新月の光
月なき夜に君は輝く
恵あかり 作・和歌 / 鳳空斗 画・企画
歌仙詠物語14
西廂の曲(仙水の章)
犀星の気迫は、腕っぷしの強い、荒事を生業とする男たちさえ、息を呑むほどだった。
明らかに自分より若く、線の細い犀星を相手に、男四人はひるんだ。
「話だと?」
指示役の男が、精一杯に威厳を保とうと、先頭に出た。
「お高く止まった貴人になんか、話すことはないね」
犀星は普段の、冴えた瞳で男を見据えた。どんな時、どんな相手でも、犀星が臆することはない。
慈圓は腰をさすりながら、立ち上がった。
「伯華様!」
「園、心配ない」
「ですが……」
慈圓は苦虫を噛み潰した顔で、男たちを見た。まともに話ができる相手だろうか。
「伯華?」
指示役が、慈圓の呼んだ名を捉えて問い返す。
「どこかで……」
言いながら、彼は犀星の髪と瞳をじっと見た。
「その稀有な色……まさか、あんた、歌仙か?」
呼び捨てられても、犀星は顔色一つ変えない。
「こりゃ驚いたな。その容姿、間違いねぇ」
男は面白そうに犀星に一歩近づいた。
「噂ってやつは、とかく誇張されがちだが、あんたの評判に嘘はないようだな」
「どんな噂かは知らないが、鵜呑みにするのは馬鹿だ」
犀星は堂々と男を見返し、視線で射抜く。
「自分の目で見たことだけが真実だ」
「なるほど、それがあんたのやり方か」
「そうだ。だから、俺自身、ここに直接来ている」
「何をする気だ?」
指示役は、いつしか犀星の調子に乗せられていることを薄々感じながら、それでも逃れきれなかった。
「ここには、世の中のクズしかいねぇ。人間の欲望を利用して生きる、汚ねぇ連中の吹き溜まりよ」
「汚い? 俺はそうは思わない」
犀星は本心から、そう答えた。
「ここで生きる者が汚いと言うなら、それを金で買いにくる奴らは、もっと最低だな」
「ほう?」
男は、犀星のおびえることを知らない態度に、いつしか興味をそそられたようだ。
「お前、名前は?」
「……洲(しゅう)」
「では、洲。尋ねるが、このあたりのことには詳しいのか?」
「詳しいのか、だと?」
男、洲は口元を歪めて笑った。
「生意気なことを聞くじゃないか? この一帯は俺たちの縄張りだ」
「この一帯というのは……」
犀星が慈圓を見る。慈圓は意図を察して、抱えていた風呂敷の包みから、一枚の地図を取り出し、犀星の方へ差し出した。それを受け取ると、犀星は広げて洲に見せた。
「具体的に、どのあたりだ?」
「はぁ?」
明らかに面食らって、洲は声を上げた。
「おい、俺たちは……」
「いいから答えろ。それとも、顔をきかせているってのは、ハッタリか?」
「テメェ……」
洲は地図を奪うと、おおよそのあたりをつけて折りたたんだ。
「この範囲だ」
表になった地域を確認して、犀星は頷いた。
「いいだろう」
地図を取り返すと、犀星はすたすたと表通りに戻っていく。
「おい! まだ見逃してなんかいねぇぞ!」
犀星は背後から飛んでくる洲の怒声など気にも止めず、地図と実際の街並みとを見比べている。
洲の部下たちは、あまりにも物怖じしない犀星の態度に、完全に牙を抜かれてしまった。
慈圓が首を振って、
「おぬしたち、悪いことは言わん。伯華様の話を聞け。おぬしたちにも、得になることだ」
「なんだ、老いぼれが!」
若い男が突っかかっていくのを、洲が制した。
「どういうことだ、ジジイ」
慈圓はまだジジイ呼ばわりされる年ではない、と心の中で憤慨しつつも、無言で犀星の方を目で示した。
「このあたりは、花街でも一番北寄りだな」
犀星は隣に近づいてきた洲をちらりと見た。
「ああ。それがどうした?」
「結論から言う。この街の治水工事を計画している」
「な、何だって?」
訝しげに洲は眉を寄せた。
「治水工事?」
「そうだ」
犀星は地図をたどりながら、
「この北の川から、直接、ここへ水を引きたい」
「…………」
「用水路を掘って、山からの一番水を引き入れる」
「あんた、本気か?」
「ああ」
あっさりと、犀星は頷いた。
「お前もここで生きているなら知っているだろうが、花街の水は最悪だ。地下水脈が都を先に通ってくるから、井戸水もほとんど出ない。都から水を買ってどうにか凌いでいるだろう?」
「それは、そうだが……」
「おかげで、慢性的な水不足だ。しかも、衛生面でも酷い環境だ」
犀星は地図を示して、
「この道に沿って、用水路を作る。水路の脇には柳を植えて地盤を固める」
「おい、街の中心に川を通すってのか?」
「そうだ。その方が、街中での水の管理もしやすいし、さらに水路を拡張するのにも便利だ。水路で区画を分ければ、火事の際の延焼防止にもなるし、水はそのまま消火に使える」
「…………」
「問題は、人手が必要だ、と言うことだ」
犀星はようやく地図から目を上げて、洲を見た。
「頼めるか?」
「え?」
「工事に関わる人員は現地調達する、という条件で、この計画を通した。もちろん、雇い賃は出す。金額は交渉に応じる。問題は金ではなく、それだけの人数を確保できるか、ってことだ。お前、顔がきくんだろう? どうなんだ?」
犀星の説明に圧倒されていた洲は、思わず、部下の男たちを振り返った。彼らも顔を見合わせて、突然の話に言葉もない。犀星はさらに続けた。
「これがうまくいけば、花街全体の利益になる。工事に関わる人間にも金が入るし、その結果作られる水路も、この街のものだ。その恩恵は街に暮らす全ての人々にもたらされる。もちろん、そのための税など取らない。初期投資は俺が出す。どうだ? お前たちにとって、損なことは何もないと思うが?」
「そ、それはそうだが……」
洲は明らかに、困惑していた。
何か気に入らないことをしていれば、どやしつけて追い返すつもりで、犀星たちを見張っていたというのに、このような展開になろうとは予想もしていないことであった。
「なぁ、歌仙さん、訊いてもいいか?」
「無論」
「どうして、こんなことをしようとする?」
洲の問いかけに、犀星は静かに答えた。
「ここが、都にとって、大切な場所だからだ」
「は?」
これまた、想像から外れた返答だった。
「あんた、何を言っているのかわかってんのか? ここは都の中でも掃き溜めだ。欲望を食い物にする街だ。真っ当に生きられない連中の巣窟だぞ。そんな所を整備しようなんざ、どうかしてるぜ?」
「お前、この街の人間なんだろう?」
犀星は、逆に問い返した。
「それなのに、ここの価値が全くわかっていないな」
「価値だと?」
「そうだ。お前が言うように、ここは肉欲の街だろう。だが、それを恥じる必要はない。この街は人を癒やす。生まれも立場も関係なく、平等に、だ。人にとって、誰かを愛し、愛される喜びは、生きるために必要不可欠なもの、まさに、水と同じだ。たとえそれが一夜の夢だろうとな。ここは『水源』なんだ。だから、この街から、俺は始めたいんだ」
犀星の思いの吐露に、真っ先に微笑したのは、他でもない、慈圓だ。
現実的に考えて、花街は決して、犀星が言った通りの愛の溢れる桃源郷ではない。そこには毒もあれば悪もある。犀星とて、そのことは百も承知だ。だが、それは宮中であろうと都であろうと、似たり寄ったりである。
そして、この地域は北の川に一番近く、最も治水工事に着手しやすい環境にある。
さらに、宮中の息がかかっておらず、勝手をしても、官職にある者たちに睨まれることもない。都や宮中で事を起こすより、まずは花街を先に行うのは、順序というものだった。
利点は他にもある。花街は多くの都の民も出入りする。そこが整備され、環境の良さが伝われば、自然と都の民も、自分達の住む地域に治水工事の手が入る事を望むようになる。都や宮中に犀星の事業を知らしめるための見本市でもあるのだ。
あらゆる可能性から、犀星はこの場所を選んでいた。
洲は、むぅ、と唸ったきり、腕を組んで地図を睨みつけていた。
「一つ、問題がある」
今までになく落ち着いた声で、洲が言った。
「街の性質上、ここは女の割合が高い。しかも、ほとんどが遊女だ。男も男娼は使えない。力仕事ができる奴らは、大抵、どこかの遊郭の用心棒で、人手が余っている訳ではない。都の知り合いや近隣の農村に手を回せば、それなりの数は集められるだろうが、外部から人を受け入れることになる。工事の間、その労働者を住まわせる土地は、ここにはない」
「それは、問題ない」
犀星は頷いた。
「ここは、何の街だ?」
「え?」
「宿泊できる店なら、いくらでもあるだろう?」
「だ、だが、それは貸宿で、商売をしている訳で……」
「宿は宿だ。寝泊まりはできる」
「しかし、無償で労働者を泊めさせる宿なんて……」
「誰が無償だと言った?」
「……まさか!」
「そうだ。宿ごと、借り受ける。金を払ってな。それなら、不満はないだろう? 住み込む労働者が、他の店の客にもなる。金はこの街に落ちる」
「あんた……」
「俺は、ここを変えたいだけだ。これで儲けるつもりはない」
洲は呆然として犀星を見た。そこには、先ほど突っかかってきた荒くれ者の気配はなかった。
「どうだ、力を貸してもらえるか、洲」
対等だ。
洲にはわかっていた。
犀星は決して、威圧的に進めるつもりはない。自分と対等に話をしているだけだ。
治水工事の知識と技術、そして先行投資の金を犀星が出す。
自分達は、その計画に乗り、人手を集めて束ねていく。
悪い話ではない。むしろ、信じられないような好機である。だが、洲はまだ、一つ、解せなかった。
「歌仙さんよ。あんた、どうして、そこまでするんだ? あんたには、何の特にもならないだろう?」
「なる」
犀星は隠すつもりもないらしく、正直に答えた。
「ここで結果を出せれば、これから先、都での工事もやりやすくなる。それに成功すれば、今度は周辺地域の農村にも手が出せる」
「農村、だと?」
「俺が最終的にやりたいのは、この一帯の農地改革だ」
犀星は、にやりと笑って見せた。
「俺が育った歌仙は、そのほとんどが山林と農地だ。俺には、その血が流れているんだ」
「……面白い!」
洲は、気に入った、と犀星の背中を叩いた。
「あんた、親王なんかやめちまえ」
「?」
「皇帝になりゃいい」
洲の大きな笑い声が、晴れて澄んだ花街の空に響いた。
犀星と慈圓が花街の門を出たのは、すっかり日が傾いた時分だった。
心地よい疲労と達成感で、二人は穏やかな表情を浮かべたまま、黙って街を後にした。
洲に案内され、花街の有力者の協力を取り付けることにも成功した彼らの今回の訪問は、首尾上々である。これからが正念場ではあるが、犀星にも慈圓にも、十分な手応えと勝算があった。
早く五亨庵に戻って、留守を任せている緑権たちを安心させてやりたい。
二人の足取りは軽かった。
と、門を抜けた往来に、人だかりができている。二人は顔を見合わせた。
高い女の怒鳴り声が、人山の中から聞こえてきた。
何か揉め事ならば、その場を素通りできないのが犀星の気性である。
慈圓は、事が大きくならないことを祈りながら、人だかりをかき分けていく犀星を追った。
「どうした?」
人の輪の中心に、都の辺境には似つかわしくない、華やかな装束の女が立っている。その足元には、少女がきちんと足を揃えて座り、項垂れていた。
「歌仙様!」
振り返った女は、趙姫である。
犀星の顔から感情が消えた。
「この娘がわたくしの行列の道を横切りましたので、罰を与えているところですわ」
犀星は、砂利の上に砂埃にまみれて座っている娘を見た。明である。
すでに趙姫の供の者たちに蹴られるなりしていたらしく、明は髪や顔まで土で汚れ、額を擦りむいて赤く血が滲んでいた。
「仮にも公儀の末席に身を置く者が、民に狼藉を働くなど何事ですかな」
慈圓が犀星の後ろからたしなめた。
犀星自身が叱責するより、彼が口にした方が、親王の名を汚さずに済む。
「しかも、道は全ての民のもの。それを横切ったとて、その娘に咎はありませんぞ」
「邪魔をしただけではございませんわ」
趙姫は気丈に慈圓を睨みつけた。
慈圓が宮中の人脈に通じていること、父である左相の趙然と不仲であることは、趙姫も知っていた。
「おかげで、供が親王様への贈り物を取り落としてしまいました。これは、歌仙様への冒涜も同じことです」
「私への冒涜を働いているのは、あなたの方だ」
犀星が、静かな、よく通る声で遮った。
成り行きを見守っていた都の老若男女たちは、両者の会話から、犀星の正体を知って振り返った。
明が、怯えた目で犀星を見る。泥で汚れたその顔に、幾筋も涙の跡があった。
犀星は早足で明によると、そのそばに片膝をついた。周囲からどよめきが上がる。
歌仙親王を見るのは初めて、という者たちばかりだが、親王自ら土に膝をつくなど、考えられないことであった。
明の唇の端に滲んでいた血を、犀星はそっと手を添え、自らの着物の袖で拭う。
「親王様……あたし……」
「もう、大丈夫だ」
犀星の囁きは明にしか聞こえなかった。彼女の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「まったく、とんだ災難ですわ」
趙姫が頭痛でもするかのように、額に手を当てた。
「こんないかがわしい所まで来たというのに……」
「いかがわしい、だと?」
犀星の眼差しに、ちらりと怒りが走った。そのまま、明を背に立ち上がると、趙姫を見据える。
趙姫は美しい眉を歪めた。
「歌仙様が、なにゆえ、このような場所に執着なさるのか。殿下のような方がお運びになる場所ではございません」
「あなたは、この街の価値を知らぬのに、どうしてそう、言い切れるのです?」
「歌仙様」
趙姫は口元を覆ったまま、
「花の街に、価値などございません」
明が、そばに立つ犀星の殺気を感じて、身を震わせた。
慈圓が素早く、犀星と趙姫の間に割って入る。
「貴姫様、ならば、なにゆえ、あなた様は価値なき場所にいらっしゃったのです?」
「無粋な……」
趙姫は妖艶に目を細めた。
「歌仙様がお出かけとお聞きし、労いの品をお届けに参りましたのですわ」
「ほう」
慈圓は、無言で犀星を押しとどめた。
「わしらの話を盗み聞きし、親王殿下の跡をつけた上、殿下が目をおかけになった街に価値が無いとまでおっしゃる。挙句に、殿下の贔屓の女性(にょしょう)に往来で恥をかかせるとは、どこが労いだとおっしゃられるのか、この老朴には、まこと、理解できぬことにござりまするな」
趙姫が明らかに不愉快を滲ませた目で、慈圓を見る。だが、彼女もこれ以上、五亨庵を敵に回す事が、犀星を手に入れるために得策ではないことを承知している。
「わかりました。どうやら、わたくしには、やはり下賤な方角は凶であったようです」
優雅に礼をすると、趙姫は踵を返して籠に戻る。
そのそばに、従者が一人、箱を捧げて近づいた。
「姫様、歌仙親王殿下への贈り物はいかがなさいますか?」
その一言が、趙姫の逆鱗に触れた。彼女は乱暴に箱を払い落とした。土の上に朱塗りの箱が叩きつけられ、蓋が飛んで、美しい花を象った砂糖菓子が散らばった。
「土に堕としたものを、歌仙様に献上できるわけがないでしょう! この恥知らず!」
一喝された従者が、その場に平伏する。
趙姫たちの行列が動き出すと、人々はざわめきながら道を開けた。
犀星の後ろに座り込んでいた明が、よろめいて立ち上がる。そのおぼつかない足元を支えるように、犀星はそっと手を貸した。
「明、お前、こんなに遠くまで、行商に来ているのか?」
「……うん」
明は俯いたまま、頷いた。
「花街はお得意さんなんです。みんな親切だし、金平糖を楽しみにしてるから」
「そうか」
犀星は明の体の土をほろってやりながら、
「お前は、あの街が好きか?」
「はい!」
パッと顔を上げて、明は思わず犀星に見とれた。
いつも、五亨庵の奥で黙々と仕事をしている犀星を見慣れているが、こうして近くで見ると、その美しさに胸が高鳴る。
「き、綺麗……」
「うん?」
「……あ、あの……綺麗な、曲」
「曲?」
「はい……」
明は誤魔化すように犀星から目をそらして、地面に撒かれた花の菓子を見た。
「お金、もらわない。その代わり、街の姐さんたちが、琴や琵琶を聞かせてくれるの。それが、とても綺麗」
「そうか」
犀星は、素朴な少女の姿を、目を細めて見守った。
誰ぞ知る
はるかな国の
その歌を
君に聞かせん
息のある間に
(仙水)
「いつか、親王様も、頼んでみてください。とても、優しい音がするから」
言いながら、明はこぼれた砂糖菓子を、丁寧に拾い集め、転がっていた箱に戻した。
「明?」
慈圓がそれを手伝ってやりながら、首を傾げる。
「この菓子、どうする気だ?」
「明神様にお供えするよ。だって、可愛そうだもの。せっかく、誰かが大切に作ってくれたお花」
犀星は、無意識に両手を握った。
もし、自分が恋をするなら、明のような娘なのだろう。
一瞬、彼の胸に吹き抜けた想いは甘く、そして、彼自身にも気付かぬ程に、儚かった。