれていた東雨に対する感謝が大きかったが、今はそれに加え、純粋にこの少年の幸せを願う気持ちが芽生えていた。

 幼い頃から苦しい思いをしてきた東雨に、どうしても我が身を重ねてしまうのだ。

「東雨どの?」

 玲陽は、唇を引き結んで、何かを堪えているような東雨の顔に耐えきれず、声をかけた。

「陽様」

 東雨は、手を止めると、玲陽を振り返りもせず、じっと空を見つめた。

「俺、大丈夫ですから」

​ とてもそうは見えない、と玲陽は思ったが、敢えて黙った。何を言ったところで、慰めにはならないと、玲陽は誰よりも知っている。

 玲陽は黙ったまま、東雨の後ろに立つと、背中からそっと腕を回して抱き寄せた。

 東雨は抵抗しなかった。胸の前に置かれた玲陽の手に触れようとして、自分の手が濡れていることに迷った東雨の手を、玲陽を自ら握り締めた。

 こうやって確かめると、東雨が小柄で華奢であることに、改めて気付かされる。

 玲凛と張り合う東雨が、どうしても彼女に勝てない原因の一つは、その体格だ。

 単純に腕力だけならば、年相応、男子である東雨の方が有利なのだが、元々彼は逞しい体躯ではない。

 幼少の頃から、犀星の相手をすることを求められてきた東雨は、女性的なしなやかさは備えたものの、肉体の鍛錬は控えるよう、養家から命じられていた。護衛として体力が欠かせない中、同時に肉体の柔らかさも必要とされた。

 結局、東雨の戦い方は乱暴になり、剣技に頼るより、いざとなれば自分の体を投げ出して犀星を敵刃から守ってきた。当然のように、彼の胸や腹には、幾つもの向こう傷が残っている。それらは全て、犀星が受けるはずであったものだ。

 それだけの想いで動いていた東雨が、帝よりも犀星を選んだのも、不思議ではなかった。

 間者という身でありながら、いつしか犀星に魅せられ、惹かれていた東雨の心境、そして、その犀星が自分よりも玲陽を選んだという現実、残された護衛という肩書きさえ、実力の違いで玲凛に取って代わられる不安。居場所を無くす恐怖が、明朗な東雨の心に影を落としているのは事実だった。

……陽……様……」

 東雨が遠慮がちに呼んだ。

「あの……痛いです」

「え?」

「ですから、その……そんなに強く……」

「あ……」

 無意識に力を込めていた腕を、玲陽は緩めた。

「すみません……」

 玲陽が体を離すと、東雨は自分の両腕で自らを抱いた。

「俺、そんなに危うく見えますか?」

「……はい」

 玲陽は視線をそらした。

 何度か、静かに深く呼吸を繰り返してから、東雨は玲陽を振り返ると、にこりと笑った。

「平気です! もう、陽様ったら、心配性なんだから。そういうところ、若様とそっくりです」

「東雨どの……」

「安心してください、陽様」

 玲陽は恐る恐る、顔を上げると、東雨のキラキラとよく輝く瞳を見つめた。

「俺は、壊れたりなんてしません。若様に大切にしてもらってきたと、知っていますから」

「…………」

「それに……今は、陽様もいらっしゃいます。涼景だって、今じゃいい師匠です。俺は一人じゃありません」

 そう、思いたいのだ。

 玲陽には、意地らしい東雨の笑顔が、泣き顔のよう思われた。自分の顔が曇ったようで、玲陽は所在なさげに視線を彷徨わせた。

「ああ、もう!」

 東雨は声を上げると、正面から玲陽に飛びついた。

「そんなに俺が心配ですか?」

「……はい」

「それなら、一つ、お願いを聞いてくれませんか? 俺が元気になれるように!」

「え?」

 近い距離で見つめられて、玲陽はどきりと胸が鳴る。

 その仕草は、悪戯を持ちかけてくる犀星と瓜二つだ。つまるところ、玲陽はこのような態度の相手に弱い。

 東雨は、わずかに照れた玲陽を、満足そうに目を細めて見つめ、満面の笑みを浮かべた。

 犀星の所作も、玲陽の弱点も、東雨はしっかりと見抜いている。

 人心掌握は、彼が生き抜く上で身につけてきた、最大の武器であった。

 大勢の都人たちがごった返す中を、東雨は玲陽の手を引いて、どんどん歩いていく。

 碁盤の目に区画整備された都の中でも、中央を貫く大通りから、一本、中路に入る。そこも、人が多く明るい喧騒に包まれていた。

 軒を連ねる店は、反物から装飾品、薬や日用品、湯殿に質屋に髪結、写本に鍛冶、と、多種多様で雑然としている。その間には大小の民家もあり、大通りに近い方が裕福な家が多かった。

 道が交差する十字路では、そこかしこで人が立ち話をしたり、大道芸人が投げ銭で客を集めている。

 東雨が玲陽を連れて行ったのは、一際門構えの立派な建物だった。

 看板には『演舞館・招楽』の名がある。

「こちらですか?」

「はい!」

 東雨は嬉しそうに、

「俺、ずっと見てみたかったんです。招楽座の舞台」

「確かに、この人出では、兄様は来たがりませんよね」

 玲陽は賑やかな人の波を他人事のように眺めた。

「若様はこういう所は苦手ですから、俺が頼んでも許してもらえなくて。陽様には、甘いですからね」

 東雨は屈託ない笑顔で玲陽を見た。

「陽様、ありがとうございます!」

「私も興味がありましたから」

 玲陽は二人分の木戸銭を払うと、席を探した。

「こういう所、初めてなんですが……」

「俺もです。あ、あそこ、空いてるのかな。すみません、通ります!」

 東雨は初めてとは思えない堂々とした足取りで、玲陽を引っ張っていく。

 本当に、怖いもの知らずなんだから。

 玲陽はまた、その背中に犀星と似た気風を感じて微笑んだ。

 子供の頃、自分の手を引いて、犀星もよく山深くに入った。しっかりと握られたその手だけを頼りに、自分は今まで生きてきた気がする。

 会いたいな。

 胸によぎる犀星の面影が、玲陽にため息をつかせた。

「陽様?」

 人声の中でもそれを聞きつけたのか、東雨が席に導きながら振り返った。

「疲れてしまいましたか?」

「いいえ」

 玲陽は首を振った。

「少し、兄様のことを考えていました」

「もう!」

 東雨は口を尖らせたが、不機嫌ではない。

「本当に、陽様は若様、若様は陽様のことしか考えてないんだから」

「東雨どのや、凛どののことも考えているつもりですが」

「比重が違いすぎます」

 東雨は並んで低い椅子に腰掛けた。

「でもね、それでいいんですよ」

 玲陽の手を放すと、膝の上で頬杖をつく。

「お二人は、それでいいんです」

「色恋にうつつを抜かして、民を蔑ろにするな、と、義父上……侶香様にも言われてきたのですが」

「いいじゃないですか、少しくらい」

 東雨は静かな笑顔で、他の観客たちを見回した。誰もが浮き立つ表情で、近くの者たちと世間話をし、また、所々でどっと笑い声が起こる。

「その『民』だって、こうして楽しんでいるんですし。それにね、陽様。都だけでも、これだけたくさんの人がいる。国中、異国にだって、数えきれないくらいの人が暮らしている。そんな中で、本当に偶然で、お二人は出会ったんです。出会っても、敵対することだってあるのに、相手を好きになった。しかも、その相手も自分を好きになった。これって、ものすごい確率だと思うんです」

「確かに……」

「だから、そんな奇跡みたいなこと、大切に大切にして、当然です。いや、大事にしない方が罰当たりですよ」

「東雨どのったら……」

 玲陽は、真剣にそんな話をする東雨が、急に大人びて見えた。

「今日の演目ね、そんな恋のお話なんです」

「え?」

 何も聞かされず、ただ、芝居小屋に行く許可を犀星に取り付けて欲しい、とだけ頼まれていた玲陽は、少々驚いて首を傾げた。東雨のことだから、てっきり、戦物の派手な演目なのかと思っていたが、意外な選択だった。

 何も知らない玲陽に、東雨はゆっくりと、

「舞台の底本は、昔話なんです。仙女と、人間の男性の恋のお話」

「仙女と……人間の……」

 玲陽は、スッと背筋が冷たくなった。

 それではまるで、玲家の始祖ではないか。だが、玲家の由来を知らない東雨にとって、それはただの物語だ。

「と、東雨どの、そのようなお話に興味があったんですか?」

「お話、というより、舞が見たくて」

「舞?」

「はい。近衛の皆が話していたんです。この舞台に出てくる舞が素晴らしいって。踊り手は男性なんですけど、すごく綺麗だって」

「それが、見たかったのですね」

「うーん」

 東雨は腕を組んだ。

「腹が立ったので!」

「え?」

 訳がわからない、と玲陽が困惑する。

「見事な舞を見たい、ということではないのですか?」

「違います」

 東雨の真意がわからず、疑問を抱えたままの玲陽だったが、さらに質問を重ねる間も無く、拍子木の音と共に舞台の幕が開いてしまう。

 間口八間ほどの舞台上には、色鮮やかな書き割りで野山と空、日の光が再現され、天井からは象徴的な小さな行燈が多数、吊り下げられていた。舞台面(ぶたいづら)に置かれたいくつもの明かりが灯され、客席の灯が消されると、そこは異世界へと変貌する。

 上手奥に楽隊が座り、音楽が鳴り始め、ざわめいていた客席が次第と静まっていく。

 玲陽と東雨は、生まれて初めてみる芝居に戸惑いながら、夢中で役者の動きを追い、台詞の一つ一つを噛み締めた。人間たちの質素な衣装に比べ、仙女のそれは艶やかで、別の世界からの来訪者であることを如実に語っている。所作ひとつとっても、それが流れるように美しく、小屋のうちに、うっとりとした空気が漂った。

 物語の終盤、仙女を想って男が舞う。東雨が気にしていた場面である。玲陽は、チラリと東雨の横顔を見た。

 食い入るように舞台上を見つめる東雨の目は、まるで、その全てを焼き付けようとしているかのようだ。

 男の舞は美しく、洗練されていた。そして、そこには真と思われる情愛が込められていた。

 芝居なのだから、全てが虚構。

 そうと知りながら、玲陽もまた、東雨と同じく見入っていた。

なす事の

儚き夢と

知りつつも

ひとつの舞に

命かけなん

(光理)

 

 帰り道、東雨は何かを考え込んでいるように、押し黙っていた。

 玲陽は玲陽で、自分の家の謂れと物語の筋を重ねながら、やはり、黙り込んでいた。

「ねぇ、陽様」

「はい?」

「どう思いました?」

 東雨が問いかける声があまりにも真に迫っていて、玲陽はじっと見返した。

「あの、舞ですよ」

「素晴らしかったと思いますが……」

 東雨は、厳しい目で先を見ながら、

「確かに、近衛隊でも評判になっていました」

「それで、東雨どのも楽しみにしていた……のではなかったんですよね?」

「俺は、楽しみに、というより……」

 東雨は、ひとつ、大きく息を吐き出した。

「やっぱり、若様の方が綺麗です」

「……はい?」

 あまりに思いがけない言葉に、玲陽の思考はさらに混乱した。

「あの、東雨どの、一体……」

「みんな、あの役者の舞を褒めていたんです。でも、俺は絶対に、若様の舞の方が、綺麗でゾクゾクする、って言ったんです。そしたら、口喧嘩になってしまって」

「…………」

「見たこともないのに、どうして若様の方が上手いって言えるのか、って言われて。それで、確かめたかったんです」

 玲陽は思わず、足を止めた。

「東雨どの、そんなことで近衛の皆さんと喧嘩を?」

「そんなことって!」

 東雨は玲陽を振り返って、頬を膨らませた。

「大切なことです! 俺にとっては、若様を馬鹿にされるなんて、許せないんです!」

「いえ、別に皆さんは馬鹿にしたわけでは……」

「同じです!」

 東雨は鼻を鳴らした。

「でも、今日、実際に見て、確信しました。やっぱり、若様の方がお綺麗です! 明日、みんなに言ってやらなきゃ……」

 綺麗かどうか、など主観なのだから、どうしようもない。

 これは、参ったな。

 玲陽は苦笑し、東雨の後を追った。

 どうやら、犀星に夢中なのは、自分だけではないようだ。

 多くの人々が生きる世界で、人と人が巡り合い、惹かれ合う奇跡。

 芝居ではない、虚構ではない、真実の愛の物語が、この世界には数限りなく溢れている。

​ 夢物語だと言われようとも、玲陽はそれを信じたかった。

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