新月の光
月なき夜に君は輝く
恵あかり 作・和歌 / 鳳空斗 画・企画
第十章 第一節
血と涙のゆく末
狂ったように叫び、犀星を呼び続ける玲陽を止めたのは、意外な人物だった。
「陽兄様! 離れて!」
旅姿のまま、荷解きもせぬ玲凛が、突然、部屋に駆け込んでくる。
「兄様が!」
突如現れた妹に驚く余裕もなく、玲陽は犀星を抱きしめて取り乱す。
「陽兄様、星兄様から離れて下さい! 邪魔です!」
「!」
玲陽は混乱したまま、玲凛に押しのけられた。
「……り、凛どの?」
「そんな憎しみにまみれた姿で、星兄様のそばに来ないで!」
玲凛に怒鳴られて、玲陽が目を見開いた。
自分の足元で、こちらに向けて苦しそうに腕を伸ばす傀儡の姿が、途方もなく恐ろしく感じられた。
玲凛は懐から手拭いを取り出し、犀星の傷口を強く圧迫しながら、匕首を引き抜いた。
じわり、と、手拭いに血が滲む。体重をかけて抑えながら、
「手当てを…… 用意して下さい! 急いで!」
「は、はい!」
玲陽が薬箱を取りに、部屋を駆け出していく。
「こんなことになっているなんて……星兄様……もっと、早く来るべきでした……」
玲凛は犀星と額を合わせた。
彼女の額にも、玲家の炎の刺青がある。
玲陽のような力は持たない普通の少女だが、誰よりも濃い、玲家の血を継いでいる。
「星兄様、受け取って下さい……」
玲凛は、自分から相手に力を与えることはできない。だが、犀星が望めば、彼の糧となることはできる。少なくとも、母、玲芳からはそう聞かされている。
「!」
犀星の傷から血が溢れ、気づけば手拭いで含みきれなくなった血液が、ぽたぽたと床に垂れていた。
「お願い、星兄様!」
玲凛は声に出して祈った。
今は、犀星の生きようとする意志に賭けるしかない。
「逝っては駄目……陽兄様を、一人にしないで……」
ふっと、犀星の息が戻る。
「……よ……う……」
「兄様……」
玲凛はそっと涙を浮かべた。
彼女にとって、犀星は実の兄も同然である。そして、誰よりも犀星と玲陽を近くで見続けてきた人間でもある。
互いに相手を想い合う心の強さを、玲凛はよく知っている。
額の紋章が焼けるように痛んだ。
同時に、全身から力が抜かれていくのを感じる。だが、それは犀星が生きようとしていることの証だった。
「星兄様……そうです。心を、取り戻して……」
初めての感覚に、玲凛は戸惑いながら、それでも精一杯に意識を保った。
犀星が求める力は、彼女の想像を越えて大きく、ともすれば、彼女の方が気を失いかねない危険をはらんでいる。
「大丈夫……」
犀星と自分とに言い聞かせる。
玲凛はこの場を乗り切ることに全力を注いだ。
玲陽が薬箱を手に戻ってくる。
「陽兄様、早く止血を……」
「はい!」
玲陽は動転して手を震わせながら、止血用の粉薬を取り出し、量も加減せずに犀星の傷口にあてがった。
「星! しっかりして下さい!」
「……しっかりするのは、陽兄様の方です」
「凛どの……」
「急所は外れています。おそらく、そこまで考えて刺したのだと思います」
「自分で?」
玲凛は悔しそうに押し黙った。
「どうして! 一体、何がどうなったのか……」
玲陽が哀れなほど狼狽えながら唇を噛んだ。チラリ、とそれを見て、玲凛は視線を逸らした。
「正確なことは、星兄様から聞くしかありません。ただ……」
玲凛は言いにくそうに、
「兄様たち、相当際どい関係なのではありませんか?」
「え?」
玲陽が、妹の言わんとすることを理解できずに問い返す。
「血を、交わしていませんか?」
「!」
玲陽が目を見開く。
「やはり、そうなんですね」
玲凛は犀星の傷を一通り手当てし、ため息をついた。
「おやめ下さい」
彼女は、玲陽に背中を向けたまま、厳しく言った。
「とにかく、今は、私の言うことを聞いて下さい。母上から、お二人を守るように、と言いつかって来ました。私の言葉は母上の言葉です」
「凛……どの」
「勘違いしないで下さい」
玲凛は、犀星の容体が安定していることを確かめてから、玲陽に向き直った。
「私は、兄様たちの味方です。だからこそ、危険な状況は作りたくありません。お二人が幸せに過ごすためにも、私の言うことを聞いて下さい。お願いです」
玲陽はじっと玲凛を見つめ返した。
彼女が賢く、そして、自分達を想ってくれていることを、玲陽は疑うつもりは無かった。だが、理由も知らされず、秘密にされることには納得がいかない。それが、犀星と自分に直接関わることであれば、なおさらだ。
「凛どの。あなたの言葉に従います。けれど、せめて、理由をお聞かせ願えませんか?」
玲凛は、兄たちとの再会を喜ぶ間も無く訪れた事故対応に、ため息をついた。
「今回のことと、関係があるかはわかりません。しかし、どちらにせよ、おやめ下さい。血を交わせば、一時的ですが、それだけ繋がりが深まります。陽兄様に影響はないかもしれません。けれど、星兄様は、陽兄様より力が弱いですから、それだけ、負担も大きくなります」
「負担?」
「はい。感情の負担です。陽兄様の感情や、力が大きく動いた時、星兄様にもその影響が出る可能性があります」
感情……
玲陽は、一瞬で血の気がひいた。
自分の感情が激しく乱れたのは、『若君』の話を聞いた時だ。もし、あの時に蘇った悪夢や、自分の中に生まれた憎しみを、犀星が受け取っていたのだとしたら……
その感情の中で、堪えきれずに……
玲陽は、自分の左脇腹を押さえた。
あの夜。
初めて、身体を陵辱されたあの夜だ。
意識が戻ったとき、自分は鋭く折れた木の枝で、自分の脇腹を突き刺した。
死ぬつもりだった。
結局、手元が狂って急所を突けず、命を取り留めた。
あまりに符合する、犀星の行動と自分の感情。
間違いない、と玲陽は荒れる心の内で思った。
自分が『若君』と共にあの夜の記憶を蘇らせた時、犀星の心にも何かが起きていたのだろう。
感情だけで、自分は犀星を死地に追いやったのだ。
怖い!
「やはり、あなたのそばにいるべきでした……一人の私は、こんなにも弱い……」
「陽兄様?」
血が飛び散った床に座り込み、玲陽は肩の間に首を落として嗚咽を噛み殺す。
玲陽の美しい髪の毛先が垂れ、床に溜まった犀星の血で赤く染まる。
玲陽の姿を見て、玲凛はそれ以上、言わなかった。
心当たりがあるのか……
玲凛は更に一つ、ため息を重ねた。彼女は、玲陽を見てすぐに、混沌とした憎しみが兄の周囲にまとわりついていることがわかった。視覚でも聴覚でもない、表現のできないものだったが、玲凛には確信があった。
この場は、自分がどうにかしなければならない。
迷っている余裕はなかった。犀星に力を吸われながら、玲凛は命の枯渇を感じた。これ以上与えれば、自分が死ぬ。そう思って、途中で額を離した。もし、そこで逃れなければ、動く力も失せて、死ぬまで全てを吸われたことだろう。
全身が重く、呼吸が辛い。それでも、犀星が目覚めるまでは……いや、玲陽が自分の心を落ち着かせるまでは、守り通さねばならない。
「星兄様の力が弱い、と言いましたけれど、それはあくまでも、陽兄様に比べて、ということです。あなたを超える人なんて、そう簡単にはいません。本来であれば、星兄様の力も、相当なものです。少なくとも、私の生命力なんて問題じゃありません。生まれついて、体色に異変が出るほどですから」
「…………」
「お覚悟があったはずです」
玲凛は静かに言った。
「お二人が愛し合う道が、どれほど困難であるか。それを覚悟の上で、歩むと決めたはず」
玲陽はそっと目を開けた。
「兄様、どうか、お気持ちを強くお持ちください。星兄様は、何一つ、諦めていません」
生きようとした、犀星の思い。
その根底には、玲陽の存在がある。
あの状況で、犀星は玲陽の名に反応した。
玲陽だけが、犀星の全てだ。
諸刃の剣であろうとも、犀星がその想いを手放すことは決してない。
玲凛には、はっきりとそれがわかっていた。
そして、それは玲陽についても同じだ。
玲陽には、犀星を傷つけることを恐れて、その気持ちを消し去ることは、もはやできない。
幼い頃から、気づけば犀星だけを見つめ続けてきた。
どんな時も、彼だけが、玲陽の全て……
「凛どの」
落ち着いた口調で、玲陽は顔をあげた。兄の、静かな笑みに、玲凛は緊張を解いた。
「あなたが来てくださったこと、心から感謝いたします。そして、あなたに会えて、嬉しいです」
「兄様……」
再会を喜ぶ間も無く、突然に命の瀬戸際に出くわした兄妹。
だが、その気持ちは互いに通じあっている。
玲陽は、玲凛の腕から、そっと犀星の身体を受け取った。
「私は、もう、大丈夫ですから……」
完全に、と言えば嘘になる。だが、犀星の息遣いをそばに感じていられる方が、玲陽は落ち着くことができる。
たった一つ、自分を、恐怖や絶望、深い憎しみから救い出してくれるのは、犀星だけだ。彼が執拗なまでに玲陽を案じていたのは、その心の脆さも、知っているからなのかもしれない。
あなたには、敵わない。
玲陽は、素直に認めて、犀星の身体を抱き上げ、傷を庇いながら、寝台に横たえた。
幸い、犀星の呼吸は整い、今は静かに眠っているだけだ。
玲陽は、先ほど玲凛がしていたように、額を合わせた。
玲陽には、犀星の力の状態がわかる。必要な量を、十分にあたえるだけの力もある。心さえ落ち着いていれば、玲凛を苦しめる必要はない。妹が相当な負担を負ったことは、明らかだった。
何もかも、私が弱いせいだ。
感情ではなく、冷静に、客観的に玲陽は考えた。
強くならなくては。
犀星の身に何かあった時にこそ、自分が誰よりもしっかりと、強くあらねばならない。
そうでなければ、永遠に大切な人を失ってしまう。
犀星を守る。
玲陽は、不意に胸に生まれたその言葉に、わずかながら驚きを感じた。
今まで、自分は犀星に守られること、その庇護のもとにいる存在であった。
いつしか、それが当然の居場所であり、自分は犀星を支えることはできても、それ以上に積極的に彼を守れる存在にはなれないだろう、と、どこかで線を引いていたように思われる。
違う、それではいけない。
玲陽は薄く目を開いた。
確かに、肉体的な衰えは、気持ちまで弱らせていたのかもしれない。
だが、これからは違う。変わって見せる。
犀星は、私が守る。自分をこれほどに想ってくれる相手と巡り合うことは、二度とない。
そして、自分がこれほど想える相手も、犀星をおいて他にはいない。
額から溶けていく。
犀星に力を与え、彼の中で二人の力が混ざり合い、溶け合って彼を生かす。
ほんの一瞬、そこに玲凛の片鱗が見えた気がして、玲陽の心にさざ波が走った。
嫉妬。
だが、それは自分への罰。
犀星を一人にしてしまった、自分への罰だ。
二度と、誰にも、この人に触れさせはしない。たとえそれが、信頼する妹であろうとも、だ。
二人の様子を一歩下がって見つめていた玲凛は、深く、ため息をついた。
よろよろと長椅子まで歩くと、ドサリと身体を投げ出す。
歌仙から馬で駆け通して、ようやく屋敷の場所を訪ね歩いて辿り着いた途端、この状況である。
湯が欲しいな……
そんなことを思いながら、十五歳になったばかりの娘は眠りに落ちていった。
犀星がまどろみの中で、手を伸ばし、玲陽の形を求める。
だが、冷たく冷えた敷布が広がるだけで、求める温もりには届かない。
ぞくり、と恐怖が湧いて、犀星は飛び起きた。激痛が脇腹を裂いたが、それよりも、孤独への恐怖が勝った。
深夜を回っているのか、外は静まり返り、月明かりすら感じられない。
「嫌だ……陽! どこだ!」
「……星?」
あっけなく、すぐそばから返事が返ってきた。
わずか数秒のことだと言うのに、犀星は全身に冷や汗をかいて震えていた。
「大丈夫です。ここにいますよ」
寝台に腰けかけた玲陽のかげが動くのが見える。玲陽の手が怯えた犀星の頬を撫でた。
「月を、見ていたんです」
「月?」
「ええ……」
物憂げに、玲陽は口籠った。
「もうすぐ、新月です」
玲陽は、苦しそうに胸を押さえた。
「私は、人じゃなくなる」
「…………」
「ごめんなさい。何もかも、あなたの言う通りでした。私は、愚かです」
「…………」
「私は、どうしようもなく、弱い。生きているのが不思議なほど、弱くて愚かです」
「……馬鹿だな」
「ええ、馬鹿ですよ。嫌になるくらいに……」
「違う」
犀星は手を伸ばすと、無造作に玲陽の腕を掴み、引き寄せた。逆らうこともなく、玲陽は犀星の上に体を重ねる。
「俺は、自分が馬鹿だって言ったんだ」
「兄様?」
「お前のことになると、本当に視野が狭くなる。昔から、成長しない。お前に甘えて、言わなくてもわかるだろう、と、言葉足らずで、傷つけてしまう……」
「兄様……」
「すまない。お前の気持ちを、もっと大切にしなければならないのに、俺はあまりに馬鹿で自分勝手だ……」
「違います」
玲陽は、犀星の頬に手を添えて、その眼に口付けた。
涙の、味がする。
「あなたは誰より、私をご存知です。私自身よりも……身の程知らずで至らなかったのは、私の方です」
「……だが、俺はお前を、束縛しようとした…… お前を閉じ込めたい訳ではない…… 自由に生きて欲しい。それなのに、俺は一方的に、お前を繋ぎ止めようとした。お前が、苦しく思っても、不思議はない」
「兄様、あなたは、ただ、私を守ろうとして下さっただけ…… それを理解できなかったのは、私が未熟だからです」
「そんなことは……!」
と、言いかけた犀星は、右目に感じた玲陽の熱い舌先の感触に、言葉を飲み込んだ。
瞼の隙間から、直接、眼球に温もりが触れる。
恐怖はなかった。胸から上に、えも言われぬ安堵感が満ちる。
「……あ……」
吐息が、犀星の感覚を玲陽に伝えた。
本当であれば、反射的に目を固く閉じるべきところを、犀星は逆に開いた。
当人にはわからないが、犀星の紺碧の虹彩を、玲陽の舌が何度も優しく撫でる。痛みよりも甘い刺激が上回り、犀星は我知らず、玲陽の首と頭に腕を回すと、その柔らかな髪を指に絡めた。
瞼への口付けは、時折、玲陽が戯れに見せていた行為だが、ここまで深く求められたことはなかった。
玲陽の舌がまつ毛をたどり、目頭から奥へと滑り込む。
されるに任せて、犀星は受け入れた。
瞼を甘く唇で噛まれると、額の奥に火が灯る。
これは、確かに愛撫だ。
決して、犀星を傷つけることはなく、しかし、同時に他者には決して許さない弱みを暴かれる。
「陽……」
小さく、犀星は名を呼んだ。
答える代わりに、玲陽は口を開き、犀星の右目を覆うと、その目を支配していく。
かすかな濡れた音が、犀星の聴覚に広がって、世界が遠のく。
「……もうすぐ、新月か……」
犀星は、玲陽に片目を預けたまま、もう片方の目で、欄間の外を見た。
この時刻、南の空に月は見えない。
玲陽は、月を見ていた、と言ったが、まだ、昇ってきてもいない。
月を、待っていた。
玲陽は、月を待っていたのだ。
自分が、人であることができる、証のような月を。
「人だろうが、無かろうが、お前はお前だ…… 俺のそばにいてくれ」
玲陽の首が動いて、頷くのがわかった。
玲陽が何者であろうと、自分が何者であろうと、この気持ちが消えることはない。
たとえ月が欠けようとも、恐れることがないように、自分は玲陽のそばを離れはしない。
犀星の想いは、熱い涙となって、玲陽の中へと静かに染み入っていった。