新月の光
月なき夜に君は輝く
恵あかり 作・和歌 / 鳳空斗 画・企画
第九章 第四節
初夜
自分は、どこにいる?
暗闇の中、何人かの低い男の声がする。
煙草の匂い、酒の匂い、それに、咳き込むような甘ったるい香の匂い。
確か、部屋で休んでいたところに、大勢が駆け込んできたような記憶がある。
玲芳が落ち着いた声で何かを指示するのが聞こえ、目を開けようとしたところを、目隠しされた。
口には、手拭いで猿轡がされ、頭が割れるほどに締められた。手首を背中で縛られ、膝と足首も束ねられて乱暴にくくられた。
「ん!!」
抵抗しようにも、あっという間に自由を奪われ、何が起きているのかさえわからず、ただ、その場に転がされていた。
「玲芳様、本当に良いのですね」
誰かが、彼女に話しかけるのが聞こえた。
「こうなってしまっては、選択の余地はありません」
玲芳が自分の頭を膝に乗せるのを感じる。
「陽、ごめんなさい。もう、私にもどうにもできないの。滝の水は、必ず毎日浴びるのよ。それだけが、あなたを守ってくれるわ」
それが、最後の言葉。
そして、腹に鈍痛を受け、意識は闇へと沈んでいった。
これはなんだ?
犀星は、ゆっくりと目を開いた。
目隠しは外されていたが、それ以外は、先ほどと同じ状態で、硬い木の床の上に転がされている。
あたりを見回してみたが、特に何もない、八間ほどの木造の小屋の中だ。
四隅に置かれた灯籠の灯りだけが頼りの、殺風景な場所……
ここは……
酒や煙草の匂いは、背後から漂ってくる。
男たちが何やら口々に笑い合っているが、言葉がはっきりとは聞こえず、ただの音としてしか届かない。
この感じ、以前にも…… 犀星は似たような経験を思い出した。確か、都に来てすぐの頃、のちに五亨庵を建てることになる空き地へと、涼景に案内されたことがあった。あの時も、自分は気を失って、不思議な夢を見たのだ。その場所であった、過去の出来事を、走馬灯のように……(歌仙詠物語『皇家の宴』)
だとすれば、これも同じように、昔の出来事なのか?
犀星は、縛られた体で、どうにか男たちを振り返った。
あれは、忘れもしない、玲陽の兄たちだ。いつも、玲陽を邪魔にし、自分も何度も殴られた。当然、犀星の気性から、やり返しはしたものの、年齢差、体格差でいつも負けてばかりだった。その度に、玲陽が傷の手当をしてくれた……
今では懐かしい、少年の日に、犀星はぼんやりと思いを馳せた。
だが、この状況はなんだ?
このような経験はしていない……
いや、先ほど、確か、玲芳の声が、自分を『陽』と呼んだ……
そうだ、やりとりが聞こえたのだ。
言葉の意味がわかったのだ。
犀星が以前体験した『過去を見る時間』の中では、そこに現れる人物の声は聞こえても、言葉の意味はわからなかった。だとしたら、今、自分が見ているもの、感じているものは、あの状態とは違うのか?
兄の一人が、自分が目を覚ましたことに気づいて、こちらに近づいてくる。
玲博だ。
顎が外れるほどに口を開かされ、口を塞ぐ手拭いとの隙間から、酒と粉薬を注ぎ込まれる。
むせ返りながら、どうにか飲み下すと、さらに、続けて大量に飲まされた。
ゆっくりと意識が混濁してゆく。景色が回転し、気分が悪い。
酒のせいか、薬のせいか、とにかく、体に力が入らず、頭もまともに働かない。
感情が鈍り、恐怖すら感じない。ただ、ひたすらに気だるい。
おかしい。
自分はこんなに、酒に弱くはない。
それに視界の隅で揺れる自分の髪は、薄い金色だ。見慣れた色……だが、これは、玲陽の髪だ。
まさか……
そうか……
そういうことか……
犀星は、自分が玲陽の記憶の中にいることを確信した。
これは、自分と別れた後の、玲陽の記憶。
途切れてはいるが、おそらく、あの砦に幽閉された時の記憶だろう。
そういえば、聞いたことがない。
玲陽は自分から、当時のことを話さなかった。犀星も、無理に聞き出そうとはしなかった。
それでも、想像はつく。
なぜ、こんな夢……いや、過去を見る?
見る?
違う。客観的に見ているのではない。思い出している感覚に近い。知りもしない玲陽の記憶を、自分が追体験している。
それなら、心配はない。
玲陽は、生きてこの砦から出られるのだから。
たとえ、どんな日々を過ごそうと、必ず、自分が……犀星が、助け出すのだから。
どうなるか不安なまま過ごした玲陽に比べれば、必ず助かると知っている自分は、未来が見えている分だけ、辛くはない。この先の時間がどれほどのものであろうと、結末を自分は知っている。
兄様が、必ず迎えにきてくれる……
ぐらり、と何か、歯車が回って、噛み合う感覚がした。
犀星の記憶が揺らぐ。
確か、迎えにきてくれる……はず。
いや、どうだった……?
きて欲しい……
忘れていく。
犀星は、自分の記憶と玲陽のそれとの狭間で、何か大切なものを無くしていくのを感じた。
追体験。
そうだ、この時の玲陽は、未来を知らない。
自分の身に、これから起きることを、何一つ知らない。
もし、犀星がその記憶を追体験するのだとしたら、自分が来るという未来も忘れて、玲陽が味わった恐怖のままに……
逃げなくては……ゆるゆると鈍った思考で、そんなことを考えた。
逃げる?
ここは、どこだ?
自分は、なぜ、こうしている?
兄たちの声はするが、危険なのか?
玲芳が言っていた、滝の水を浴びろ、とは……どういうことだ?
何が起きているのか、犀星には全く理解できなかった。
ただ、すぐには殺されないだろう、という、曖昧な期待だけを抱いている。
体は、自分の意志で動かすことができない。
逃げ出すどころか、立ち上がることさえできない。
縛られている縄が食い込んで、あちらこちらが酷く痛い。
動けないのに、痛覚は残っているのか。
何かがおかしい。全身が痛い。息をするだけで、気管がびりびりと痛む。
あの、粉薬のせいか……
時間と共に、その奇妙な感覚は、より一層強くなっていく。
これで終わりではない、と犀星は思った。
薬が効いてくる。まだ、ここから更に強く……
鼓動が早い。動いていないはずなのに、息が酷く苦しい。酒のせいだろうか。全てが、理解しがたい。
ただ一つ確かなことは、昨日とは、世界が一変したのだということ……
犀星……いや、自分は誰だった?
犀星……兄様……会いたい……
突然、誰かが髪を掴んで、自分を仰向けにした。
少し体勢を変えられただけで、全身がゾクゾクと震え、自身の体重で圧迫される背中に、味わったことのない感覚が走る。思わず叫びを上げそうになって、犀星は目を見開いた。光を感じるのに、輪郭がぼやけている。途端に、恐怖が襲ってくる。視力が極度に落ちて、景色が滲む。
「…………」
声がしたが、意味がわからない。
頭が働かない。
それなのに、皮膚感覚だけがあまりに鋭敏で、自分の鼓動でさえ、内側から全身を激しくさいなむ。
すでに『彼』は、自分の名前すら、思い出せなかった。
熱いものがかぶさってきて、頬に何かが触れた。
触られた皮膚から、全身へ、連なるように快感が走る。
生まれて初めての感触に、彼は悲鳴を上げた。
抵抗しようにも、自分の意志では指一本動かすことはできなかった。血管の中を駆け抜ける血の流れさえ、間断なく身体を震わせて、呼吸が絞り上げられるように息が詰まる。
苦しいはずなのに、その苦しみさえ、身体の芯を貫いて快感に変わる。
口から手拭いが外され、呼吸が楽になるか、と思ったのも束の間、味わったことのない感触が唇と舌に押し当てられた。ムッと鼻に抜ける独特の匂いに、彼は自分が性的な興奮を覚えていることに気付かされる。彼自身が、一気に弾けて、瞬時に目の前が真っ白になる。
全身が狂ったように痙攣し、涙が溢れた。
焼けるような肉の塊が、口腔を塞ぎ、喉奥を容赦なく突いてくる。息が止まり、体が痺れ、気が遠くなる。
死ぬ。
彼が、そう思ったとき、生臭いものが突然に喉に注ぎ込まれ、口の端から溢れ出した。
舌の上で脈を打つその肉は、緩慢として引き抜かれ、彼は咳き込みながら、白濁した精を吐き出した。
「上等だ」
誰かが、そう呟いたのが聞こえた気がした。
熱湯のように喉を焼いた精の一部が、吐ききれずに食道を伝い落ちる。そのねっとりとした感覚まで、今の彼にはまざまざと感じられて、気づいた時には自分自身が再び張り詰めて震えていることに愕然とする。
自分は、何をされている?
まさか、そんなことが……
どこかで理解しつつ、受け入れられないまま、彼は身悶えた。
感情とは裏腹に、身体は全てを快感に変換して脳を支配していく。
自分の身体が、自分の心を嬲り殺すかのようだ。
助けて欲しい! 助けなど、こなければいい!
相反する感情で、自分の本心すらわからない。
逃げ出したい! もっと、快感が欲しい!
ああ!
彼は見えない力に引きずり込まれるように、泥沼のような快楽へと沈んでいった。
「若君」
この身体は、すでに自分のものではない。
大切な人に捧げるために秘めていた想いと共に、何もかも砕かれた。
誰かが……そう、名も知らぬ、顔もわからぬ誰かの手によって、自分がずっと宝物のように抱いてきた純情は、ズタズタに引き裂かれた。
たった一人の、全てを投じて愛した人のための自分は、もう、どこにもいない。
こんなにも、ただ一人に向けられた愛しさが魂を焦がすというのに、身体は全く別の存在にいやおうなく支配されて、肉欲の虜となっていく。
身体中の皮膚が性感帯のように自分を翻弄し、自ら吐精したものが乾いて肌に張り付く。
すでに、絶頂の感覚はなく、壊れ始めた彼の肉体は、だらしなく精を垂らしながら、もっとも高く、そしてどん底でもある感覚の中に縛り付けられていた。
視野がはっきりとはしない中で、他の感覚が、より鋭敏となる。
無機質なものが、胸を打った。
本来なら、痛みを感じるはずの刺激が、そのまま快感として脳を焼いていく。
全身を打たれ、そのたびに、悲鳴の代わりに嬌声が口をついた。
自分の周りに、何人いるのかさえ、わからない。
ただ、息つく間もない快楽に溺れて、どれほど見苦しい姿体を晒しているか、それだけはぼんやりと感じていた。
蹴られ、踏みつけられ、時に刃のような冷たいものが肌を裂いた。
噴き出す血が流れ落ちる感触ですら、狂喜となって彼を追い詰めた。
このままでは、発狂する!
いや、すでにもう、壊れている……
そう思ったとき、今までにない感覚が脳天から爪先まで串刺しにした。
身体の中に、自分ではないものが入り込んでくる。
内部が激しくそれを拒んだのはわずか一瞬のこと、すぐにえぐられる感覚が彼の心を虜にする。
「ああっ!」
自分の声に、欲情を掻き立てらて、更に感覚が鋭さを増す。
「はぁっ! ああ! いいっ!」
自ら体を揺すって、彼は乞うようにのたうった。
生まれた時から渇望していた快感を、今、確かに与えられている。
それは幻想なのか、薬がもたらす錯覚か。
たとえそうであっても、構わない。
欲しい、もっと! もっと! 欲しい!
情欲に何もかも奪われて、彼はただ、淫らに全てを曝け出し、求めた。
逆らうことなど、もう、叶わなかった。
いや、考えられなかった。
自分を包む全ての世界が、わずらわしかった。
永遠に、ただ、この瞬間が永遠に続けばいい!
裂かれた後孔から鮮血が滴り、それを巻き込んで濡れた音が耳いっぱいに聞こえる。
腹の中がきつく締まり、はっきりと内部にあるものの形が感じられた。
こんなにも、甘美で逆らい難いものを、彼は知らなかった。
激しく不規則な律動に、限界を迎えていたはずの肉体が更に覚醒していく。
自分の中で膨れ上がり、一突きごとに肉襞を押し広げる圧力が高まっていく。
意志とは無関係に体が跳ねる。
大きな手が、彼を持ち上げ、より奥へと刺激が伝わってくる。
ああ、もう、ダメだ……
上も下もわからぬほど、彼はただ泣き叫び、同時に悦びに狂った。
いつしか声が枯れ、喉からは喘ぎ声しか発することはできなくなっていた。それでも、尚も求め続ける肉体は止まらない。
すでに吐き出すものもなく、それでも刺激だけは緩まずに彼を責め立てて、許しを請いながら同時に自分から腰を振る。
その姿に、すでに昨日までの、彼の面影は無かった。
肌と肌がぶつかり合う音が高まって、背中をつんざく快感に、彼はいき狂う以外に無かった。
どんなに体を乱暴に振り回されても、全てを受け入れてしまう今の彼は、人形と同じだ。
そこに心はなく、最後には完全に意識を失い、生理現象としての反応はあっても、それ以上、何も感じられないまま、うつろな目が宙を彷徨った。
腰を送り込まれるたびに、押し出されるように涙が双眸から溢れ、閉じることを忘れた唇から漏れる荒い息だけが、忙しなく時を刻む。
長い長い時間が、彼から、人としての誇りを、全てを奪った。
そして、全てを無くした彼に最後に与えられたものは、消えることのない、刻印だった。
焼かれた鉄ごてが押しつけられた痛みにさえ、彼は絶頂を迎えた。
薄れていく意識は、すでに全てを諦めているかのように、抵抗しなかった。
一夜にして、彼は全く別の存在へと変えられてしまった。
二度と、戻ることはできない、深く暗い穴の底へ堕とされ、見上げても出口ははるかに遠い。
その出口の向こうに、青白い星が一つ、輝いていた。
幻覚を見るように、彼は手を伸ばした。
この手を、掴んで欲しい……
傷だらけになった腕を、精一杯に空へ向ける。
お願い、助けて……
決して、届きはしないという絶望が流れ込んでくる。
彼の地獄は始まったばかりである。